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「『1人で歩くな。』 全盲男性、点字ブロックで通行人とぶつかり、白杖壊れ、蹴られる 八王子」(7月5日、毎日新聞)
東京都八王子市の京王八王子駅前の路上で今月3日、点字ブロックの上を歩いていた全盲の男性が通行人と正面からぶつかり、白杖が壊れた。杖を拾おうと屈んだ所、男の声で「目が見えないのに、1人で歩くな。」と言われ、右足を蹴られたと言う。怪我は無かったが、相手は其の儘立ち去ったと言う。
被害に遭ったのは、NPO法人「八王子視覚障害者福祉協会」副理事長で市内に住む宮川純さん(41歳)。3日午前8時頃、JR八王子駅前でバスを降り、歩いて職場の福祉事業所に向かう途中だった。予備の杖を使って、職場に着く事が出来た。
散らばった杖の部品を拾ってくれた通行人が、ぶつかった相手は「20~30代のサラリーマン風の男」だったと教えてくれたと言う。宮川さんは、ぶつかった直後にスマートフォンが落ちた様な音を聞いた。毎日新聞の取材に「若し『歩きスマホ』なら、絶対に止めて欲しい。白杖が無ければ、外を一歩も歩けない人が居る事を判って欲しい。予備の杖で歩いているが、不安で堪らない。」と訴え、助けてくれた人や心配して声を掛けてくれた人に感謝の気持ちを述べた。
社会福祉法人「日本盲人会連合」は6月、駅の安全対策として「歩きスマホの禁止」等に取り組む様に、国土交通省に陳情している。通行人とぶつかって転倒し、入院した例も在ると言う。
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貴方が健常者だったら、想像して欲しい。「目隠しをされた状態で、持たされた杖だけを頼りに、1人で街中を歩かなければならなくなった所、突然、誰かがぶつかって来て転倒。杖は壊れ、罵声を浴びせられた上、足を蹴られた。」ら、どんなに恐ろしい事か。
「歩きスマホをしている人にぶつかられる。」、そんな経験を自分も何度かした事が在る。健常者の自分でも怖さを感じるのだから、全盲の人だったら、其の怖さは想像するに難く無い。自転車で歩道を暴走するのもそうだが、歩きスマホも取り締まって欲しい。
全盲の人にとって白杖は、“自身の目”と言って良い。件の男性が本当に歩きスマホをしていたどうかは判らないけれど、全盲の人にぶつかって、相手の目で在る白杖を壊し、「目が見えないのに、1人で歩くな。」と心無い言葉を浴びせ掛けた上、相手の足を蹴り上げる。自分が逆の立場だったら、どう感じるか?想像力が全く無く、優しさを感じられない馬鹿が、残念だけれど増えている気がする。
其の一方、今回、助けてくれたり、心配して声を掛けてくれた人も居る。個人的な感覚で言えば、“他人の事を非常に思い遣れる人”と“他人の事を全く思い遣れない人”という両極端さが顕著になって来ていて、“真ん中のゾーンに居る人”が減って来ている様な感じがしている。
そんな難しいことではなく、ごく単純なことさえもイメージできない、想像力の鈍い人が増えているのでしょうかね。
想像できないなら実際に体験してもらうほかないですね。
目隠しをしたり車いすに座ったままで、街や駅に出かけてみる、そんな体験学習を子どもなら「道徳」の時間で学ばせる。
社会人なら先ずは企業などで経営者や管理職自ら体験し、新人研修に取り入れる。
自分の身に降りかかってようやく気付くこともあるわけで、教科書を読んだり、社長訓話などで上っ面の綺麗ごとを学ぶより大事なことではないでしょうか。
他人様に対して「ああだこうだ。」言える様な人間では無いけれど、そんな自分ですら「想像力や思考力が余りにも欠如した人が増えている。」事に愕然とさせられる事が多いです。此れは頭の良し悪しの問題では無く、“人間力”に問題が在るのではないかと。偏差値的には非常に優秀で在っても、人間力が恐ろしい程に無い。老若男女を問わず、そういう人達が増えている様な気が。
昨日放送された番組内で、或るコメンテーターが「最近、自分にとって嫌な事は一切見様としない許りか、見たとしても“存在していない事柄”として、頭の中から排除している人が、凄く増えている気がする。」といった趣旨の発言をしていましたが、此れも同感ですし、人間力の無さを反映しているのではないかと。
想像力の欠如を引き起こす理由は、幾つも在るでしょうね。悠々遊様が書かれた取り組みも、想像力を涵養させるのは良い事だと思います。
個人的には「読書という習慣が無い人が増えた事が、想像力欠如人間を生み出している面も在るのではないか?」という気がしています。本大好き人間の自分からすると考えられないのだけれど、昨今は「本を一切読まない人というのも、結構増えている。」と聞きます。読書によって様々な事を教えて貰い、想像力を鍛えて貰ったと思っているので、余計にそんな気がするのです。
以前、通勤時、駅のホームの黄線の上にカバンを置いて体操してるバカがいました。そこを目の不意自由な人が歩くということを想像できないのでしょうか。私が注意するとこわい目でにらんで、あっちへ行きました。
雨の日、駅や地下道を傘を持って歩きますね。傘を水平に持ってあるくバカがいます。後ろにも人がいるということを想像できないんですね。傘は垂直に立てて持つもんです。
点字ブロックの上に物を置いている(自転車を停めているケースも含め。)人や傘を水平に持って歩いている(火の点いた煙草を手に持ち、其の手を前後に振っているケースもそうですが。)人を見掛けると、「自分がどんなに危険な事をしているのか理解出来ないんだろうか?」と首を捻ってしまう。
とは言え、自分もそう偉そうな事は言えない所も在ります。大分前、「エスカレーターで、空いている側(関東なら右側、関西なら左側)を、歩いて上らないで下さい。」という通達が出ましたが、其れ以前は、ぜっかちな自分は普通に空いている側を歩いて上がっていたので。
「エスカレーターを歩いて上がると、機械に不具合を生じ、緊急ストップが掛る可能性が在るから。」というのも「成る程。」でしたが、「半身不随の方等、空いている側にしか立てない人にとって、歩いて上がる人の存在は、非常に危険なので。」という理由には、「確かにそうだ。」と、其の時点で気付かされたので。
以降、歩かない様に留意していますが、ふっと無意識の内に歩いて上がりそうになる事も在り、「拙い!」と慌てて止めたりも。
けど、何か他人事を怒るてるようにも読めます。私の個人的意見ですが。
何か自分だけ別物として上から目線で語るているような。
誰にも急いで慌ててる時はりますね。
その時にグズグズと小銭を並べている老人に、舌打ちしたことはありませんか?
無いのなら御立派です。
でも、あるならば「同じ」でありませんか?
勿論、不自由な方に暴力をふるうなど問題外です。
でもプレッシャーを与えているのは同じ。普通に生きている庶民として、何か自分だけ上から目線で物を仰るているように見えますが。御自分の過去に悔やみはないのですか。
「急いでいる際、グズグズと小銭を並べている老人に、舌打ちした事。」、心の中で「早くしろよ!」と思った事は何度も在りますが、流石に舌打ちは無いですね。でも、心の中とはいえ、そう思う事は決して良く無いし、具体的な態度には出さなくても、無意識の内に表情に表れている可能性は在る。だから、偉そうな事は言えないのは確かです。
でも、“上から目線”の一言で片付けられてしまうと、こういう場所で何も発言出来なくなる。「こういうおかしな事が在った。許せないよね。」と自己反省も含めつつ、主張するのが世の中だと思います。
今後とも、何卒宜しく御願い致します。