へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

道草と寄り道

2008年02月21日 03時20分17秒 | Weblog
今日は久しぶりに暖かい一日で、我が家の玄関先では、14度まで気温が上がり、風もなく春のような一日で、庭の手入れをしていた時のことなのだが、3時過ぎごろだったろうか、見かけない小学四年生くらいの女の子二人が家の前を通っていった。
その二人の会話を聞いていて思わず笑ってしまった。
女の子A「こんな方を回るとお母さんにしかられるよ」
女の子B「黙っていれば大丈夫」
女の子A「学校でも寄り道してはいけないって言ってるじゃない」
女の子B「毎日同じ道でつまらなくない?」
女の子A「・・・・・・」
昔なら極当り前の事であったが、今では事件を心配して「集団登下校」と言うことで、「道草・寄り道」と言うことが難しくなってしまった。
確かに、事件にあう危険は減るかもしれないが、「道草・寄り道」には、「子供の成長発達」に重要な働きがあることにも目を向ける必要が有ると思うのだが・・・・。
私が子供の頃の事を振り返ると、「道草・寄り道」をすると言うことは「未知への挑戦や冒険」「新しい発見」と言う意味があったように思う。
当然の事ではあるが、子供たちの目は輝いていたはずで、Bの女の子もAの子より生き生きとしていた。
自然の中で起きる事は、ゲームの世界のように、「同じ事の繰り返し」と言う事は有り得ないことで、毎日毎日が新しい事との出会いである。
この事は、子供の脳の発達には重要な事ではないだろうか?。
学校や塾で学ぶのが勉強だと勘違いしている人が多いが、自然とのかかわりによって、学校や塾では学ぶ事の出来ないものを学ぶ事が出来る。
自然から学び取るものは、人間が生きてゆく上で必要な「基本的能力」ではないだろうか?。
この「基本的能力」に欠けた人間が、様々な事件を起こしているのではないだろうか?。
変質者などによる事件が多発しているような報道が成されているのだが、果たして事実にもとずいているのだろうか?。
私が子供の頃は、暗くなるまで外で遊んでいたものだが、その様な時に決まって「人さらいが来るから早く帰りなさい」と言われたものである。
私の感覚では、「昔のほうが危険だった」と思うのだが・・・・。
昔と今とではメディアに大きな差があるため一概には比較は出来ないのだが、メディアが発達していなかった頃は、「身近に起きた事件」以外は殆ど知る事が無かったものが、メディアが発達してしまった為「全国で起きた事件」まで知ることが出来るようになってしまったことから来る「一種の錯覚」ではないだろうか?。
「ある危険を避けるために、新たな危険を抱える」と言うこともあるのだが、どちらの危険を重要視するかはその人の自由であるが、その結果に対しては「自己責任」と言う事になる。
私は、「道草・寄り道」をする方が「正常な人間形成」と言う意味で重要だと思うのだが・・・・。
「角を矯めて牛を殺す」と言うこともある。
コメント (2)
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