恐ろしい言葉を学ぶ。
それがタイトルの「集団浅慮」。
練習の待ち時間に読んだ本に書いてあった。
それは僕が所属する会社の元上司に勧められて読んでいる本。
尊敬するメンタル・トレーナーも読んだというので尚の事僕には意味のある本なのだ。
それを読み進めていると出てきたのがこの言葉だった。
どういう意味か興味ある方はご自身でお調べください、敢えてここでは書きません。
その言葉を知り、僕は納得がいった。
人付き合いとか人間関係で、僕が苦手とする人たちってこれで定義付け出来ると思えたから。
真っ先にイメージしたのが太平洋戦争時の旧日本陸軍。
そのほかにも思い当たる集団や組織、団体、グループなどは多々あるし、僕が経験しただけでも思い浮かぶものは複数ある。
どうもそういうのが苦手だなと思っていたけど、それは心理学とか専門家の見地からすると明確に分類できるようなのだ。
実際に研究データもあるらしい。
自分のイメージが言語化された思いで驚いたし、それを知ることが出来て嬉しかった。
ちなみにその本には「ボスとリーダーは違う」とも書いてあり、それも納得。
あぁあの人はただのボスだ、あの人はリーダーだったなと自分史を振り返りもした。
そのボスとリーダーのことには持論もあって、僕は30代前半の頃にリーダーとマネージャーの違いというのを学んだので、リーダーの在り方、マネージャーの在り方というのにも自分なりの考えがあり、ダメなリーダー像が「ただのボス」になるのだなと理解。
自分の知識と新しい情報がリンクするのはとても刺激的だしものすごくプラスになる。
こういう学びを得られるのは心底嬉しい。
だから「読書」というのはものすごく有意義であり価値を生み出すものだと思っている。
元本屋の倅として(笑)
今や「本」は読むだけでなく「聞く」時代になっている。
これは効率のいいことだと思う。
けれど、それが本当に効率良いものなのかどうかはおそらく人によって異なると思う。
個人差があるということだ。
なぜ?
だって、その情報の入り口が「視覚」と「聴覚」で異なるから。
耳から入る情報と目から入る情報で脳の分析速度が違ってくるというし、そこには個人差があってこっちの方が速いとか遅いとか、得手不得手が人によって存在するものらしい。
これは脳科学の分野の話。
僕から説明は出来ないけど、だから本を「読む」のと「聞く」のでは情報処理能力、速度に個人差が生じるだろうからより効率の良い方法をそれぞれが選択しなければならない新しい時代を迎えていることになる。
いずれにせよ、「書物から学ぶ」ということは自分以外の知識、他者の経験に触れることなので、それだけで大きな価値があると思っている。
賢者の学び方、なのだな。
子供の頃はあんなに読書が嫌いだったのに(笑)
話を戻す。
「集団浅慮」という現象を目の当たりにした時、自分はどう判断し行動するのか、出来るのか、それは自分の意志の固さ、意識の高さに直結するものだと思うけど、別段これまでと変わることはなく自分に嘘をつかずに正直にいたいと思うし、あらためて、そこは潔く誇り高くありたいと思う。
「集団浅慮」という状況をよしとする、あるいは心地よく思うのは一部の「ボス」であり、それは裸の王様のようなもので、忖度を受けてその立場にあることを心地よく思う人。
逆に「有能なリーダー」はそんな状況を絶対に認めないだろうし、悲しむ、あるいは叱咤する、そして改善しより良い状態、チーム・ビルディングを図り、より良い方向へ導いていける人だと思う。
そんなチームの一員であることがどれだけ誇り高い事だろう。
どれだけ幸せなことだろう。
僕はリーダーになりたいわけではないし、僕にその度量はないと自覚している。
けれど、マネージャーとしてリーダーを支えるポジションはこれまでも経験しているし、そういう仕事にあこがれも持っていた。
例えば秘書とか、執事とか、晩餐会のディレクターとか。
自分が「この人は!」と思える人を支えて差し上げたい、それを仕事に出来ればそんな嬉しく楽しいことはない、と思ってきた。
逆に、リーダーじゃなくてただのボスだ、と思ってしまえば見切りをつけるのはきっと早いと思う。
だからこそ自分が人の上に立つ時には、見切りをつけられないよう自分自身が成長し続けないといけないと思うし、リーダーやマネージャーとは本来そうしてチーム全体での成長を促していくものだと考える。
だから、「集団浅慮」なんてことはものすごく恐ろしいし、凄く嫌だ。
超、見切りの対象(笑)
今までそんな気持ちを抱いていたけど、今回元上司から教えてもらった本でその言語化にたどり着けたのはものすごく嬉しい。
言語化出来たから、より明確にしていける。
そういう知識や情報を共有し活用していける会社の心地よさ(笑)
集団浅慮のまさに対極。
ホント、いろいろ学ばせてもらっている。
「フィードバック」、そして「コーチャビリティ」。
これも会社で学んでいること。
僕が取りまとめる車椅子卓球チームには中学生や高校生も複数いるけど、彼らはいずれ社会に出る、まさに「社会人」となるわけだから、その時にただ障害者雇用枠で採用されるだけの人間ではなく、障害の有無を問わず一人の「人材」として企業や組織にとって「価値ある存在」となるべく学んでいってほしいという観点から、この2つの言葉をコンセプトとして活動している。
そうすれば、「集団浅慮」なんていうことがどれだけ馬鹿らしいことか、ネガティブなことかを理解出来るだろうし、そうなってはいけないと判断・行動できるだろうし、それこそが「人材」として輝けることになると思っている。
現時点で彼らにこの言葉の意味を理解しろとは言わない。
ただこの単語を覚えておいて欲しいと伝えている。
そうすることで、将来その言葉に接した時の理解度は大きく違っているはずだから。
彼らが安易に「集団浅慮」に流されるリスクを回避させることの一助になるのではと思うし、少なくとも、それに流されるようなそんな大人にはなってほしくないから。
「類は友を呼ぶ」というから、そういう人ばかりで徒党を組むともう後戻り出来なくなっちゃうよ、と言いたい。
怖い怖い(笑)
隙間時間の読書で思いがけず良い学びを得られた。
こうやって与えてもらったチャンスを活かし、掴み、自身の成長として行きたい。
別に専門家になりたいわけではなく、知った風な口をきいてドヤ顔を見せたいとかイニシアチブを取りたいとか、そんな気持ちは全くないつもり。
だから僕は人と話す時でも「〇〇さんが言ってた」「本に書いてあった」と注釈をつけることが多い。
そこで見栄を張りたくないし、その言葉に信憑性を持たせたいから。
その為にも、真摯な態度で多くを学び知識を重ね、でも謙虚な姿勢で歳を重ねていきたい。
それが僕にはカッコいいと思えるから。
少なくとも、集団浅慮を構成するような大人にはなりたくないなと思う。
でも小心者だからなぁ・・・(笑)
とにかくいくつになっても学ぶことをやめず、それこそまさに日々精進していきたい。
それがタイトルの「集団浅慮」。
練習の待ち時間に読んだ本に書いてあった。
それは僕が所属する会社の元上司に勧められて読んでいる本。
尊敬するメンタル・トレーナーも読んだというので尚の事僕には意味のある本なのだ。
それを読み進めていると出てきたのがこの言葉だった。
どういう意味か興味ある方はご自身でお調べください、敢えてここでは書きません。
その言葉を知り、僕は納得がいった。
人付き合いとか人間関係で、僕が苦手とする人たちってこれで定義付け出来ると思えたから。
真っ先にイメージしたのが太平洋戦争時の旧日本陸軍。
そのほかにも思い当たる集団や組織、団体、グループなどは多々あるし、僕が経験しただけでも思い浮かぶものは複数ある。
どうもそういうのが苦手だなと思っていたけど、それは心理学とか専門家の見地からすると明確に分類できるようなのだ。
実際に研究データもあるらしい。
自分のイメージが言語化された思いで驚いたし、それを知ることが出来て嬉しかった。
ちなみにその本には「ボスとリーダーは違う」とも書いてあり、それも納得。
あぁあの人はただのボスだ、あの人はリーダーだったなと自分史を振り返りもした。
そのボスとリーダーのことには持論もあって、僕は30代前半の頃にリーダーとマネージャーの違いというのを学んだので、リーダーの在り方、マネージャーの在り方というのにも自分なりの考えがあり、ダメなリーダー像が「ただのボス」になるのだなと理解。
自分の知識と新しい情報がリンクするのはとても刺激的だしものすごくプラスになる。
こういう学びを得られるのは心底嬉しい。
だから「読書」というのはものすごく有意義であり価値を生み出すものだと思っている。
元本屋の倅として(笑)
今や「本」は読むだけでなく「聞く」時代になっている。
これは効率のいいことだと思う。
けれど、それが本当に効率良いものなのかどうかはおそらく人によって異なると思う。
個人差があるということだ。
なぜ?
だって、その情報の入り口が「視覚」と「聴覚」で異なるから。
耳から入る情報と目から入る情報で脳の分析速度が違ってくるというし、そこには個人差があってこっちの方が速いとか遅いとか、得手不得手が人によって存在するものらしい。
これは脳科学の分野の話。
僕から説明は出来ないけど、だから本を「読む」のと「聞く」のでは情報処理能力、速度に個人差が生じるだろうからより効率の良い方法をそれぞれが選択しなければならない新しい時代を迎えていることになる。
いずれにせよ、「書物から学ぶ」ということは自分以外の知識、他者の経験に触れることなので、それだけで大きな価値があると思っている。
賢者の学び方、なのだな。
子供の頃はあんなに読書が嫌いだったのに(笑)
話を戻す。
「集団浅慮」という現象を目の当たりにした時、自分はどう判断し行動するのか、出来るのか、それは自分の意志の固さ、意識の高さに直結するものだと思うけど、別段これまでと変わることはなく自分に嘘をつかずに正直にいたいと思うし、あらためて、そこは潔く誇り高くありたいと思う。
「集団浅慮」という状況をよしとする、あるいは心地よく思うのは一部の「ボス」であり、それは裸の王様のようなもので、忖度を受けてその立場にあることを心地よく思う人。
逆に「有能なリーダー」はそんな状況を絶対に認めないだろうし、悲しむ、あるいは叱咤する、そして改善しより良い状態、チーム・ビルディングを図り、より良い方向へ導いていける人だと思う。
そんなチームの一員であることがどれだけ誇り高い事だろう。
どれだけ幸せなことだろう。
僕はリーダーになりたいわけではないし、僕にその度量はないと自覚している。
けれど、マネージャーとしてリーダーを支えるポジションはこれまでも経験しているし、そういう仕事にあこがれも持っていた。
例えば秘書とか、執事とか、晩餐会のディレクターとか。
自分が「この人は!」と思える人を支えて差し上げたい、それを仕事に出来ればそんな嬉しく楽しいことはない、と思ってきた。
逆に、リーダーじゃなくてただのボスだ、と思ってしまえば見切りをつけるのはきっと早いと思う。
だからこそ自分が人の上に立つ時には、見切りをつけられないよう自分自身が成長し続けないといけないと思うし、リーダーやマネージャーとは本来そうしてチーム全体での成長を促していくものだと考える。
だから、「集団浅慮」なんてことはものすごく恐ろしいし、凄く嫌だ。
超、見切りの対象(笑)
今までそんな気持ちを抱いていたけど、今回元上司から教えてもらった本でその言語化にたどり着けたのはものすごく嬉しい。
言語化出来たから、より明確にしていける。
そういう知識や情報を共有し活用していける会社の心地よさ(笑)
集団浅慮のまさに対極。
ホント、いろいろ学ばせてもらっている。
「フィードバック」、そして「コーチャビリティ」。
これも会社で学んでいること。
僕が取りまとめる車椅子卓球チームには中学生や高校生も複数いるけど、彼らはいずれ社会に出る、まさに「社会人」となるわけだから、その時にただ障害者雇用枠で採用されるだけの人間ではなく、障害の有無を問わず一人の「人材」として企業や組織にとって「価値ある存在」となるべく学んでいってほしいという観点から、この2つの言葉をコンセプトとして活動している。
そうすれば、「集団浅慮」なんていうことがどれだけ馬鹿らしいことか、ネガティブなことかを理解出来るだろうし、そうなってはいけないと判断・行動できるだろうし、それこそが「人材」として輝けることになると思っている。
現時点で彼らにこの言葉の意味を理解しろとは言わない。
ただこの単語を覚えておいて欲しいと伝えている。
そうすることで、将来その言葉に接した時の理解度は大きく違っているはずだから。
彼らが安易に「集団浅慮」に流されるリスクを回避させることの一助になるのではと思うし、少なくとも、それに流されるようなそんな大人にはなってほしくないから。
「類は友を呼ぶ」というから、そういう人ばかりで徒党を組むともう後戻り出来なくなっちゃうよ、と言いたい。
怖い怖い(笑)
隙間時間の読書で思いがけず良い学びを得られた。
こうやって与えてもらったチャンスを活かし、掴み、自身の成長として行きたい。
別に専門家になりたいわけではなく、知った風な口をきいてドヤ顔を見せたいとかイニシアチブを取りたいとか、そんな気持ちは全くないつもり。
だから僕は人と話す時でも「〇〇さんが言ってた」「本に書いてあった」と注釈をつけることが多い。
そこで見栄を張りたくないし、その言葉に信憑性を持たせたいから。
その為にも、真摯な態度で多くを学び知識を重ね、でも謙虚な姿勢で歳を重ねていきたい。
それが僕にはカッコいいと思えるから。
少なくとも、集団浅慮を構成するような大人にはなりたくないなと思う。
でも小心者だからなぁ・・・(笑)
とにかくいくつになっても学ぶことをやめず、それこそまさに日々精進していきたい。
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