本題に入る前に・・・“まえけん”、ノーヒットノーラン達成おめでとう!!
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昭和63年。17歳の篠垣遠馬(しのがき とおま)は、怪しげな仕事をしている父と其の愛人・琴子(ことこ)の3人で、川辺の町に暮らしていた。別れた母・仁子(じんこ)も近くに住んでおり、川で釣った鰻を母に捌いて貰う距離に居る。
日常的に父の乱暴な性交場面を目の当たりにして、嫌悪感を募らせ乍らも、自分にも父の血が流れている事を感じている。同じ学校の会田千種(あいだ ちぐさ)と覚えた許りの性交にのめり込んで行くが、父と同じ暴力的なセックスを試そうとして喧嘩をしてしまう。
一方、台風が近付き、町が水に呑まれる中、父との子を身籠った儘、逃げる様に琴子は家を出てしまった。怒った父は、遠馬と仲直りをしようと森の中で遠馬を待つ千種の元に忍び寄って行き・・・。
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冒頭の梗概は、第146回(2011年下半期)芥川賞を受賞した小説「共喰い」に付いて。著者の田中慎弥氏と言えば、受賞時の記者会見で一貫して不機嫌そうな表情を浮かべ、「(受賞を)断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら、都政が混乱するので、“都知事閣下”と東京都民各位の為に、貰っといて遣る。」等の“名言”を連発した事で一躍有名になった人物。ああいうキャラクターは個人的に結構好きで、受賞作を早く読みたいと思っていた。
「純文学」が対象となる賞では何時の頃からか、選考委員が受賞作を褒める際に「此の作品には、饐えた『性』の匂いがする。」とか、「生々しく『生』を感じさせる、『血』の匂いで溢れている。」という表現を多用する様になった。「『性交シーン』や『バイオレンス・シーン』が、イコール『生』を痛烈に意識させる。」という論理を完全否定する気は無いけれど、選考委員が「性」や「血」という物に重きを置き出した事により、近年は過度に「性交シーン」や「バイオレンス・シーン」を描写する小説が増えた様な気がする。「観客を呼び込む為、無理無理にヌード・シーンを盛り込み、其れを矢鱈とアピールする映画が増えた事で、肝心な中身が薄っぺらな作品が増産された。」様に、過度に「性交シーン」やら「バイオレンス・シーン」を入れ込んだ小説というのも、読み手を辟易とさせるだけだろう。
「共喰い」の世界を一言で言えば、「血と性の匂いが漂う、実に陰鬱な作品。」だ。しかし「血と性の匂いで溢れ返っている。」と言う迄の“過度さ”が無いのは、救いだけれど。
性交時に女性に対して暴力を振るうという父を嫌悪しつつも、其の父の血を受け継いでいるという事で、「何時か自分も、嫌悪する父と同じ事をしてしまうのではないか?」という怯えを持ち続け、苦悩&葛藤する少年の描写には上手さを感じなくも無いが、意味不明にも感じてしまう“ごてごてした表現”には、正直付いて行けなかった。
総合評価は星3つ。(同時収録されている作品「第三紀層の魚」(第144回芥川賞候補作)の方は、“小津作品”に似た味わいが在り、個人的には好きだ。此の作品だけなら、総合評価は星4つとしても良かった。)