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アメリカでは、カトリックの信徒は大統領になれないと言われていたのです。
1960年にケネディが大統領選挙に出たときのことです。ケネディはカトリックの信者でした。そのため保守系のプロテスタントの聖職者たちを中心として、「ホワイトハウスがヴァチカンに支配される。」と訴えるネガティヴ・キャンペーンが繰り広げられました。カトリック教徒はローマ法王の命令を聞かなければいけないから、もしケネディが大統領になったら、ローマ法王の傀儡になるだろうという危惧がとりざたされたのです。
そこでケネディは、「自分の信仰と国家への忠誠は別だ。」と宣言しました。「私はカトリックであるけれども、アメリカのために尽くします。国家においては他国の指示は受けません。」と、彼なりの政教分離を宣言したのです。
アメリカではいまでも、カトリックの大統領候補が出てくると、「おまえはどっちに忠誠を誓うのか?」と、ローマ法王との関係が問われます。重大問題なのです。
そこは日本とは大違いです。日本では、総理大臣がどんな宗教であろうと、まるで気にされません。麻生太郎元総理はカトリックですが、「お前はローマ法王の言うことを聞くのか、天皇の下で日本の国民のために尽くすのか?」と問われることはありませんでした。カトリックであることが話題になることさえありませんでした。しかしドイツの新聞では、日本にカトリックの総理大臣が誕生したと報道されていたのです。
大平正芳元総理はプロテスタントでしたが、総理に就任したとき、正月に伊勢神宮に参拝するのかどうか問題にされたことがありました。新聞記者が、「あなたはキリスト教徒ですけど、伊勢神宮の参拝は問題にならないですか?」と聞いたのです。すると大平総理は「うーん、それは問題だわなあ。」と答えました。「アー、ウー。」で知られた大平さんらしいとは言えますが、なんとも深刻さの感じられない答えです。大平さんは家では写経をしていたという話もありますし、金光教のお言葉をいつも手帖に書いて持っていたともいわれています。非常に日本的ですね。
いまも総理大臣の宗教が問題になることはありませんし、たとえカトリックだったとしても、ローマ法王との関係はどうなのかと突き詰めて考えられることもありません。
一見、宗教にまるで無関心な態度です。しかし、実はそうではなくて、他人がどの宗教であろうと問題にしていないだけのことです。別になんでもいいじゃないか、と思っている。アメリカの場合はそうはいかず、アメリカのために尽くすのか、他国のトップの命令を聞くのか、という厳しい話になるわけです。
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今年の3月11日以降、宗教関連の本が良く売れているそうだ。確かに書店を訪れると、そういった本が結構並んでいるのを目にする。「自然の脅威の前に、数多の人命が余りにも呆気無く奪い取られてしまった現実。」を目にすると、「死生観」を真剣に考える人が増え、其の事で「宗教」という物に関心が集まったのだろう。決して「特定の宗教に縋る。」というのでは無く、「自分形の死生観を構築する上での参考資料。」という位置付けではないかと思っている。
池上彰氏の本「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」を読んでいて「面白いな。」と思った記述が、冒頭に記した物だ。日本人は概して宗教に無関心で、「自分は無宗教だから。」と口にする者も少なくない。斯く言う自分も「檀家」の一員では在るが、別に仏教を信じている訳では無く、「宗教に縋る位なら、何故御先祖様に縋らないのか?」という考えの人間だ。「宗教が嫌い。」と言うよりも、「私利私欲の充足を最優先している様なトップが鎮座する宗教団体が多いのが嫌。」というのが、自分の正直な思い。
「麻生元総理がカトリック信徒というのが、話題になる事さえ無かった。」と池上氏は記しているけれど、そこそこ取り上げられていた気はする。でも、「其れだからと言って、どうこうという話にはならなかった。」というのは確かだろう。
唯、思うのは「伝統的な宗教の信者だったから問題にはならなかったろうけれど、此れが新興宗教の信者が総理大臣になったとしたら、“流石に”大問題になるだろうなあ。」という事。「総理大臣になったら」と言うよりも、「国民の大反対に遭って、総理大臣になれないだろう。」という気もする。(上記した「金光教」は新興宗教の範疇とされるが、手帖に金光教の言葉を書き写していただけで「大平元総理が金光教信徒だった。」とするのは無理が在る気が。)
以前より何度も書いているけれど、「明々白々に違法で無く、且つ他者に迷惑を掛けないので在れば、何を信じようが全くの自由。」というのが自分のスタンス。だから、どんな宗教を他者が信じようが全くの自由。でも組織のトップが政治を私的に利用しようとしている様な宗教団体自体は看過出来ないし、そういう傾向が強そうな新興宗教の場合は、其の信者が総理大臣になるというのは強い抵抗が在る。“仲間”で在る信者は別にして、“一般的には”同様に抵抗を感じる人が多いのではないだろうか?
信教の自由は尊重されるべきものだし、何をどう信じようが個人の問題。しかし他人に影響を及ぼす「政治」がらみでは「政教分離」はもっと徹底されるべきではと思います。
こんなことを考えるのは、「世界は神の下に統一されるべきもの」とする、宗教の根本とは相反するのでしょう。でも、宗教の究極の目的が其処にあるからこそ、自分たちの信仰する宗教(宗派)こそが正答であり、他は邪教に見えて、宗教観の違いによる紛争が世界中で起こるのではないかと。
ま、日本人は他所に比べて、宗教におおらかなんでしょうね。包容力があるというか。
数多の「宗教」が此の世の中には存在していますが、其の多くが求める事柄は「人の救済」と「人心の安寧」に在る筈。なのに信者から金銭を巻き上げ、自らの教えと少しでも違う考えの人達を“取り除く”事に汲々としている宗教団体が余りに多い事から、「宗教って何なんだ?」と不信感を持つ人が増えている気がします。
「カトリックは曾野綾子や渡部昇一、挙句の果てに福井の稲田朋美議員までいるので神道よりコンサバ。うちの親類女性もその口。神道の人より復古的かもしれない。毎年正月に遥々皇居まで行ってる(親類女性京都府民)。プロテスタントや浄土真宗は左翼が多い。親類女性はそういう反皇室勢力と戦い、カトリックの神父ともなぜか戦っていて、高血圧と加齢原因の耳鳴りのたびに「人工地震が来る」と大騒ぎ、「盗聴されている」と思い込んでいる。父(親類女性の従兄弟)は病院にいったほうがよいと思っているが、聞き入れるとは思えない」
話の肝は後半の彼女の父親の困惑がテーマでした一番近い身寄りゆえにトラブルのたびに尻拭いをしている。神父と「病院に入れたいがどうしたら良いか」と何年も話し合ってるが事件でも起こさない限り難しい、困った、という深刻な悩み。
政治の話に戻ると確かにカトリック、神道→右翼。プロテスタント、浄土真宗→左翼、というカラーはあるかもしれない。しかし信者数が多いので一概には言えません。(例:森元首相は浄土真宗だが…http://www.shin.gr.jp/activity/offer/doc/20000601.html)
しかし友人の親類のように熱心すぎ、本気で自分は神の道に生き、世界を救うのだと思っているが周囲は迷惑しているというケースが一番困ります。しかし多くの新興宗教を起こした人はこの手の人が多い。友人の親類も明治時代だったら「神と対話している人だ」と思われて扱いが違ったかもしれない。
生長の家信者議員は昔多かったですが、今はどうなのだろう。右翼学生、新右翼暴力団体(いわゆる暴力団系ではなく、旧来の右翼でもない団体)=生長の家学生、という時代がありました。
昨日、野暮用で訪れた都内の某所で、「日本スマイル党」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%85%9A)の総裁・マック赤坂氏(http://www.youtube.com/watch?v=lUUfaQDm-yI)が街頭演説している場面に出くわしました。相変わらずの“イキっ振り”には笑ってしまいましたが、彼も一種の宗教という感じが。
「マリリン・モンローを交霊するイタコ」(http://www.youtube.com/watch?v=0sBPC6Z2jEg)とか、「宇宙人と黒電話で更新する自称・宇宙人」(http://www.youtube.com/watch?v=a3iX2UR1Eg0)なんていうのならば笑えるレヴェルの可愛さが在るけれど、他者にオカルト的な物を強要するとなると、其れは話が別ですね。
特定の宗教団体との近しい関係を指摘されている政治家は結構居ますが、心底其の教義を信じている者は果たしてどれだけ居るものかと。其の多くは、「集票力」を期待しての接近の様に感じます。でも特定の宗教団体に利益を齎す様に政治家が動いたならば、其れは大問題。「宗教分離の原則」が形だけの物になる事は、決して許してはならない。
先達ての民主党党代表選挙に出馬した候補の中には、奥様が某新興宗教の信者と言われる人物が居ましたね。政治家本人は違っても、其の家族が特定の宗教団体の信者というケースも在り、其の活動振りが熱心で在れば在る程、連れ合いを通しての政治介入の可能性を懸念します。