主語 日本語文法について その2
文法を語ることはむずかしい。難しいことを優しく言うことができるか、できない。むずかしいことは難しく語られねばならない。やさしいことを難しげに言うことはできるが、理解されないだろう。やさしいことを優しく言うのは、これは一番むずかしいかもしれない。なんとなれば、あたりまえを当たり前だということになるからである。
文法はいまのところ主語に始まって主題に終わるだろうかと思っている。10回を目指すが、それではやはりすみそうにないので、主題が何回ぐらいを経てまためぐってくるか楽しみだ。書く内容を書き手が楽しまないと楽しくならないのでおおいにたのしんで書きたい。
さて前置きはきりがないので、主語から始める。焦点は、日本語に主語はあるか、となる。
日本語に主語はある。それは文とは何かという規定による。文は主語と述語とからなる、と規定すれば、文に主語があり、日本語に文があるとなれば、もちろん、日本語に主語がある。ただそのときに文には必ず主語がなければならないとすると少し日本語に合わなくなる。主語は目的語、補語という文の要素とともに、それぞれが文の要素になる。
それでは日本語には主語のない文があるのかということで、主語のない文を説明しようとすると、文は必ず主語があってそれを省略することがあると説明するのだから、省略をするということは主語があることを前提にしたことだとすれば、文は主語と述語からなるという規定のもとに、主語のない文はない、ということになる。
さきの説明がくりかえされてやはり文には主語があり、日本語の文には主語を示さないで文として扱うものがある、ということになる。これは日本語の文というものを次のように認めれば、文にはかならず述語があって文として成立するとでも言えば、文には主語がある場合とない場合とがあるということで、文には主語があると言ってよいのである。
すると文は主語と述語とからなるというのはその要素を備えていると考えることになる。文が表現されているときに、日本語はなにかと、その文の表現からその文に示された主語を見つけるか、文意に示されなくても主語を類推することになる。日本語はその要素をどこかに持つと考えているわけで、それがわからないときはその文の主語がないと考える。
そのように日本語の文には主語があるととらえるようになったのは、この150年ぐらいのことで、そう古いことではないが、主語を捉えるようになったということは、その以前から主語に相当するものを捉えることはあったのであると考えるのが好い。つまり主語という文の要素をそれまでの主語の捉え方に当てはめて説明をするようになったのである。
文法を語ることはむずかしい。難しいことを優しく言うことができるか、できない。むずかしいことは難しく語られねばならない。やさしいことを難しげに言うことはできるが、理解されないだろう。やさしいことを優しく言うのは、これは一番むずかしいかもしれない。なんとなれば、あたりまえを当たり前だということになるからである。
文法はいまのところ主語に始まって主題に終わるだろうかと思っている。10回を目指すが、それではやはりすみそうにないので、主題が何回ぐらいを経てまためぐってくるか楽しみだ。書く内容を書き手が楽しまないと楽しくならないのでおおいにたのしんで書きたい。
さて前置きはきりがないので、主語から始める。焦点は、日本語に主語はあるか、となる。
日本語に主語はある。それは文とは何かという規定による。文は主語と述語とからなる、と規定すれば、文に主語があり、日本語に文があるとなれば、もちろん、日本語に主語がある。ただそのときに文には必ず主語がなければならないとすると少し日本語に合わなくなる。主語は目的語、補語という文の要素とともに、それぞれが文の要素になる。
それでは日本語には主語のない文があるのかということで、主語のない文を説明しようとすると、文は必ず主語があってそれを省略することがあると説明するのだから、省略をするということは主語があることを前提にしたことだとすれば、文は主語と述語からなるという規定のもとに、主語のない文はない、ということになる。
さきの説明がくりかえされてやはり文には主語があり、日本語の文には主語を示さないで文として扱うものがある、ということになる。これは日本語の文というものを次のように認めれば、文にはかならず述語があって文として成立するとでも言えば、文には主語がある場合とない場合とがあるということで、文には主語があると言ってよいのである。
すると文は主語と述語とからなるというのはその要素を備えていると考えることになる。文が表現されているときに、日本語はなにかと、その文の表現からその文に示された主語を見つけるか、文意に示されなくても主語を類推することになる。日本語はその要素をどこかに持つと考えているわけで、それがわからないときはその文の主語がないと考える。
そのように日本語の文には主語があるととらえるようになったのは、この150年ぐらいのことで、そう古いことではないが、主語を捉えるようになったということは、その以前から主語に相当するものを捉えることはあったのであると考えるのが好い。つまり主語という文の要素をそれまでの主語の捉え方に当てはめて説明をするようになったのである。