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孔子20話 

2014-08-30 | 中国歴史ドラマ
魯の国情を思い絶望感にさいなまれる孔丘。妻のケン官氏はそんな彼に、弟子を育てることで世の中は変えられると励ます。陽虎、公山不狃、仲梁懐の3人のもとから追い出された少正卯は季孫斯に近づき、斉に行って陽虎らを討つべく出兵するよう願い出る。だが、魯が弱いままで存続するのが斉の利益と考える宰相の晏嬰は、これに反対。斉のみが出兵して他国に非難されるよりも、魯周辺の六国が共同で兵を送ることを提案して……。以上はwowowオンラインのあらすじである。

陽虎、公山不狃、仲梁懐



394. 史記に記された孔子(15) 孔子世家③ 子往かんと欲す
2013-11-12 07:26:49
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史記に記された孔子(15)
 
孔子世家③ 子往かんと欲す
史 記 を読んでみましょう。
桓子の嬖臣(へいしん)、仲梁懐(ちゅうりょうかい)と曰(い)うもの、陽虎と隙(げき)有り。陽虎、懐(かい)を逐(お)わんと欲す。公山不狃(こうざんふちゅう)之(これ)を止(とど)む。
其の秋、懐(かい)益々(ますます)驕(おご)る。陽虎、懐(かい)を執(とら)う。桓子怒(いか)る。陽虎因(よ)って桓子を囚(とら)え、歟(とも)に盟(ちか)いて之をゆるす。陽虎、此(こ)れに由(よ)りて益々季氏を軽(かろ)んず。
季氏も亦(また)公室に僣(せん)し、陪臣、国政を執(と)る。是を以って、魯、大夫より以下、皆僣(せん)して正道(せいどう)より離(はな)る。
故に孔子仕えず、退(しりぞ)きて詩書礼楽(ししょれいがく)を修(おさ)む。弟子(ていし)彌々(いよいよ)衆(おお)く、遠方より至り、業(ぎょう)を受けざるもの莫(な)し。
 史記「孔子世家」
解 説 〈世家〉論語講師副読本 論語普及会
季桓子の気にいりの家臣に仲梁懐(ちゅうりょうかい)というものがいたが、季子の家臣の陽虎(ようこ)と仲たがいしていた。陽虎は懐を放逐しようとしたが、季子の家宰の公山不狃(こうざんふちゅう)がこれを止めた。
その秋に、懐がますます驕慢になったので、陽虎は懐を捕らえた。桓子が怒った。それで陽虎は主君の桓子を捕らえておしこめ、倶に誓い合ってから、桓子を釈放した。陽虎はこのことからますます季氏を軽んじた。
季氏も亦身分を越えて魯の公室のまねをしていたので、又家来の陽虎が国政をとるようになった。こんなことで、魯の国は大夫以下次々とみな身分を越えて上を犯し、正道を離れた。
その故に、孔子は仕官せず、退いて詩・書・礼・楽を学び修めた。門人がだんだん多くなり、遠方からもやって来て、孔子に学業を受けないものはないほどであった。
 西暦前505年、魯の国政を牛耳っていた季平子が死にましたが、その子の季桓子が後を継ぎ、政治の実権は依然として季氏に握られていました。
 季桓子は常に定公の頭を押さえつけていましたが、逆に季桓子も実力者の家臣によって頭を押さえつけられていました。それと同時に、実力者の家臣の間にも摩擦があり、お互いの利益の一人占めをはかろうとしていました。
 競争者を倒して、さらに多くの利権を奪い取る。これは、諸侯から卿大夫(けいたいふ)、その家臣にいたるまで、ほとんど共通したやり方です。
 当時、季桓子の家臣団の中で勢力を張っていたのは、仲梁懐(ちゅうりょうかい)・陽虎(ようこ)・公山不狃(こうざんふちゅう)の三人です。
その中でまず仲梁懐と陽虎との間に衝突が起こり、陽虎が仲梁懐を追い出そうとしましたが、公山不狃が仲裁に入りひとまず収めました。しかし、この一件で仲梁懐が大きな顔をしはじめたので陽虎は仲梁懐をひっとらえたばかりか、干渉に乗り出した主君の季桓子まで捕らえて牢に押し込め、季桓子が謝るまで釈放しませんでした。
このように陽虎は季桓子の頭を押さえ、季桓子は季桓子で定公の首根っこを抑えていました。
孔子はこういう状態を見るに忍びなかったので、あえて政治の表面には出ようとしませんでした。
孔子は塾を開いて学問の師として世に立ち、若い学生たちに教えました。弟子たちも周囲に集まってきたようです。以後、この学校は形をかえながらもずっと続いていきます。
つづく
宮 武 清 寛


史記に記された孔子(16) 孔子世家③ 子往かんと欲す
2013-11-14 06:20:07
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史記に記された孔子(16)
 
孔子世家③ 子往かんと欲す
 史記を読んでみましょう。
定公(ていこう)八年、公山不狃(こうざんふちゅう)、意(い)を季氏に得(え)ず。陽虎に因(よ)りて乱を為(な)し、三桓の適(てき)を廃(はい)し、更に其の庶孽(しょげつ)の陽虎が素(もと)より善(よ)き所(ところ)の者を立てんと欲(ほっ)し、遂(つい)に季桓氏を執(とら)う。桓氏(かんし)之(これ)を詐(いつわ)り、脱(のが)るるを得たり。定公九年、陽虎勝たず、斉に奔(はし)る。
是(こ)の時、孔子五十なり。
公山不狃、費(ひ)を以て季氏に畔(そむ)き、人をして孔子を召(め)さしむ。孔子、道に循(したが)ふこと久しきに彌(わた)り、温(おん)温(おん)たれども試(こころ)みる所(ところ)無(な)く、能(よ)く己(おのれ)を用(もち)うるもの莫(な)し。
曰わく、「蓋(けだ)し周の文・武は、豊鎬(ほうこう)より起こりて王たり。今、費は小なりと雖(いえども)も、儻(も)しくは庶幾(ちか)からんか」と。往(ゆ)かんと欲す。
子路説(よろこ)ばず、孔子を止(とどや)む。
孔子曰わく、「夫(か)の我を召(め)すは、豈(あ)に従(いたずら)ならんや。如(も)し我を用(もち)いば、其(そ)れ東周を為(な)さんか」と。然(しか)れども亦(また)卒(つい)に行(ゆ)かず。
史記「孔子世家」
解 説 〈世家〉論語講師用副読本 論語普及会
定公八年に、公山不狃は、季氏と意見の通じないものがあったので、陽虎に頼って反乱を起こし、孟孫・叔孫・季孫の嫡子を廃し、その庶子のうちで、もとから陽虎親交のあるものを立てようとして、まず季桓子を捕らえたが、桓子は佯ってその手から脱出することができた。定公九年、陽虎は勝つことができなくて斉へ出奔した。
この時、孔子は50歳であった。
公山不狃は季氏の領地である山東の費に拠って主人の季氏にそむき、人を遺わして孔子を招いた。この当時は、孔子は道を修めることすでに久しきにわたって、徳の深いこと蘊々たるものがあったが、それを用いる機会がなく、誰も自分を用いてくれなかった頃なので、言った。
「思うに、周の文王と武王は、陝西の豊鎬のような小国から起こって王業を成しとげたのだ。今、あの費は小邑ではあるが、あるいは私の志が行えるのではなかろうか」と。そして費に往こうとした。
門人の子路はそれを喜ばないので往くのを止めた。孔子は言った。「かの不狃がわしを招くのは、理由もない空漠たる事であろうか。そうではあるまい。もしもわしを用いてくれるなら、周の道を東方の地で興すこともできるのではなかろうか」と。しかし、やはりついに孔子は往かなかった。
季桓子の家臣の三人の実力者の中で、仲梁懐(ちゅうりょうかい)は陽虎(ようこ)に押さえ込まれたので、残るは陽虎と公山不狃(こうざんふちゅう)です。
公山不狃は陽虎と手を結んで、三桓の後継者を、陽虎の息のかかった人物に取り替えようとしました。こうすれば、三桓を操縦するのに好都合だと考えたのです。さらに陽虎は季桓子を捕らえて殺そうとしましたが、季桓子はその場を取り繕って脱出しました。
このように専横を極めた陽虎も、やがて三桓に攻め立てられ、敗れて斉の国に逃れる羽目になったのです。
この結果、季桓子の家臣の中で実力者は公山不狃ただ一人となりましたが、その公山不狃も西暦501年、魯の費城(ひじょう)を占拠し、そこに立てこもって季桓子に弓を引こうとしました。
その時、公山不狃は人をやって孔子に参加を促しました。というのは、孔子もまた季桓子の専横を嫌っていることを知っていたからです。同時に当時の孔子は声望と実力を兼ね備えており、孔子の参加が得られれば、自分たちの気勢が上ると考えたのでしょう。
孔子はといえば、長いこと己の抱負を実現する機会が得られないまま、寂寞を感じていました。孔子は歴史に詳しいので、その昔、周の文王・武王が北西の僻地である豊鎬(ほうこう)を根拠地として北中国を統一した故事を思い合わせ、孔子の費城を根拠地として大いに腕をふるえるかも知れないと考え、「往かんと欲す」公山不狃の誘いに心を動かせました。
しかし、孔子の弟子たちの中には、この時の孔子の動揺に納得できない者がいました。最年長の弟子である子路が真っ先に不満をもらしました。
「先生は毎日のように、君主は君主らしく、臣下は臣下らしくと教えてきています。季氏の専横を苦々しく思ってきたからこそ政治に顔を突っ込まなかったはずです。公山不狃の行為は反乱そのものではありませんか。やはり臣下としてあるまじき振る舞いです。それなのに、どうしてあんな男のもとにはせ参じようとなさるのか・・・」
孔子は言います。「夫(そ)れ我を召(よ)ぶ者にして、豈(あに)徒(いたずら)ならんや。如し我を用うる者あらば、吾は其れ東周を為さんか。」・・・・「彼は仮にも私を招いたのだ。今なら相手を利用できる。私は存分に腕を振るいたい。もしも条件さえ充たされるなら、周の理想政治を魯の国に再現することも不可能ではない。」
子路たちはこれ以上何も言えませんでした。しかし、孔子の心にも矛盾があったのでしょう。孔子は現状維持の保守思想を打ち破る事ができず。決心がつかないまま参加を見合わせたのです。
つづく

宮 武 清 寛

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