車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

自己防衛

2025年01月29日 21時33分42秒 | 日記
今回は卓球の話ではない。

少し前になるけど、衝撃的な話を聞いた。

卓球で時々ご一緒する車椅子のマダムがいるのだけれど、その方がバスの中で盗難被害に遭ったというのだ。

どういった被害かというと、それはスリや置き引きではない。

なんと、車椅子座面下に備え付けてあるネットを張った収納スペースに置いていた、買ったばかりの卓球のラケットをケースごと奪われたというのだ!

「〇ルカリで売れるのが分かっているからみたいね」と本人は笑いながら話していたけど、そんなことがあるの!?と驚かされた。

バスの中で、そのマダムの周りを囲むように若い男性(学生)4人が寄ってきたという。

不気味に思ったというし、怖かったとも言われていた。

だけどその時は特に何をされるでもなかったからホッとしたという。

でも彼らが下りた後、そこにあるはずのラケットケースが無いのに気づいたという。

ちなみにそのケースを彼らが持って歩く様子をバスの運転手も含め目撃した人がいたという。

そのマダムは即時警察に被害届も提出。

そうした目撃証言も伝えたというけれど、明確な証拠にはならないと言われたらしく、マダムは「仕方ないね」と諦めていた。

ちなみにその4人組、その近所では顔も知られていて、全員かどうかは分からないけれど中には知的障害者も含まれるという。



日本社会は世界最高水準の安心安全な社会だと思っている。

個人主義よりも良い意味で全体主義というか集団や社会を意識する傾向が強いからこそ、治安の維持とかソフトハード共に社会インフラのレベルが高い国だと思うし、だからこそ僕らのような障害者も安心して生活していける、社会進出していける国だと思っている。

がしかし、こういう事例を耳にすると悔しさや怒りと共に、大きな危機感を覚える。

「自分だったらどうする?」



障害者、ハンディキャッパーだからこそ、日常生活の様々なところで何かしらの「助け」を得ることが多い。

だから僕らはそれをあてにしがち。

「してもらう」「してもらえる」をある意味当然なことと思ってしまっている場合も少なくないし、そういうシーンを目の当たりにすることも日常的にある。

でも個人的にそれは「間違い」と思うことも少なくないし、むしろそれは「勘違い」と思う瞬間も少なからずある。

障害者だから助けてもらって当たり前、守られて当然という認識を僕は肯定しない。

障害者である前に僕は一社会人でありたい。

だから「自立する」「しようとする」意識と努力(その内容は個人差があって当然で一概のものではない)がまず不可欠だと思っている。

本人の努力が必要でもあり、その気持ちを活かす環境もまた少なからず必要で、そうすることで障害者が社会の一員として同じステージで生きていく、それこそが「共生社会」なのだと考える。



話を戻して、じゃぁこういう時はどうすればいいのだろう?

誰かに助けてもらう?

助けを求めたら誰かが必ず助けてくれる?

助けを求めたけど誰も助けてくれなくて、結果的に被害にあってしまったら「誰のせいだ!」と考える?

先述した通り、障害を持つ社会弱者だから、社会では必ず誰かに守られている、なんて考えるのは僕は間違いだと思っている。

全然知らない見ず知らずの人に守ってもらえるなんて考えは自身の安全の担保には全くならないと思っている。

ドライだと思われるかもしれない。

でも僕はそれもまた現実の一面だとも思っている。

実際の話、僕は道路で段差に躓き車椅子から落ちてしまったことが何度かあるけど、その場合ほとんどは近くの方が助けに来てくれたりあるいは声をかけてもらった。

でもその経験の中で一度だけ、比較的若い夫婦(カップル)に目の前を素通りされたことがある。

素通りするんかい!と心の中でつぶやいた(笑)

別に助けて欲しかった訳ではないし助けを必要としていた訳でもないけど、声もかけずに見て見ぬふりをする社会がその時はすごく残念に思えたのだ。

僕は自分で地面から車椅子へ乗り上がることは出来るので、そんな時でも助けを求めることは基本しない。「あら、落ちちゃった」と自分で車椅子の位置を適正に直し自分で乗り上がる。だから声をかけてもらっても「ありがとうございます。大丈夫です。」という場合が多い。だから怪我でもしていない限り大丈夫なのだけれど、でもその場に遭遇して素通り出来るのはまたすごいことだなと思ったのをはっきり覚えている。



それもまた現実

だから、僕は自分の身は自分で守るのが基本だと考える。

車椅子から一人で乗り上がる、これも自分を守る為、生き抜いていく為に必要なスキルだと考え出来るようにしている。

出来ない時、やりにくい時はどうする?を考え、対処法を想定したりもする。



こんなこと言うのもなんだけど敢えて言う。

例えば財布を奪われる、荷物を奪われる、命を狙われる。

移動が人よりも遅い、瞬発力が無いとなれば格好の餌食になる。

弱肉強食が自然の摂理だとすれば、僕らハンディキャッパーは・・・

だからこそ、進化論じゃないけど僕らもそれぞれ成長していかなければならない。

守ってもらうのではなく、生き残っていく為に自分で自分を守る、その心がけを忘れてはならない。



だけど話を戻せば、「弱きを助け」という倫理観があるからこその人間だと思うし、そうした倫理観とか理性をもって判断行動することが単なる動物、生物ではなく「人間」としての証明になるものだと思っている。

「理性をもって本能や感情を自制するからこその人間なんだよ」

と教えてくれたのはお世話になったシェフだ。

なのに、奪いやすいからと社会弱者をターゲットにするのは様々な点で痛々しいことだと思うし、それは誰の目にも残念に映るものだと思うのだけど(武士道精神や大和魂にも反するし、それこそ「風上にも置けない」日本人としてのアイデンティティを損なう行為)、それが未だ絶えないのは、人類を俯瞰すればものすごく情けないものだと思う。

振り込め詐欺とかロマンス詐欺なんかもそうだし、高齢者宅への強盗なんかもまさにそう。

弱者をターゲットにした犯罪。

犯罪だけじゃない。

飛躍させるけど例えば、男性が女性を「落とす」絶好のタイミングはその女性が「振られた時」とも言われるけど、でもそのタイミングだからってそれを好機と捉えて行動に出るのってどうなの?と僕はそれを否定的に思ったことがある。
それってハイエナみたいじゃない?
「弱者」を狙ってるだけじゃない?
それで良い恋愛が出来るの?
それで「本物」になれるの?
と思うのだ。
もしそれが好きな人であったなら尚の事、敢えて見て見ぬふりをして、弱者から回復したところで正々堂々いう方が僕は「スマート」に思う。

そうしないと、自分を内面的弱者に貶めることにもなるだろうから。

自分がどう思っていても人からそう思われたら、そういうことだ。

だからこそ、武士は食わねど高楊枝、という志、生き様に僕は美を思う。



とにかく、そんな事例が身近で生じたということにまずショックを覚えるし、性善説を信奉したい身としてこの案件は衝撃が強すぎる。

だからこそ、より自衛心が高まるというもの。

様々な角度からあらためて注意しなければならないと思わされた。

すごく残念だ。

そのマダムには最近お会いしていないけれど、お元気にされていることを願う。

と同時に、この社会において弱いとされる立場にある方々にこうした被害が及ばない、そんな環境を作り上げていきたいと願う。

「共生社会」という言葉は立場上よく口にするけれど、その道のりはまだまだ長いということか。

でも出来るからやるのではなく、やるから出来るようになる、頑張り続けるから出来る、実現できるもの。

そこを目指して、フォーカスして、前進していかなきゃいけない。

まず自己防衛を心がける。

その中には「手と手を取り合える環境づくりはまず自分から」という理念も含まれている。

世知辛いけど、頑張っていこう。

皆さんもどうぞお気をつけください。

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