“光の球場”とも呼ばれた東京スタジアム、王貞治選手が世界新記録となる756号ホームランを放った後楽園球場、“野武士集団”が躍動した平和台球場等、今はもう現存しない野球場が幾つか在る。其れ等の中でも、実態が良く判らない球場の1つが、“幻の球場”とも呼ばれている洲崎球場。*1「1936年、プロ野球専用球場として江東区新砂に開場した木造の野球場だが、プロ野球の試合が実際に行われたのは3年間だけ。1943年頃には解体されたと言われており、非常に短命な球場だった。」位の知識は在ったが・・・。
11月5日付けの東京新聞(朝刊)のコラム欄「TOKYO発」に、洲崎球場に関する記事が載っていた。
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日本初のプロ野球リーグが始まった1936(昭和11)年、東京湾の埋め立て地に突貫工事で野球場が建てられた。「洲崎球場」だ。短い命で終わり、謎に包まれた歴史を、1人の会社員が追い続けている。
地下鉄東陽町駅から300m程。マンションや工場の囲む歩道に、「『伝統の一戦(巨人・阪神)』誕生の地」と記した碑が在る。1936年12月、プロ野球初代日本一を決する3連戦が在り、澤村栄治が3連投した東京巨人軍(現読売巨人軍)が2勝1敗で、大阪タイガース(現阪神)を破った。
埋め立て地に造られた球場は水捌けが悪く、満潮時には海水が入り込み、スタンドを蟹が歩いた。僅か3年で使われなくなり、「幻の球場」と呼ばれていた。
「此処が在ったから、今のプロ野球が在る。忘れられた儘ではいけない。」。神奈川県鎌倉市の会社員・森田創さん(40歳)が調査を始めたのは、昨年3月。勤務する鉄道会社で担当した大規模プロジェクトが一段落し、次に打ち込める事を捜していた時、球場の事を知り、思い立った。
東名阪の7球団による「日本職業野球連盟」の1936年の発足に合わせ、東京新聞の前身「國民新聞」が創設した「大東京軍」の本拠地として建てられた事は判っていた。図書館に通い詰め、國民新聞や、巨人軍の母体の読売新聞の過去記事を捜した。古書店街でも資料を捜した。
1万人を収容する、東京では初めてのプロ専用球場。起工式から51日の突貫工事で完成した。海抜60cmの地盤は緩くて、杭が打てない。杉材を組み合わせたスタンドを、直に地面に置いた木造球場だった。御披露目は10月15、16日、大東京軍対名古屋軍(現中日)のオープン戦が予定された。
「其れが前日の雨の所為で、試合当日はかんかん照りなのに、グラウンドはぐちゃぐちゃ。暫くは使えなかった様です。」。21日迄延期して、漸く試合が出来た。
1937年9月の後楽園球場完成で、プロ野球の試合は殆ど行われなくなり、演芸イヴェントやボクシング、小学校の運動会の会場にもなった。最後のプロ野球試合は、1938年6月12日。翌年3月に、名古屋軍の春季キャンプに使われたのが最後の記録だった。1944年10月、陸軍が撮影した航空写真では更地になっている。
森田さんは國民新聞の空撮写真等を基に、知人の一級建築士と協力して、球場の200分の1の模型を制作。先月末には球場の歴史を追った「洲崎球場のポール際」(講談社)を出版した。球場に行った事の在る男性4人と、澤村栄治の長女・酒井美緒さんにも話を聞いた。
球場の輝きが失われて行くのは、1937年の日中戦争開戦で、日本社会が暗い空気に包まれて行くのと歩調を合わせてだった。「洲崎球場を知る人は、皆『良い時代だった。』と懐かしんでいた。此れからは、戦争で運命を狂わされた野球選手の光と影に付いても焦点を当てて行きたい。」と言う。
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【洲崎球場】
洲崎球場が開業した1936年と言えば、日本が戦争の道を突き進んで行く切っ掛けともなった「2・26事件」が、2月に発生した年でも在る。
「1万人を収容する球場が、僅か51日間の突貫工事で造られた。」というのも凄いが、「地盤が緩いので杭が打てず、杉材を組み合わせたスタンドを、直に地面に置いただけの球場。」というのは驚き。普通に考えると“長く使って行く施設”と言うよりも、“間に合わせの施設”といった感じがする。
又、「満潮時には海水が入り込み、スタンドを蟹が歩いた。」というのは、牧歌的というか何と言うか。
*1 此方で洲崎球場跡に付いて、詳しく触れられている。