一昨日行われた「バファローズvs.ジャイアンツ」戦は、実に見応えの在る試合だった。バファローズの金子千尋投手、そしてジャイアンツの菅野智之投手という両先発が、素晴らしい投球を見せてくれたので。
素晴らしい投球と言っても、中身は全く異なる。9回を投げ切ってノーヒットノーランだった金子投手は、奪三振数も「11」と完璧な投球。敵乍ら「勝利投手にさせて上げたい。」と思ってしまう、天晴れな内容だった。
一方、菅野投手の場合は、7回を投げて7安打&3四球。「1回裏:1死2塁、2回裏:2死2塁、3回裏:1死1塁、4回裏:2死1&3塁、5回裏:2死1&3塁、6回裏:2死満塁。」と、7回裏以外は全て出塁され、決して良い出来とは言えなかった。しかし、粘りの投球で点を与えなかったのは、流石今季の開幕投手を任されただけは在る。
12回表に亀井義行選手がホームランを放ち(中継で解説を務めていたのは、“ムッシュ吉田”と有田修三氏。有田氏の解説と言えば、「口にする“予想”が、悉く外れる。」という印象が強いのだが、一昨日の試合では何度か「今日のジャイアンツ打線の中では、亀井選手が一番良い振りをしている。」と口にし、9回裏もホームランを放つ直前に好結果を仄めかしていた。アナウンサーは有田氏の眼力を褒め称えていたが、「下手な鉄砲も数撃てば当たる。」の様な気もする。)、結果的にはジャイアンツが勝利したが、両チームの選手達に感謝したい好ゲームだった。
「其れにしても、彼だけピンチを作り乍ら、善くも失点しないで切り抜けられたなあ。」というのが、菅野投手の投球。6回もピンチを作れば、普通は数点しっているだろう。「粘りの投球」で片付けてしまうには足りない様な何かが、一昨日の菅野投手には在った。そして、其の「何か」の正体を知ったのは、試合終了から暫くしての事。
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「原監督、悲し・・・父・貢さん死去 今後も帰京せずに指揮」(6月1日、スポニチ)
プロ野球巨人・原辰徳監督(55歳)の父で、東海大系列校野球部顧問の原貢氏が29日午後10時40分、心不全の為、神奈川県内の病院で死去した。79歳だった。通夜・葬儀は近く、近親者のみで行い、7月14日午前11時から東京都文京区の東京ドームホテルで「御別れの会」が開かれる。貢氏は三池工、東海大相模の監督として夏の甲子園を2度制覇した。長男・辰徳との「父子鷹」でも春夏合わせて4度甲子園に出場。東海大でも指揮を執り、「野球人・原辰徳」の最大の恩師だった。
オリックスとの5時間1分に及ぶ死闘を制し、原監督は「色々な勝負が在るが、正に無限大の勝負が在ると身を以て知った。古葉(竹識)監督の言葉に『耐えて勝つ。』というのが在りますが、私の心の中にも何時も在る。正に其れを実践する事が出来た。」。広島や南海で活躍し、現在は東京国際大監督を務める名将の言葉を借りて振り返った。
其の後、巨人球団広報部から父・貢氏が5月29日に死去していた事が発表された。既に、原監督は帰りのバスの車中。死去から2日後の発表は遺族の意向による物で、オリックス戦の為に大阪滞在中の原監督は、今後も帰京する事無く、次戦のソフトバンクとの福岡遠征も指揮を執り、密葬後にコメントを発表する予定だと言う。
貢氏は心筋梗塞に大動脈解離を併発させ、5月4日に入院。原監督は翌5日の中日戦(ナゴヤドーム)の指揮を川相ヘッド・コーチに託し、緊急帰京した。そして9~11日の阪神3連戦(甲子園)のミーティングの中で、初めて選手に対して父の病状を語った。グラウンド内では勝負師に徹し、私情を持ち込む事は無かった。一方で、病院に近い横浜市内のホテルに泊まって看病に努めた。一時は、原監督が「楽観は出来ないが、少し良くなって来たかな。」と話した様に、回復の兆しも見られたが、29日の楽天戦(東京ドーム)後に訃報が届いた。
貢氏は野球の持つ不思議さと面白さを、高校野球を通じて甲子園で体現した指導者だった。「相手を凌ぐファイトと基本プレーで闘う。」。其処に、知恵を重ねて行く。2度の全国優勝は、言わば「原魔術」が齎した芸術品と言えた。1965年の三池工、1970年の東海大相模。頂点に立ったチームは、何れも下馬評に挙げられる様なメンバーでは無かった。原采配は「劣る戦力を纏めて、強敵を倒す。」という痛快な闘いを得意とし、戦国時代の軍師を彷彿させた。三池工は初の工業高優勝だけで無く、地元の石炭産業が陰っていた時代で、「ボタ山に光」という感動の出来事でも在った。
又、東海大相模時代は強打にバントをしつこく組み合わせたが、勝因は守りに在った。打者毎にデータに基づく大胆な守備位置を取り、何度もピンチで痛烈な当たりを未然に防いだ。用心深さと用意周到さ。原辰徳監督がWBCで抑えにダルビッシュ(現レンジャーズ)を起用したのも、一分の隙を見せずに勝ち抜いて来た父の雄姿を、胸に焼き付けて来たからだろう。
長男・辰徳氏が東海大相模に入学してからは、「父子鷹」として話題を集めた。他の部員以上に厳しく接し、九州男児の激しさを爆発させるかの様に、何度も鉄拳を浴びせた。一方で、原辰徳監督が「水泳や筋力トレーニング等、積極的に取り入れていた。」と述懐する様に、当時は御法度とされていた練習も奨励した。そして3年夏の大会後に、父の顔に戻った貢氏は「御前、辛かっただろう。俺も辛かったんだよ。」と声を掛けた。
貢氏に近い関係者によると、辰徳氏が幼少の頃から「息子を巨人の4番にする。」と言い続けていたと言う。其の夢は叶った。今年2月には巨人の沖縄キャンプを訪問。孫の菅野が先発した4月29日のヤクルト戦(東京ドーム)にも観戦に訪れる等、最後迄野球を愛し続けた。
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原監督にとっては「父」、そして菅野投手にとって「祖父」で在る貢氏が29日に亡くなっていた。訃報を受けてから初の試合が一昨日で在り、其のマウンドに上がったのが菅野投手だった訳で、「何としても此の試合に勝利し、祖父に勝ち星をプレゼントしたい。」という強い思いが彼に在ったのは、想像するに難く無い。だからこそ、彼程迄に奇跡的な粘り強さを見せたのだろう。原監督も、嘸や嬉しかったに違い無い。
貢氏が入院し、危険な状態に在るという報に触れた際、「原監督は、其れでもベンチを離れる事無く、指揮を執り続けるのだろうなあ。」と思った。良くも悪くも“体育会系気質”が強く、武士道やら精神論を屡々口にする原監督なので、彼の美学として「勝負師は、親の死に目に会えないもの。」というのが在ると捉えていたので。其れだけに、「1日とは言え、指揮権を川相ヘッド・コーチに託し、ベンチを離れる。」という決断を原監督がしたのは、非常に意外だった。
此の決断に対し球界関係者やファンの間から、「組織のトップが、現場を離れるとは何事か!」とか「親の死に目に会えないのが勝負師なのに、何と情け無い。」等の批判が少なからず出た。
2年前、「親の死に目」という記事を書いた。「グランプリファイナルに出場予定だった浅田真央選手が、遠征先のカナダで母親が危篤状態に陥った事を知らされ、出場をキャンセルして帰国した事に、少なからずの批判が出たけれど、彼女の決断に共感する人も多かった事。」に触れた物。
人の考えは十人十色で、美学も人其れ其れ。明々白々に違法だったり、他人様に迷惑が掛かるのは論外だが、そうじゃ無かったら、色んな考えや美学が在って良い。
私見を言えば、「原監督が批判されるのは気の毒。」という思いが在るし、自分の予想を“良い意味で”裏切ってくれた彼の決断を、心から評価している。全てを放り出して、ベンチを離れたというのなら問題だろうが、川相ヘッド・コーチという確りとした代役を立てての事だから、他者からどうこう批判される問題では無いと思うのだ。
「仕事」が重要なのは言う迄も無いが、「仕事」よりも「家族」の重要さが低いとは思わない。「『仕事』を取るか?其れとも、『家族』を取るか?」と言われば、自分は迷わずに「家族」を取る。「仕事」を選択する人が居たって、其れは其れで個人の自由だが、自分は「家族」よりも「仕事」の方が重要とは思えない。