研究室を整理して、出るは、出るは、本が出てくる。よくまあ隠れていたもので、取り出しては、思いがよぎる。箱を10、積み上げては、これをどうするだろうと思案に暮れる。講談社学術文庫の1冊、禅語散策、田上太秀さんの本、これは文庫の前には1987年に原本として、東書選書にある。
東京書籍で、30年前にお目にかかったか、ひらりとめくって、平常心是道とあった。びょうじょうしんこれどう などと、振り仮名にある。この読みには、なじまないが、禅の言葉として、平常の心がこれ道である、というほうが、わかりよい。しかし、これも平常心を、へいじょうしん とするのではなくて、びょうじょうしん とするのだろう。
日本国語大辞典を引いてみた。読みはそれぞれ、項目にするが、禅語と近代語の違いを見せる。禅語は知りうるところ、馬祖道一である。その語の、無門関による南泉普願での問答が有名である。馬おじさんの言だと知り、その禅の考え方が唐の長安でもあったと知り、そこに白楽天が禅宗を奉じたと知った。
白香山詩集をひっくり返すように眺めて、語句を探していたわたしの探求は、思わぬことを知るきっかけとなった。平成11年、1999年から、平成23年、1911年、その時の思いに、平常心是道は、歳月を経てめぐりくる。
ウイキペディアより
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馬祖道一(ばそ どういつ、709年(景龍3年) - 788年(貞元4年))は、漢州(四川省)の出身で俗姓は馬氏。諡は大寂禅師。
地元の羅漢寺の資州の処寂(648年 - 734年)の下で出家し、益州の長松山などで修禅した後、南嶽(湖南省)に向かい、懐譲の法を嗣ぎ、洪州(江西省)の開元寺に移って法を広めた。その独自な禅風は唐代の士大夫階級に受け入れられて一大宗派洪州宗を築き、百丈懐海や南泉普願など嗣法の弟子は88人を数え、それぞれが数多くの語録を残すので、後の禅宗に語録を重視する傾向をもたらし、やがてそれは公案を重視する臨済宗へと発展していった。
ウイキクォートより
馬祖道一(709年-788年)[編集]
>ばそどういつ。中国、唐代の禅僧。六祖慧能(638年-713年)の弟子に当たる南岳懐譲(677年-744年)の弟子。
若し直ちに其の道を会せんと欲すれば、平常心是れ道たり。何をか平常心と謂わん。造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なきなり。(維摩)経に云う、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なり、と。只だ如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道たり。
若欲直會其道、平常心是道。何謂平常心。無造作、無是非、無取捨、無斷常、無凡無聖。經云、非凡夫行、非聖賢行、是菩薩行。只如今行住坐臥、應機接物、盡是道。 -- 「示衆」
「もし、道というものをずばり言うとするならば、日常の心が即ち道である。そして何が日常の心であるかというと、それは肯定(よい)でもなく、否定(わるい)でもなく、取るとか捨てるというものでもなく、又、あたりまえでもなく、すぐれたものでもない」と言われました。
日本国語大辞典より
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びょうじょう‐しん[ビャウジャウ:] 【平常心】
解説・用例
〔名〕
仏語。日常ふつうの心。ふだんの気持。あたりまえの生き方。へいじょうしん。
*正法眼蔵〔1231〜53〕身心学道「此界佗界といはず平常心なり」
*反故集〔1671〕下・答或士「又平常心(ビャウジャウシン)に契(かな)ひて」
*無門関‐一九「南泉、因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道」
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へいじょう‐しん[ヘイジャウ:] 【平常心】
解説・用例
〔名〕
特別なことのない、ふだんの平穏な心。
*いさなとり〔1891〕〈幸田露伴〉五三「次第々々夢の醒め行き霧の晴れ渡るごとく平常心(ヘイジャウシン)に立ち帰れば」
*現代文学にあらはれた知識人の肖像〔1952〕〈亀井勝一郎〉杉野駿介「異常な時代に最も必要なのは平常心であらう」
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page250.html
2012年5月1日 第160話
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平常心是道とは「へいじょうしんこれどう」または「びょうじょうしんぜどう」と読みます。
「平常心」とは常日頃、平生(へいぜい)の心構えや態度をいいます。
唐の南泉禅師とその弟子趙州禅師の問答で、南泉禅師が「平常心」といい、趙州がこれを「道」と会得し、「日常の用心」と悟った。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/163nansen-fugan.h
南泉普願禅師の話
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南泉普願(なんせん・ふがん。七四八~八三四)禅師は、馬祖道一(ばそ・どういつ)禅師の法嗣であり、長沙景岑(ちょうさ・けいしん)禅師や趙州従しん(じょうしゅう・じゅうしん)禅師などの師である。
>七九五年、馬祖大師の法を嗣いだ南泉禅師は、安徽省池陽(あんきしょう・ちよう)の南泉山に錫(しゃく。錫杖)をとどめ、自ら谷を埋め木を切って禅院を開き、簑笠(みのかさ)を着けて牧童に交じって牛を飼い、山を開墾して田畑を作り作物を育てた。南泉山を下らざること三十余年という。
東京書籍で、30年前にお目にかかったか、ひらりとめくって、平常心是道とあった。びょうじょうしんこれどう などと、振り仮名にある。この読みには、なじまないが、禅の言葉として、平常の心がこれ道である、というほうが、わかりよい。しかし、これも平常心を、へいじょうしん とするのではなくて、びょうじょうしん とするのだろう。
日本国語大辞典を引いてみた。読みはそれぞれ、項目にするが、禅語と近代語の違いを見せる。禅語は知りうるところ、馬祖道一である。その語の、無門関による南泉普願での問答が有名である。馬おじさんの言だと知り、その禅の考え方が唐の長安でもあったと知り、そこに白楽天が禅宗を奉じたと知った。
白香山詩集をひっくり返すように眺めて、語句を探していたわたしの探求は、思わぬことを知るきっかけとなった。平成11年、1999年から、平成23年、1911年、その時の思いに、平常心是道は、歳月を経てめぐりくる。
ウイキペディアより
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馬祖道一(ばそ どういつ、709年(景龍3年) - 788年(貞元4年))は、漢州(四川省)の出身で俗姓は馬氏。諡は大寂禅師。
地元の羅漢寺の資州の処寂(648年 - 734年)の下で出家し、益州の長松山などで修禅した後、南嶽(湖南省)に向かい、懐譲の法を嗣ぎ、洪州(江西省)の開元寺に移って法を広めた。その独自な禅風は唐代の士大夫階級に受け入れられて一大宗派洪州宗を築き、百丈懐海や南泉普願など嗣法の弟子は88人を数え、それぞれが数多くの語録を残すので、後の禅宗に語録を重視する傾向をもたらし、やがてそれは公案を重視する臨済宗へと発展していった。
ウイキクォートより
馬祖道一(709年-788年)[編集]
>ばそどういつ。中国、唐代の禅僧。六祖慧能(638年-713年)の弟子に当たる南岳懐譲(677年-744年)の弟子。
若し直ちに其の道を会せんと欲すれば、平常心是れ道たり。何をか平常心と謂わん。造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なきなり。(維摩)経に云う、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なり、と。只だ如今の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道たり。
若欲直會其道、平常心是道。何謂平常心。無造作、無是非、無取捨、無斷常、無凡無聖。經云、非凡夫行、非聖賢行、是菩薩行。只如今行住坐臥、應機接物、盡是道。 -- 「示衆」
「もし、道というものをずばり言うとするならば、日常の心が即ち道である。そして何が日常の心であるかというと、それは肯定(よい)でもなく、否定(わるい)でもなく、取るとか捨てるというものでもなく、又、あたりまえでもなく、すぐれたものでもない」と言われました。
日本国語大辞典より
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びょうじょう‐しん[ビャウジャウ:] 【平常心】
解説・用例
〔名〕
仏語。日常ふつうの心。ふだんの気持。あたりまえの生き方。へいじょうしん。
*正法眼蔵〔1231〜53〕身心学道「此界佗界といはず平常心なり」
*反故集〔1671〕下・答或士「又平常心(ビャウジャウシン)に契(かな)ひて」
*無門関‐一九「南泉、因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道」
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へいじょう‐しん[ヘイジャウ:] 【平常心】
解説・用例
〔名〕
特別なことのない、ふだんの平穏な心。
*いさなとり〔1891〕〈幸田露伴〉五三「次第々々夢の醒め行き霧の晴れ渡るごとく平常心(ヘイジャウシン)に立ち帰れば」
*現代文学にあらはれた知識人の肖像〔1952〕〈亀井勝一郎〉杉野駿介「異常な時代に最も必要なのは平常心であらう」
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page250.html
2012年5月1日 第160話
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平常心是道とは「へいじょうしんこれどう」または「びょうじょうしんぜどう」と読みます。
「平常心」とは常日頃、平生(へいぜい)の心構えや態度をいいます。
唐の南泉禅師とその弟子趙州禅師の問答で、南泉禅師が「平常心」といい、趙州がこれを「道」と会得し、「日常の用心」と悟った。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/163nansen-fugan.h
南泉普願禅師の話
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南泉普願(なんせん・ふがん。七四八~八三四)禅師は、馬祖道一(ばそ・どういつ)禅師の法嗣であり、長沙景岑(ちょうさ・けいしん)禅師や趙州従しん(じょうしゅう・じゅうしん)禅師などの師である。
>七九五年、馬祖大師の法を嗣いだ南泉禅師は、安徽省池陽(あんきしょう・ちよう)の南泉山に錫(しゃく。錫杖)をとどめ、自ら谷を埋め木を切って禅院を開き、簑笠(みのかさ)を着けて牧童に交じって牛を飼い、山を開墾して田畑を作り作物を育てた。南泉山を下らざること三十余年という。