日本語文法のカテゴリーにするか、日本文化論とするか、これは前2回に触れた著述と話題によるところ、これまでにブログ取り上げたこともあって、このようにする。繰り返し述べていることがあって、2013年の再掲である。
このときに限らず2000年代になって基礎日本語文法が成書となって広めた考え方が日本語教育の学習用文法に広まってきて、刊行はくろしお出版;による、改訂版1992/5/25、1989/9/20 いよいよ主語を主格にしない、主格主語ではなくて主格補語つまり補語と扱う説明になるようすがあった。日本語文法のその学説は寺村文法の流れにあったが、その後継によって具体化してきた。もちろんさかのぼれば三上学説に行き当たる。
主語論争と検索をしてみる。Googleサイト検索でヒットするサイトから、最近のことで、ユーチューブの番組に見えるのでチェックして見る。2021/03/23と、そのフォローに2021/05/27、このふたつが、ひとつは88万回の視聴、もう一つは16万回と、その影響があった。チャンネル登録者は16万人と見える。
この、ゆる言語学ラジオさん、という、提供する話題にはタイトルにあらわすような作り方もあったらしいが、この番組ふたつを見るとシビアな対応を持ったようでもある。
https://www.youtube.com/watch?v=yzTqAU_kiKM、
「象は鼻が長い」の謎-日本語学者が100年戦う一大ミステリー #10 2021/03/23
https://www.youtube.com/watch?v=9QWgnPhAh0s&t=1981s
標準語にするべき方言"おささる"の話と、アカデミズムに対する二次創作の話#25 2021/05/27
この番組のパーソナリティーが取り上げる時系列が議論を混乱させるようで、ネタ本とか言って紹介するのも著作集とそのオリジナル論考との時代を議論の推移としてとらえることが望まれる。
日本語の文法について 20130414より、再掲
2015-07-06
日本語の文法について
日本語の文法について文法とは文の法則または文章の法則とする。文法という用語は近代以降のことで翻訳語として成立した。それまでに日本語を文法としてとらえることがあったか。古代漢語の影響で語法を捉えることはあったであろうし、日本語文典というポルトガル語による解説書が作られ日本語を文法としてとらえることがあった。
文法は考え方である。その考え方を論理として規則にする。文法がどうして必要であるかとその規則を捉えてみると、言語は宇宙と森羅万象のさまざまを表現する言葉であるからその中心となるものを捉えて論理化しようとしてきたようだと思い当たる。それは地域と言葉によって異なる。考え方をそのようにすると、それぞれであるということになる。
人々に文法が必要である実際上の問題は言葉がわからなくなったということがあるだろう。それは古典学における読解に求められた規則である。それはやがて古典語を書き表すために作られた技法のひとつになる。文章の法則というのはそのために用意された。それがまた考え方によって文の法則になる。弁論術や修辞技巧もそれにともなってのことだろう。
時の経過とともに言葉への関心は古典への解釈から周辺地域の言語や遠方の言語などに向き始め自らの言葉を時間の経過のうちにたどることをはじめる。境界を接して言葉を捉えると自分のことだけが中心となっていた。それまでは蛮族とか夷狄ととらえられたりした領地拡大の対象が、海を隔てた地域への冒険となりその地と言葉が捕えられるようになる。
日本語はそのような世界という動きの中にあって漢字をとりいれ、やがては外国語と捉えるようになって、わたしたちにも文法の意識が目覚める。言葉に法則を作るのは使い手たちのとらえ方によることであってそれをわざわざ論理化することはなかったかもしれないが、口伝、秘伝としての作法は日本語にもあったことは誰もが知るところである。
文法は古語の文章を規範として分析される。日本語は時間的な経緯としてことばの変化を地域に限られた形でみると、大きく経験することはなかったとみられるので、実質に1300年以上の言語史を持つ日本語として見ることができる。すると、ほかの地域の言語に当てはまらない通時的なとらえ方になる。言語変化は2言語を対照する経過として見る。
このことは、現代語の文法分析をする場合にも当てはまって、時間的な経過は近代になって、古語の文法規範に対して改めて当代語に当てはまる規範が求められるようになる。それは時を経て模範が米国口語になるべく日本語文法のとらえかたは変わっていくのである。この150年の間の出来事で、日本語が外国語を学び続けるゆえんである。
日本語の文法について その2
文法を語ることはむずかしい。難しいことを優しく言うことができるか、できない。むずかしいことは難しく語られねばならない。やさしいことを難しげに言うことはできるが、理解されないだろう。やさしいことを優しく言うのは、これは一番むずかしいかもしれない。なんとなれば、あたりまえを当たり前だということになるからである。
文法はいまのところ主語に始まって主題に終わるだろうかと思っている。10回を目指すが、それではやはりすみそうにないので、主題が何回ぐらいを経てまためぐってくるか楽しみだ。書く内容を書き手が楽しまないと楽しくならないのでおおいにたのしんで書きたい。
さて前置きはきりがないので、主語から始める。焦点は、日本語に主語はあるか、となる。
日本語に主語はある。それは文とは何かという規定による。文は主語と述語とからなる、と規定すれば、文に主語があり、日本語に文があるとなれば、もちろん、日本語に主語がある。ただそのときに文には必ず主語がなければならないとすると少し日本語に合わなくなる。主語は目的語、補語という文の要素とともに、それぞれが文の要素になる。
それでは日本語には主語のない文があるのかということで、主語のない文を説明しようとすると、文は必ず主語があってそれを省略することがあると説明するのだから、省略をするということは主語があることを前提にしたことだとすれば、文は主語と述語からなるという規定のもとに、主語のない文はない、ということになる。
さきの説明がくりかえされてやはり文には主語があり、日本語の文には主語を示さないで文として扱うものがある、ということになる。これは日本語の文というものを次のように認めれば、文にはかならず述語があって文として成立するとでも言えば、文には主語がある場合とない場合とがあるということで、文には主語があると言ってよいのである。
すると文は主語と述語とからなるというのはその要素を備えていると考えることになる。文が表現されているときに、日本語はなにかと、その文の表現からその文に示された主語を見つけるか、文意に示されなくても主語を類推することになる。日本語はその要素をどこかに持つと考えているわけで、それがわからないときはその文の主語がないと考える。
そのように日本語の文には主語があるととらえるようになったのは、この150年ぐらいのことで、そう古いことではないが、主語を捉えるようになったということは、その以前から主語に相当するものを捉えることはあったのであると考えるのが好い。つまり主語という文の要素をそれまでの主語の捉え方に当てはめて説明をするようになったのである。
日本語に主語がある 日本語文法について その3
日本語に主語がない、と言えば、人目を引いてそれはどういうことかとなる。日本語に主語がある、というのは、当たり前のように聞こえてその事実が分析されない。主語がある文に比べて主語のない文がひとつの文章の中で同じくらいあることを調べてみたら、すぐにもわかることなので、いろいろな文章を単位にして調べてみることを奨める。
いまここで、文に対して文章というまとまりをとらえて主語のあるなしを説明したら、あるべきものがないことがわかる。ということは、文が主語と述語とからできていることをモデルにして、日本語で主語のない文をどう扱うかが議論となるが、それについてはほとんど言及がない。文にはやはり主語がなければならないのである。
日本語に二重主語がある、と言えば、たちまちに様々な意見が出始めて、大主語小主語と言い、象は鼻が長いと言い、さらには、―が―が使う、というような文が取り上げられる。すぐれた意見である、二重主語文の3種 d.hatena.ne.jp/killhiguchi/20060404 を読んで、主語とは何か、文とは何かということを、規定によって、日本語の主語はこんなふうに議論されているということが、よくわかるし、主語がたくさんあることに気付かされる。
文に主語があり、文に主語は一つだけあり、文の中核にあるのは主語である、と言っても、主語は主格としてとらえれば第1格であり、指名して表す主格であるので、いちばんはじめにあるが、それが二つありえないという規定である。なぜかと言えば言語の中核としてそうふるまってきたからに他ならない。言い換えればそうでなければ、困るからである。
主語廃止論議、二重主語、一つの文に主語があるかないか、一つか二つかを日本語の文の単位に見ようとするので、主語を主格補語と捉えても、主題と主語と言い分けても、必須成分ではない主格補語、つづめれば主語と言える妙で、あるいはまた話題が文を統一するとみて主題語としてみても、これも主語となるのであって、主語を認めなければならない。
実は日本語の文を単文、重文、複文というように文内部の分析をしてみようとして、主語があるのかないのか、主語がいくつあるのかとなると、単位文を重ねる文の作り方、二つを組み合わせる文の作り方といったことが分析できなくなって、それは重文のあわせ方も複文のかさね方も、日本語が熟語を持つので、文法分析が複雑なものとなるのであった。
この辞書が学生がよく使う、という二重主語文があるのはどうしてか。この辞書をよく使う、学生がよく使う、というのを、文情報として理解できるからである。しかし、文の規定により、このツールが辞書が学生がよく使う、と言ってしまうこともまた可能である。
日本語に主語は 日本語文法について その4
あるかないかについて説明し、文の必須要素とし文の成立を規定する主語については日本語にはないとしてみたところで、日本語に主語はある。それはまた文とは何かを捉えると文には主語はなければならないと言えるのでこの文の議論は撞着する。文の文法は日本語における翻訳の考え方であるから、それを踏まえた文のとらえ方にならざるを得ない。
いま日本語に主語があると言ってきたものを日本語に主語はあると言い、主語が、主語はと対比することができる。ここですぐにも気づく言い方、主語があると主語はあるという二つの言い方である。さらに、日本語に主語があるというのをベースに置くのであれば主語は日本語にあると言うほうが正しいような気がする。わかりやすく並べて書いてみる。
日本語に主語がある 主語が日本語にある これはどちらが言いやすいか。
主語は日本語にある 日本語には主語がある これはどちらも言うことができる。
語の順序を変えてもこのように文の意味情報にさして変化がないように日本語は見える。しかし、これは文法を考えるとある捉え方をもとに複雑に言い分けていることがわかる。
中国の日本語教科書に例文があってその課の提示文となっていたものに次の文があった。
学生は教室にいます これはさきのようなとらえ方では、教室に学生がいます とあるべきところである。これをみたときにこの提出順序では教えるときに困難があると思った。だから、教室には学生がいます となっている方が教えやすいのであるが、違った。
日本語に主語は、と言い出せばときには、日本語に主語は ない、というふうに思う。日本語に主語が ある、と言えるならふつうに主語はと言えばあるかないかを思って日本語に主語はないと言いたいのかと考えるわけである。机の上に本がありますと聞いて、さらに、机の上に本は、と聞けば、ありません、となる言い方があって、打消しのないになる。
その順序を変えて、本が机の上にあります というのを、本は机の上にあります と言い出せば、どこにあったのだろうかとか、本は机に上にありません と聞けばやはりないのでどこにあるのだろうかと思ったりする。いきなり言い出して、教室に学生がいます と言うのは当然なことに聞きこえるが、学生は教室にいます と聞くとどう思うだろうか。
日本語に主語があります と、主語が日本語にあります と言う順序はいずれでも言いうることであって、それを正しくして順序があると考えることから日本語の文法を説明することになる。だから、日本語に主語はありますか と言いうるわけで、日本語に主語があります と言えるからこそ、それについて、日本語には主語はあります となるのである。
主語が文に絶対要素でない文法
2015/04/15