対比の妙 私説 源氏物語19
絵巻の構図だけを眺めて芸術性よろしく観賞をするなら、ここはにこやかに笑う君であろう。
そして腕が伸びてこたえるふうなら、無邪気な子供そのものである。
ことばが物語の筋を語っていても祝いの場面であることは疑うべくもない。
さほどに大きな絵の修正があったわけではないようだ。
それも赤子の表現についてだけであるから、この場面性を著しく変える者でもないだろう。
ただ、絵に表現されていることと、物語原文を読むとくいちががいがあり、それが、まみであるのか、
きみ、であるのか、文学の想像力にゆだねて、絵では赤子の笑みがけされ、物語原文では手を伸ばす
ほほえましい君が表現されていない。
そして絵にもほほえましさが隠される結果となったのは、赤子の描写によって、読む人が憂愁にいる
光源氏を見てとれるように、赤ん坊の宿命を思う親の姿として、より表そうとした対比の妙を描き
だしたのである。
絵巻の構図だけを眺めて芸術性よろしく観賞をするなら、ここはにこやかに笑う君であろう。
そして腕が伸びてこたえるふうなら、無邪気な子供そのものである。
ことばが物語の筋を語っていても祝いの場面であることは疑うべくもない。
さほどに大きな絵の修正があったわけではないようだ。
それも赤子の表現についてだけであるから、この場面性を著しく変える者でもないだろう。
ただ、絵に表現されていることと、物語原文を読むとくいちががいがあり、それが、まみであるのか、
きみ、であるのか、文学の想像力にゆだねて、絵では赤子の笑みがけされ、物語原文では手を伸ばす
ほほえましい君が表現されていない。
そして絵にもほほえましさが隠される結果となったのは、赤子の描写によって、読む人が憂愁にいる
光源氏を見てとれるように、赤ん坊の宿命を思う親の姿として、より表そうとした対比の妙を描き
だしたのである。