ちょうど1300年前に古事記が撰述された。そのころ日本語が形成されたと考えることができる。そこにあったのは記録されようとする日本語である。太安万侶が献上したのは、和銅五年、西暦712年の正月とされる。漢文で記録した神話である。歴史事実と物語を考えるならばその撰述は、序によると、天武天皇の命で稗田阿礼が誦習していた天皇の系譜と古い伝承を太安万侶が書き記したとあるので、暗誦した言葉はどういうものだったろうかと想像される。
ただそれをそのままに詞として書き取ったのではないとすると、書き取られて写され手を加えられたようなこともあるかもしれないので、現存する最古の写本がそれから700年ほど経過する15世紀のものであることは、その当時の日本語をどう推測するかであろう。しかし写本であることと漢文書きのスタイルを持つことを議論する一方で、そこに表された歌謡の表記は日本語を書き記すように工夫されたものであること、それを古代歌謡のひとつとして眺めると、そこには謡う日本語があったのである。
古代歌謡は上代に始まって平安朝までを時代にとらえる。上代歌謡はまた記紀歌謡と万葉集を代表とし、その後に日本の歌謡が和歌としてととのえるまでの流れには日本語の詩として詞となる経緯がある。それは漢詩に対する和歌であるとするのが文学での捉え方であるが、その上代歌謡をつぶさにみて日本語の成り立ちを見ることができる。古事記には120首ほどの歌謡が記録されていて、歌謡の表記には日本語の発音を表している。それは漢字の音を使って書き表していることはよく知られている。まず歌謡の日本語発音を確かにすると、つまりその音価を復元することができれば古代の日本語を、日本語、やまとことばの声でとらえることができる。古事記の有名な歌謡にある表記は、たとえば次のようである。
夜久毛多都 伊豆毛夜弊賀岐 都麻碁微爾 夜弊賀岐都久流 曾能夜弊賀岐袁
その表記から、次のように歌ったと思われる。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
こう歌ったと仮名表記を漢字交じりして理解しているが、この歌の発音は次のようにも書いている。それは日本書記の歌謡にもみえるのである。
夜句茂多莬 伊都毛夜覇餓岐 莬磨語昧爾 夜覇餓枳莵倶盧 贈廼夜覇餓岐廻
日本語を古代にこのように書き記そうとしたのはなぜか。記録者が違った発音を意識したものであるのか、自らの発音に合わせて漢字の発音を選んだということになる。
ただそれをそのままに詞として書き取ったのではないとすると、書き取られて写され手を加えられたようなこともあるかもしれないので、現存する最古の写本がそれから700年ほど経過する15世紀のものであることは、その当時の日本語をどう推測するかであろう。しかし写本であることと漢文書きのスタイルを持つことを議論する一方で、そこに表された歌謡の表記は日本語を書き記すように工夫されたものであること、それを古代歌謡のひとつとして眺めると、そこには謡う日本語があったのである。
古代歌謡は上代に始まって平安朝までを時代にとらえる。上代歌謡はまた記紀歌謡と万葉集を代表とし、その後に日本の歌謡が和歌としてととのえるまでの流れには日本語の詩として詞となる経緯がある。それは漢詩に対する和歌であるとするのが文学での捉え方であるが、その上代歌謡をつぶさにみて日本語の成り立ちを見ることができる。古事記には120首ほどの歌謡が記録されていて、歌謡の表記には日本語の発音を表している。それは漢字の音を使って書き表していることはよく知られている。まず歌謡の日本語発音を確かにすると、つまりその音価を復元することができれば古代の日本語を、日本語、やまとことばの声でとらえることができる。古事記の有名な歌謡にある表記は、たとえば次のようである。
夜久毛多都 伊豆毛夜弊賀岐 都麻碁微爾 夜弊賀岐都久流 曾能夜弊賀岐袁
その表記から、次のように歌ったと思われる。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
こう歌ったと仮名表記を漢字交じりして理解しているが、この歌の発音は次のようにも書いている。それは日本書記の歌謡にもみえるのである。
夜句茂多莬 伊都毛夜覇餓岐 莬磨語昧爾 夜覇餓枳莵倶盧 贈廼夜覇餓岐廻
日本語を古代にこのように書き記そうとしたのはなぜか。記録者が違った発音を意識したものであるのか、自らの発音に合わせて漢字の発音を選んだということになる。