中華にあって日の本を言い、辺境にあって極東をさし、日本語と中国語、そして英語との機縁は摩訶不思議である。
海にはさまれての故か、一衣帯水としてか、洋上はるかに臨むか、地続きの果てに想うか、近くにあっては文字をそのままに学び、遠くにあっては文明を容れ、東西を和して営み続けるは何が由縁か、これはただに日本語にある。
言語はあいいれないもの、蛮族の語という周辺族を見るは洋の東西を問わず同じである。
日本語にはそれがない、その見方や考え方はない。
文化を持つ語を尊び、文明をもつ語を貴び、いまもなお受け入れ続けるその心である。
漢字を書き、カタカナを発音し、平仮名で知ろうとするのは、やわらかき精神の、かしこき頭脳の、あふれ出る知恵のほかならない、日本語にあるたくみである。
宗教と思想と社会を語り、技術と産業と科学とを彩り操る言葉である。
ことば、言葉、詞、辞、コトバは、語とともに句となり、それをまた文にして、発する歌には文字のあらわれがある。
文字は言葉である、コトバである。
漢字平仮名カタカナ交じりの言語はその可能性を秘めて中国語、英語に日本語を影響させることになる。
文化文明の奇跡である。
日本語にとっての漢語の学びはいまや英語の習いともなって日本語にその概念を形成する。
海にはさまれての故か、一衣帯水としてか、洋上はるかに臨むか、地続きの果てに想うか、近くにあっては文字をそのままに学び、遠くにあっては文明を容れ、東西を和して営み続けるは何が由縁か、これはただに日本語にある。
言語はあいいれないもの、蛮族の語という周辺族を見るは洋の東西を問わず同じである。
日本語にはそれがない、その見方や考え方はない。
文化を持つ語を尊び、文明をもつ語を貴び、いまもなお受け入れ続けるその心である。
漢字を書き、カタカナを発音し、平仮名で知ろうとするのは、やわらかき精神の、かしこき頭脳の、あふれ出る知恵のほかならない、日本語にあるたくみである。
宗教と思想と社会を語り、技術と産業と科学とを彩り操る言葉である。
ことば、言葉、詞、辞、コトバは、語とともに句となり、それをまた文にして、発する歌には文字のあらわれがある。
文字は言葉である、コトバである。
漢字平仮名カタカナ交じりの言語はその可能性を秘めて中国語、英語に日本語を影響させることになる。
文化文明の奇跡である。
日本語にとっての漢語の学びはいまや英語の習いともなって日本語にその概念を形成する。