名古屋で開催された障害者も障害の内容も健常者も全く関係なく同じ土俵でプレー出来るという試合に出場してきました。
今回は今までになく多くを学べたように思えています。
なのでいつも以上に長くなりそうなので数回に分けて書こうと思いますが、最初の今回は自分のことよりもまず大会に参加して時々目の当たりにする疑問に思うことを書かせていただこうかと。
今回の大会は予選落ちをしない形式で、3人で予選リーグを行い1位、2位、3位がそれぞれの決勝トーナメントに勝ちあがるという形式のもの。
その方が同じエントリー料金でより多くの試合が出来るというもので今人気のスタイルのようです。
こうした試合に限ったものではないのですが、以前から度々耳にしていたのが「わざと負けて予選を2位(3位)で上がる」というようなこと。
「2位で上がった方が決勝トーナメントの組み合わせが楽だから」
という理由であえて力を出さずにわざと負けて勝ち上がるということです。
そうして勝った本人も「相手は全然本気でやってなかった」とコメントします。
本気でプレーしていない相手に勝つ。
そこには勝者の喜びは存在しないでしょう。
むしろ屈辱感とか相手に対しての不信感などの方が勝るのではないかと思います。
そもそも選手宣誓で「我々選手一同は スポーツマンシップに則り 正々堂々・・・」と誓いますが、「わざと負ける行為」はそのスポーツマンシップに則ったことになるのかずっと疑問に思っていました。
以前、健常者の全日本選手権ランカーの方にそのことを尋ねたことがあります。
組み合わせを見てそうした「2位上がり」を選択するようなことはトップ選手でもやるのですか?と。
すると即答「ありません」と。
だっていずれはどこかで当たることになるわけだし、みんな頂点を目指してやるわけだからそんなことをしても意味がない、ということでした。
ちなみにその方は個人的に「小さいね(笑)」と笑っていました。
それに、もし自社が契約している選手がそういうことをしていたらスポンサーも企業イメージの悪化になりかねないから契約の見直しを図るだろうし、それは選手の活動に直結するからトップ選手にそういう選択肢は微塵もないでしょう。
一般のレベルであれば「その方が勝てる」「賞品がもらえる」などの個人的な欲望が勝るのも当然理解できます。
でもそれって「マナー」の問題なんじゃないかと思うんですね。
「ルール」は破るとペナルティーが生じる。
でも「マナー」は守らなくてもペナルティーはない。
だから「マナー違反であったとしてもルール違反はしていないから大丈夫でしょう」と言うのと同じだと思います。
それって前都知事の辞任問題と同じじゃないかと(笑)
確かにルール(法律)上の違反ではないかもしれない。
でもそれに民意は敏感に反応し、結局は最も重いペナルティを負う羽目になった。
民間の卓球大会を政治の世界と同様に見るのも変な話だと思いますけど、いずれにせよスポーツの世界と言うのは競技を問わずプレイヤー同士が激闘の末に「互いを称えあう」からこその感動があると思います。
今まさに僕らは画面を通してリオでのそうしたシーンを目の当たりにしていますし、それを模倣することで自分もまた目先の損得とは比べ物にならない大きなものを得られると思うんですけどね。
相手から称えてもらえるような選手とはどういうものなのか?
まぁ十人十色と言いますし人それぞれ見ているものがあるからこそなのでしょうが、でも自分の視界は自分にしか見えない、逆に人から見えるものは自分が何を行ったかといういわば外面だけなので、まずそこで批判をあびることのないように気をつけて、かつその外面がメッキレベルで終わることのないように少なくとも僕自身はしっかり取り組んでいこうと思います。
「車椅子なのにすごいね」と言われるプレー、かつプレーヤーでありたい。
こうした「ふれあい大会」だからこそそう言われる機会も多いのですが、今回共に卓球を学ぶ友人たちをギャラリーを含め僕の周囲の方々は皆声を揃えて「すごいね」と言ってくれていました。
真摯に取り組むからこそ賛美を頂戴出来る。
そういう友人たちに囲まれた僕自身も幸せです。
反省記についてはまた次回。
今回は今までになく多くを学べたように思えています。
なのでいつも以上に長くなりそうなので数回に分けて書こうと思いますが、最初の今回は自分のことよりもまず大会に参加して時々目の当たりにする疑問に思うことを書かせていただこうかと。
今回の大会は予選落ちをしない形式で、3人で予選リーグを行い1位、2位、3位がそれぞれの決勝トーナメントに勝ちあがるという形式のもの。
その方が同じエントリー料金でより多くの試合が出来るというもので今人気のスタイルのようです。
こうした試合に限ったものではないのですが、以前から度々耳にしていたのが「わざと負けて予選を2位(3位)で上がる」というようなこと。
「2位で上がった方が決勝トーナメントの組み合わせが楽だから」
という理由であえて力を出さずにわざと負けて勝ち上がるということです。
そうして勝った本人も「相手は全然本気でやってなかった」とコメントします。
本気でプレーしていない相手に勝つ。
そこには勝者の喜びは存在しないでしょう。
むしろ屈辱感とか相手に対しての不信感などの方が勝るのではないかと思います。
そもそも選手宣誓で「我々選手一同は スポーツマンシップに則り 正々堂々・・・」と誓いますが、「わざと負ける行為」はそのスポーツマンシップに則ったことになるのかずっと疑問に思っていました。
以前、健常者の全日本選手権ランカーの方にそのことを尋ねたことがあります。
組み合わせを見てそうした「2位上がり」を選択するようなことはトップ選手でもやるのですか?と。
すると即答「ありません」と。
だっていずれはどこかで当たることになるわけだし、みんな頂点を目指してやるわけだからそんなことをしても意味がない、ということでした。
ちなみにその方は個人的に「小さいね(笑)」と笑っていました。
それに、もし自社が契約している選手がそういうことをしていたらスポンサーも企業イメージの悪化になりかねないから契約の見直しを図るだろうし、それは選手の活動に直結するからトップ選手にそういう選択肢は微塵もないでしょう。
一般のレベルであれば「その方が勝てる」「賞品がもらえる」などの個人的な欲望が勝るのも当然理解できます。
でもそれって「マナー」の問題なんじゃないかと思うんですね。
「ルール」は破るとペナルティーが生じる。
でも「マナー」は守らなくてもペナルティーはない。
だから「マナー違反であったとしてもルール違反はしていないから大丈夫でしょう」と言うのと同じだと思います。
それって前都知事の辞任問題と同じじゃないかと(笑)
確かにルール(法律)上の違反ではないかもしれない。
でもそれに民意は敏感に反応し、結局は最も重いペナルティを負う羽目になった。
民間の卓球大会を政治の世界と同様に見るのも変な話だと思いますけど、いずれにせよスポーツの世界と言うのは競技を問わずプレイヤー同士が激闘の末に「互いを称えあう」からこその感動があると思います。
今まさに僕らは画面を通してリオでのそうしたシーンを目の当たりにしていますし、それを模倣することで自分もまた目先の損得とは比べ物にならない大きなものを得られると思うんですけどね。
相手から称えてもらえるような選手とはどういうものなのか?
まぁ十人十色と言いますし人それぞれ見ているものがあるからこそなのでしょうが、でも自分の視界は自分にしか見えない、逆に人から見えるものは自分が何を行ったかといういわば外面だけなので、まずそこで批判をあびることのないように気をつけて、かつその外面がメッキレベルで終わることのないように少なくとも僕自身はしっかり取り組んでいこうと思います。
「車椅子なのにすごいね」と言われるプレー、かつプレーヤーでありたい。
こうした「ふれあい大会」だからこそそう言われる機会も多いのですが、今回共に卓球を学ぶ友人たちをギャラリーを含め僕の周囲の方々は皆声を揃えて「すごいね」と言ってくれていました。
真摯に取り組むからこそ賛美を頂戴出来る。
そういう友人たちに囲まれた僕自身も幸せです。
反省記についてはまた次回。
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