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「神戸児童連続殺傷:遺族、手記回収を要求 出版社に抗議文」(6月13日、毎日新聞)
1997年に神戸市須磨区で児童連続殺傷事件を起こした当時14歳の加害男性A(32歳)が、手記「絶歌」を出版した事を受け、被害者のB君(当時11歳)の父・Cさん(59歳)と代理人弁護士が「遺族に重大な二次被害を与える。」として、版元の太田出版(東京)に抗議文を送った。12日付けで、速やかな手記の回収を求めている。
抗議文では手記の出版に付いて、「今更、事件の経緯、特にBへの冒瀆的行為等を、公表する必要が在ったとは思われません。」と記し、出版・表現の自由や国民の知る権利を理由にして正当化する事を強く非難した。
又、毎年届く加害男性からの手紙の枚数が、今年は大幅に増えていた事を明かした上で、「少しは重石が取れる感じがしていましたが、出版する事を突然に知らされ、唖然としました。」、「心からの謝罪で在ったとは、到底思えない。」等と、加害男性を批判している。
代理人弁護士によると、Cさんは手記を読んでいないと言う。
太田出版は取材に、「未だ手元に届いていないので、コメントは差し控えたい。」としている。
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元記事では実名で記されていた部分を、管理者判断で仮名とさせて貰った。
今から18年前の1997年に発生した「神戸連続児童殺傷事件」には、当時、多くの人達が衝撃を受けた。人間の所業とは思えない残忍な犯行自体も然る事乍ら、そんな心胆を寒からしめる犯行を行ったのが14歳の少年だったという事が、余りにも衝撃的だったのだ。
後に“少年A”と呼ばれる事になった加害者は少年法によって、当時未成年だったという事も在り、“公には”(ネット上では、色々拡散されていたが。)個人情報が明らかにされる事無かった。以降、週刊誌等では何度か、其の後のAの消息を扱う記事が載ったけれど、名前を変えたで在ろう事も在り、はっきりしない内容許り。はっきりしていたのは、Aから被害者遺族に対し、毎年の様に謝罪の手紙が届いているという事だけだった。
鵜の目鷹の目のマスメディアでさえ、Aの消息が全く掴めていなかったので、彼の手記が出版されるというニュースを聞いた際には驚いた。太田出版によると、今年3月上旬、Aが「原稿を見て下さい。」と同社を訪れたのが切っ掛けだったとか。数在る出版社の中から、「何故、太田出版を選んだのか?」等、幾つか不思議な点が。
自分は、此の「絶歌」を読んでいない。だから、中身に付いてどうこうは言えないけれど、「何の為の出版なのか?」という疑問は、どうしても残る。
「無知の涙」等、残忍な犯行に手を染めた加害者が手記を出版した例は、過去にも在る。「加害者の育って来た環境や犯行に到った経緯等を知る事で、同様の事件を“予防”する効果。」は在ると思うし、此の手の出版を完全否定する気は無いが、今回の出版に付いては不快さを覚える。
不快さを覚える最大の理由は、「出版するにしても、踏むべき手順が在るだろ。」という思いが在るから。「印税は、被害者遺族への補償に回す。」という事らしいが、本当に被害者や被害者遺族に申し訳無いという思いが在るのならば、「出版しても良いかどうか?」を被害者遺族に確認し、同意を得た上で出版するのが筋。何も知らせる事無く、唐突に出版するというのは、Aも太田出版も被害者遺族を愚弄しているとしか思えない。
Aは“自己救済”の為に此の本を書いたという事だが、被害者遺族の事を一顧だにしていない様な遣り口での出版では“自己満足”、もっと厳しい事を言えば“オナニー”と一緒だと思う。“自己救済”は在ったとしても、“被害者遺族の救済”は全く無い。
私はこの件の是非を判断しかねていましたが・・・。
少年Aに確かに贖罪の気持ちがあったとしても、被害者遺族にとっては時間の経過にかかわり無く、触れられたくない部分、心底許せない部分が残るであろうことは察せられます。
これは戦争の加害者被害者についても言えることですね。
韓国朝鮮人や中国人に対し、いつまで謝り続けなければならないのか、と開き直りのような発言をする人たちがいて、自虐史観だと騒ぎ立てていますが、被害者側が心からの謝罪と受取れない限り、口先だけの謝罪にしかなっていないのでしょう。
謝罪とは相手の気持ちに寄り添う事から始まる、とするなら、これは本当に難しいことなのだと改めて思いました。
犯罪の加害者が此の手の手記を出版すると、概して批判が出るもの。況してや「神戸連続児童殺傷事件」の様に世間を大きく騒がせた事件では、其の傾向が強くなるのは止むを得ない。
今回の手記の出版に関して、様々な意見が在ると思います。記事の中でも触れた様に、此の手の手記の“意義”は在ると思っていますが、自分が解せないのは「被害者遺族に、出版に付いて事前に一切断りを入れていなかった。」という手順も在りますが、「若し自分の過去を全て曝け出す事が自己救済になると考えているの“だとしたら”、此れ迄被害者遺族に送り続けていた手紙の中で、其れを行えば事足りたのではないか?態々、大々的に明らかにする必要は無かったのではないか?」という点。そういった部分に、Aの“ナルシシズム”的な物を感じてしまい、個人的には受け容れられませんでした。
「此れは、戦争の加害者被害者に付いても言える事ですね。」というのは、其の通りだと思います。日本国政府や天皇は、過去に付いてきちんとした謝罪をしている。でも、一部の人間、其れも社会的に影響力の在る人間が「日本や日本軍は、悪い事を一つもしていない。」みないな非現実的な妄言を定期的に口にする物だから、「日本は反省していない。」と攻め込まれてしまう。
記事でも書いた様に、自分は此の本を読んでいないので、内容に付いてどうこうは言えないのですが、報じられている範囲で言えば、「書き手が、自分の文章に酔ってしまっている感じ。」が結構在る様ですね。18年前の犯行文も「さあゲームの始まりです。」等、自身が主役で在る事に酔っている様な文章が目立ちましたが、そういう部分は変わっていないのかも。
出版社も企業ですから、利潤追求する事を否定はしない。扇情的な売り方をしている所も在るし、自分はそういうのが好きじゃないけれど、まあ買い手が存在する以上、其の手の出版社が存在するのは仕方無いとも思っています。
でも、本を愛する人間としては、苟も「出版社」を名乗る以上は、“最低限のモラル”は持って欲しい。若し自身が被害者遺族だったら、同様の手記出版をどう思うか?