ゴールデンイーグルスの田中将大投手が、昨夜も勝った。開幕から12連勝で、防御率は「1.24」迄上昇。「今季のパ・リーグの最多勝利は、田中投手で確定。」と言っても良いだろう。
開幕前の順位予想では「パ・リーグの再開に予想したゴールデンイーグルス。」だが、昨日の試合が終わった時点で2位のマリーンズに2.5ゲーム差を付けての首位。同チームの貯金が「12」だから、田中投手1人で全ての貯金を叩き出している事になる。正にエースだ。
「向かう所敵無し」を実践している田中投手。不安に感じるのは、「(ダルビッシュ有投手と同様)対戦相手に物足りなさを感じ、メジャーに挑戦するのではないか?」という点。パ・リーグの打者達の、一層の奮起を望む。
野球関連の話を続ける。「外出先で見た、未だに忘れられないジャイアンツ戦。」というのが、自分の場合は2試合在る。「1987年8月9日に“ナゴヤ球場”で行われた『ドラゴンズvs.ジャイアンツ』戦。」と「1988年7月6日に札幌円山球場で行われた『ジャイアンツvs.ドラゴンズ』戦。」だ。奇しくも2試合共に、対戦相手はドラゴンズ。
「1987年8月9日の試合」は、旅先でTV観戦していた。学生時代の友人達と旅行している最中で、ドラゴンズの先発はルーキーの近藤真市(当時は「真一」の名前で登録されていた。)投手で、一軍では初登板だった。8回を除いて毎回の奪三振を奪った(13奪三振)彼は、結局、ジャイアンツ打線を相手に「プロ入り一軍初登板ノーヒットノーラン」という偉業を達成するのだが、(ジャイアンツの)最後の打者となったのは好打者の篠塚和典(当時は「利夫」の名前で登録されていた。)選手だったので、一緒に見ていたジャイアンツ・ファンの友人達も「篠塚選手なら絶対にヒットを打って、ノーヒットノーランを阻止してくれる!」と信じていた。だから、彼が見逃し三振に終わった瞬間は皆、「嘘だろ・・・。」と茫然。
「プロ入り一軍初登板でノーヒットノーランを達成するなんて、近藤投手は途轍も無い大投手になるかも。」と、其の後は友人達と話したものだが、残念乍ら彼は6年間という短い現役生活で、通算成績も「12勝17敗」という期待を裏切る事に。
「1988年7月6日の試合」は、食堂でTV観戦していた。ディープな野球ファン、特にジャイアンツ・ファンならば、「札幌丸山球場の試合」という事でピンと来るかもしれない。8回表、ジャイアンツの守備時、此の回からセンターに入った栄村忠広選手が、(ドラゴンズの)中尾孝義の放った打球を捕りに行った際、同じく打球を捕りに行ったレフトの吉村禎章選手と激突。余りの激しさに、TV中継を見ていた女性が「えーっ!!」と悲鳴を上げたのが忘れられない。
激痛でのたうちまわっていた吉村選手は、其の儘担架で運び出され、病院に直行。診断結果は「左膝靭帯断裂」(「交通事故に遭ったレヴェル」と当時は言われていた。)。「将来、“不動の4番打者”になるだろう。」と期待されていた吉村選手だったが、厳しいリハビリに耐えて1年後に“復活”するも、期待が大きかっただけに其の後の結果は、決して満足の行く物では無かった。「彼の事故さえ無ければなあ・・・。」と、今でも残念でならない。
「今でも残念でならない。」と言えば、栄村選手も同様。彼自身は大きな怪我を負う事は無かったが、「吉村選手に大怪我を負わせた選手」というバッシングが多かった様だし、彼の其の後の野球人生にも大きな暗い影を落とした様に思う。事故の前年、イースタン・リーグで“盗塁王”のタイトルを獲得した彼も、少なからずの期待をされた選手だったからこそ、「彼の事故さえ無ければなあ・・・。」と何度思った事か。
レンタルビデオ屋で宇宙企画などのビデオを物色中に部屋の片隅に有ったテレビがノーヒットノーランを達成したと言うアナウンスが耳に入り急いでテレビの前に行きました
しかしノーヒットノーランは達成したけどその後は鳴かず飛ばずの近藤が何故かドラの一軍の投手コーチをしてるのか不思議です
入団する時にドラゴンズが将来は投手コーチにするとの密約があったりして?
近藤投手のデビュー戦は、正に「衝撃」の一言でした。「茫然自失」という言葉が在りますけれど、彼の試合を見終えた直後のジャイアンツ・ファンの多くが、そういった状態だったのではないかと。其れだけに、其の後の成績は残念だし、本人も不本意だったでしょうね。
「名選手、必ずしも名指導者ならず。」と言われますし、指導が上手ければ選手時代の実績は無関係とも思っていますが、指導者になったOBの中には、「何で此の人が?」と首を捻ってしまうケースも少なく無い。近藤投手に密約が在ったかどうかは判りませんが、そういうケース自体は在るでしょうね。又、ジャイアンツの場合は特に顕著だけれど、「学閥」や「個人的な親しさ」といった“派閥”が、チーム作りに大きな影響を及ぼしている様に感じます。