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無言歌

2013-07-07 | 映画を見ました
語るに難しい。
辛酸を嘗めるとはこういうことか、官職を得るとはどういうことか。

実際に行われた20%しか描いていないと、監督は語った。
それは――

 農場といい砂漠のなかで夫の死体を探す、上海から来た妻にゴビ砂漠の墓場を教えてしまう。
土饅頭を一つ一つ、砂漠の風に吹かれながら手で土を掘り起こす。
堀りだしては確かめる木札に書かれた名前、埋められたのはどこか、誰か教えてと叫ぶ。
妻は収容所の宿舎、壕の中で眠りから目覚め、シャベルをのぞむ。
死体を埋葬した場所に案内をすることになる。
それは食糧にかえるために誰かに衣服をはがれ尻をえぐられた無惨さをさらして打ち捨てられていたところだ。
妻の嘆きに荼毘にふす。
そして脱走を企てる二人、力尽きた師から、まことに師と思うなら言いつけを聞け、早く逃げろ。


作品データ
原題 夾辺溝
製作年 2010年
製作国 香港・フランス・ベルギー合作
配給 ムヴィオラ


文化大革命前の中国で行われた反体制狩り「反右派闘争」の悲劇を描く。1956年、中国共産党の毛沢東は、党に対する批判を受け入れる「百花斉放百家争鳴」運動を推進した。これにより国民からさまざまな意見がうまれるが、毛沢東は翌年に方針を転換。党を批判した人々を反体制者として容赦なく粛清していった。60年、中国西部ゴビ砂漠の収容所に、上海からひとりの女性がやってくる。捕らえられた夫に会いたいとひたすら懇願する彼女の声が、男たちの心に変化をもたらしていく。

http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id340745/

「無言歌」厳しい言論統制下にある中国だからこそ生まれた秀作

 1980年代後半、中国映画界に第5世代の波が起こった時、大島渚監督から「ぬるま湯状況の日本と違って、中国のように政治的混沌と弾圧のある国から優れた映画が生まれるのは当然だ」と聞いたことがある。その時は何もそこまで決めつけなくてもと反発したものだが、この「無言歌」を見ると、今さらながらに大島発言に頷かざるを得ない。これは、未だに厳しい言論統制下にある中国だからこそ生まれた秀作だ。規制をかいくぐって作品を生み出そうとする強いパワーと勇気がみなぎっている。政府の許可を得ずに撮影したのも生半可な勇気ではないが、それ以上に作品のベースとなる空気の作り方に監督の勇気を感じるのだ。  この映画では実にあっけなく人が死んでいく。50年代末、毛沢東によって右派分子の烙印を押され、辺境の労働教育農場に送られた知識人たちだ。砂漠に掘った穴蔵に寝起きし、寒さと飢えと病に苦しむ毎日。食糧がないため労働を休止して寝ているだけなのに、毎日死人が出る。飢えに耐えられず死体を食べたと罰せられる人も出てくる。こんな、人間の尊厳を奪われた苛烈な状況をワン・ビン監督は長廻しのロングショットでたんたんと写し出していく。ドラマチックに感情に訴えるのではなく、吹きすさぶ風の中からとぎれとぎれに聞こえてくる彼らの声を丹念に拾っていく。その辛抱強く静かな描写から、イデオロギーの名の下で行われた悲惨な政策への怒りと批判、犠牲になった人たちの無念の思いが粛々と響いてくる。(森山京子)(映画.com)

[2011年12月08日 更新]


かつて下放というのがあった。知識人になろうとするエリート階級に地方の農村での活動を通して学ぶと言う強制だ。わたしがその下放にあって北京に戻れなくなった方に会った。戻れないなら北京では会えないはずだが、手だてをつくして帰ったと聞いた。何が帰れなくなった理由かはわからないが、その方は寡黙に何も語らない人であった。そうであるのか、そうなってしまったのか、特有の雰囲気であった。世にいう、思想改造になった野だろうかとそのときは思った。静かに笑みをたたえるのは、無言のその方にあるおだやかさだが、一方では深く沈み込んだままの人生を感じた。1984年、夏8月の万里の長城まで、ともに市民の観光バスで上ったときのことだ。

思想改造とは、いかなることか。この思いでには後日談がある。


次は、フリー百科事典ウイキペディアyり。

>上山下郷運動とは、文化大革命期の中華人民共和国において、毛沢東の指導によって行われた青少年の地方での徴農(下放)を進める運動のこと。下放はそれまでにも行われていたが、文化大革命以後、都市部の青年層に対して、地方の農村で肉体労働を行うことを通じて思想改造をしながら、社会主義国家建設に協力させることを目的とした思想政策として進められた。

>1968年の夏、例年通りの大学入試や雇用はついに行われず、多くの青少年が都市において無職のまま紅衛兵運動に没頭した。北京の清華大学では、1967年以降、学生の派閥の分裂や争いが起こり、相互の論戦から100日続く武力闘争へと発展、1968年7月28日には事態収束のため毛沢東が人民大会堂で学生リーダーたちを説得しなければならない状態になった。こうしたことから紅衛兵運動は停止された。1968年12月22日には『人民日報』が「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」として、都市に住む中学生・高校生などは農村に行って働かなければならないという毛の指示を報じた。

この上山下郷運動による下放は、その後、1968年からおよそ10年間に渡り行われた。都市と農村の格差撤廃という共産主義のスローガンの影響と、都市部の就職難を改善させる目的から、半強制的な性格かつ永住を強制する措置として行われ、10年間に1600万人を超える青年が下放させられた。その行き先は雲南省、貴州省、湖南省、内モンゴル自治区、黒竜江省など、中国の中でも辺境に位置し、経済格差が都市部と開いた地方であった。ただし、一部の党幹部の子女の中には、軍に入ったり、都市郊外の農村に移住したりするなど比較的恵まれた時期を過ごせた者もあった。

多くの青少年は「毛主席に奉仕するため」として熱狂的に下放に応じた。「広闊な天地にはなすべきことがたくさんある」などのスローガンのもと、辺境の農村に住み込んだり生産建設兵団で開墾作業に従事したりした若者たちは、やがて、地方と都市とのいちじるしい落差や農作業の厳しさに苦しむようになった。農業の専門家でもないのに農法や政治思想について農民たちにあれこれ指示しようとした学生たちは、識字率も低く古くからの意識や因習を残す農村の人々の反発を受け、現地になじむことはできなかった。農村には都市のような娯楽も高等教育もなく、家族や都市を懐かしむにも帰ることはできなかった。


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