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善悪の精神

2017-12-07 | 日本・日本人

ぜんあく、ぜんまく、連声の読みに、善人、悪人となるも、善悪を行いに見る宗教宗派がある。日本の仏教には、当然ながら、わたしたちに絶対神はない。神は絶対存在である。善神、悪神はいない。全知全能神はいない。善悪の観念を持つのは人間である。善悪は人の行いである。善悪を神にも仏にも見ることはない。よきこと、良きこと、好きこと、善きことである。あしきこと、悪しきこと、悪しきはよこしまである。正邪におけるよこしまは正しきことに対する。よい、わるい、この並びに、行いがある。善悪不二、善悪無記においては、もとひとつのものととらえ、無記とする、答えられない、それはどちらでも書くことができないとする考え方である。したがって、わたしたちにある、善と悪の精神は、もとより宿るものではない。人の行為に見るもので、善の報い、悪の報い、善行、悪行の、善果、悪果による。



ウイキペディアより

宗教的な善悪は、神という存在を仮定して人が授かった“ 教え ”に従うか反するかであるが、科学的には人類が発明した概念であり、精神文明の肯定と否定で“ 理想 ”と“ 理想否定 ”である。
善は、道義的に正しい事。または倫理に沿った行いや理想的目標。正義とは違い何かや誰かを裁くための概念ではなく、護り目指すべき理想としての概念。
悪は、古語では荒々しく猛々しい様を表し、道義を持たない事で、“ 動物的本能 ”からくる欲求を行動基準にする事。

その二つをセットにした考え方で、精神文化の根幹である道義を肯定するか否定するかという意味で、善悪(ぜんあく)とは、人類全体の客観性やある集団の客観性において、それが望ましいか否かという事である。

>無記
無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、こうした態度が採られた。
その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。
また、仏教では、倫理的価値を (1) 善、(2) 悪、(3) 無記の3つに分けるが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないもの」をいう。


ぜんあく‐ふに【善悪不二】の意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)
仏語。善も悪も別のものではなく、仏法では無差別の一理に帰着するということ。




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