ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「謎のマンガ家・酒井七馬伝」 Part1

2007年09月14日 | 書籍関連
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昭和43年、手塚治虫の大作『火の鳥』が世の話題を攫う中で、一人の身寄りの無い老人が人生の長い旅路を終わろうとしていた。病院に収容された時には既にもう手遅れ。コーラを食料にし、電球で暖を取る様な荒んだ生活が、更に結核に冒されて衰えていた老人の体力と気力を完全に奪っていた。唯一つの持ち物で在る、色の褪せてしまったボストンバッグの中に、一冊の漫画本が混じっていた。もうかなり古い。紙自体が茶色く変色し、木枯らしの中で開けようものなら、そのまま砕けてしまいそうに風化している。『こりゃ赤本だね。』臨終を知らすべく身元の判る物を捜していた一人の中年医師が、懐かしそうに呟いた。 - 「手塚治虫まんが大研究」(著者:副島邦彦氏、1982年講談社発行)

(影響を受けた漫画家に付いて鴨川つばめ氏が語った言葉。)やっぱり餓死っていう所が・・・。僕達は田舎に居て、親に食わせて貰っている状態だと、今の時代に餓死っていう事は、一寸考えられないですからね。こんなに漫画を愛している人がどうして飢え死にしなくてはならないのかという所ですね。ショックと同時に(酒井先生を餓死に追い込んだ)漫画界に対する猛烈な怒りが・・・。 - 「消えたマンガ家」(著者:大泉実成氏、1996年太田出版発行)

ところで、僕とコンビを組んでいた酒井七馬氏だが、『新宝島』の後、大変な密画の絵物語を数冊出したきり、ブームに乗ろうともせず引き下がってしまったのである。聞けば、余りに凝りに凝った画風の為、時流に乗った多作が出来ず、やがて新人達に押し流されてしまったのであろうという。僕が東京にを移してからは、全然音信が絶えていたが、二十年近く経った昭和43年の春、久し振りで御目に掛かった。何時もの如く瀟洒な服を隆と着こなし、長老として磊落に世間話等する氏に接し、嗚呼、老いて尚健在だなと思った。それから一年も経たない或る日、突然、氏が肺結核で亡くなったという知らせが入った。何でも、入院費も治療費も無く、バラックの自宅にたった一人、寝たきりのままコーラだけを飲み、スタンドの灯で暖を取っているのを人が発見した。が、その時はもう手遅れだったそうである。 - 「ぼくはマンガ家」(著者:手塚治虫氏、1969年毎日新聞社発行)
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「手塚治虫」という漫画家を知らない人間は少数派と言っても良いだろう。千を超える彼の作品から多くの知識を得た自分故、彼は敬愛する人間の一人で在る。そして彼が初めて世に出した単行本「新宝島」(プロの漫画家としてのデビュー作は、小国民新聞に連載された「マアチャンの日記帳」。)は、それ迄の漫画とは異なる映画的描写(動きの在る描写)が大きな反響を呼び、この作品に衝撃を受けて漫画家を志した者(藤子不二雄氏等)が続出する等、我が国の漫画文化に多大な寄与を果たした作品というのも有名な話。当時としては驚異的な発行部数40万部を記録したとも言われ、初版本は数百万円もすると報道された事も。

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