可成り昔の記事で書いた事だが、音楽の教科書から童謡や文部省唱歌が消えて行っている。自分が子供の頃に載っていて、口遊む事が多かった物達だ。「村の鍛冶屋」【動画】もそんな1つで、「鍛冶屋が激減し、彼等が作業場で槌音を立てて働く光景を、児童が想像するのが難しくなったから。」というのが、教科書から消えた理由らしい。消えて行った理由の多くは、こういった「歌われている光景を最近見掛けなくなり、児童が想像するのが難しくなったから。」というのが殆ど。
一方で、「ハナミズキ」【動画】等の“ヒット曲”が、音楽の教科書に取り上げられる様になって久しい。何事にも言える事だけれど、「時代の移り変わりによって、新しく生まれる物が在れば、逆に消えて行く物も在るというのは仕方無い事。」では在る。だから、ヒット曲が音楽の教科書で取り上げられる事を否定はしないけれど、「情緒的な童謡や文部省唱歌が、『歌われている光景を最近見掛けなくなり、児童が想像するのが難しくなったから。』という理由“だけ”で消えて行く。」のは、とても勿体無い気がする。「歌われている光景を最近見掛けなくなり、児童が想像するのが難しい。」と言うので在れば、「どういう光景なのかを教える。」のも教育ではないか?「児童が判らないから、教えない。」というのは、本末転倒だと思う。
脚本家・内館牧子さんは週刊朝日で「暖簾にひじ鉄」というコラムを連載されているが、6月24日号では「消える一方の名曲」というタイトルで、教科書から消えて行った童謡や文部省唱歌に付いて触れている。
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教科書から消えるということは、学校で教えなくなることだ。童謡を知らない親がふえ、子に歌い聞かせなくなることだ。
何でも「時代が違う。」で切り捨てていいはずはない。今よりもずっと四季がくっきりと美しかった日本。貧しくも家族が一体となって生きた日々、貧しさゆえに荒む大人たち、口減らしで奉公に出される幼い子供たち。恋の歌にしても、現代のリベンジポルノとは正反対である。昔の老若男女の生き方や暮らしを、動揺を通して現代の子供たちに伝えることは人間形成にも大切ではないか。
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内館さんによると、音楽の教科書から消えて行った童謡や文部省唱歌には、次の様な物が在ると言う。
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〈春の歌〉
・「朧月夜」【歌】
・「さくら貝の歌」【歌】
・「青葉の笛」【歌】
〈夏の歌〉
・「浜辺の歌」【歌】
・「宵待草」【歌】
・「蛙の笛」【歌】
・「蛍」【歌】
〈秋の歌〉
・「叱られて」【歌】
・「風」【歌】
・「里の秋」【歌】
・「山のロザリア」【歌】
〈冬の歌〉
・「冬の星座」【歌】
・「冬の夜」【歌】
・「お正月」【歌】
・「たきび」【歌】
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「青葉の笛」、「蛙の笛」、「風」、「山のロザリア」、そして「冬の夜」以外は、皆知っている。知らなかった歌も、聞いてみたら、情緒的で良い。こういった歌が忘れられて行くのは、本当に勿体無い。
内館さんの印象では「50代半ばから下の年代が、日本の古い名曲を知らない。其の年代は知っている。」と思い込んでいたが、50代半ばの人との会話から、そうでも無い事を思い知らされたそうだ。
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・ある日、50代半ばの男性が「五木の子守唄」【歌】を知らないと言う。やがて彼は思い出したようで、力一杯に言った。「五木ひろしさんの子守唄ですね!」。
・また、別の50代半ばに「北上夜曲」【動画】を知っているかと聞くと、「北上薬局ですか?この近くにはないです。」と大真面目に返された。
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しかし、教科書から次々と消えているというのは許せませんね。
そりゃ、昔の職業とか道具とかが時代と共になくなるのは仕方ないですが、それでもいい音楽はいつまでも伝え続けるべきです。教師でも親でも、歌を通して「昔、こんな仕事や物があったんだよ」と子供に教える事で、歴史を学ぶ事も出来るはずです。
イメージが湧かなかったら、教科書の楽譜の横にその仕事や道具をイラストで分かり易く描いておけばいいのです。
坂本九のヒット曲に「明日があるさ」がありますが、その歌詞にある「思い切ってダイヤルを、震える指で回したよ」の「ダイヤルを回す」意味が最近の若い人はほとんど解らないでしょう。だからと言って、この名曲を「もう歌番組で取り上げない」なんて事になったら九ちゃんファンは怒るでしょう。人力車夫という職業がほぼなくなったからと言って、美空ひばりの「車屋さん」をひばりの特集番組で紹介しなくなったら大ブーイングが起きるでしょう。それらと同じことです。
で、内館さんが、消えた童謡・唱歌として紹介されてた「里の秋」ですが、この歌の3番に「さよならさよなら 椰子の島 お船に揺られて 帰られる ああとうさんよ 御無事でと 今夜もかあさんと 祈ります」とあります。これは終戦直後の昭和20年12月に発表された曲ですが、実は“南方戦線に出征した父が復員して来るのを母と子が待ち望んでいる”という意味が込められているのだそうです。戦争の傷跡が生々しい時代、この歌に感動した人が多かったというのも分かる気がします。“敗戦・復員”という日本の重い歴史を今に伝えるとても大事な歌だと思うのですが。勘ぐりかも知れませんが、そんな時代があった事をあまり教えたくないという文科省の意向もあったのでは、と疑いたくもなってしまいます。
Kei様が書かれた事、全く以て同感です。「児童が知らない事柄が歌われているから、其の歌は授業で教えない。」なんて理由が通るので在れば、「歴史なんて、今生きている我々が見聞きしていない時代の出来事を学ぶ学問だから、教える必要が無い。」、「一般人が生きて行く中で、加減乗除等、基礎的な事を除いては、数学なんて必要が無い。」等々、“必要無い事だらけ”になってしまう。
抑、学問って「知らない事を学ぶ事。」なのですから、「知らないから教えない。」というのは、本当に本末転倒です。
近年、「見聞したく無い事は、一切見聞しない。」というスタンスの人が多いですね。もっと酷いケースは、「不都合に思う事柄は、全てフェイクで在る。」という物。此れは日本だけに留まらず、世界的に増えている。「学ばない(乃至は学べない)という事は、知性を放棄する事。」だと思うのですが・・・。
扨、Kei様も御覧になっている或る番組で、先日、「記事にしたくなる方」の特集が組まれていました。近日中に記事にしたいと思っております。