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日本語の変化5

2015-03-12 | 日本語どうなるの?


日本語の音韻について変化を説明する名著がある。国語音韻の変遷 橋本進吉著である。いま国語音韻変化の概観を引用する。この書はインターネット上に青空文庫として公開している。

橋本進吉 国語音韻の変遷 - 青空文庫
www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/377_46838.html

底本:「古代国語の音韻に就いて 他二篇」岩波文庫、岩波書店
   1980(昭和55)年6月16日第1刷発行
   1985(昭和60)年8月20日第8刷発行
底本の親本:「国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)」岩波書店
   1950(昭和25)年

http://www.asahi-net.or.jp/~YZ8H-TD/misc/kodaikokugono_onin_etc%28ipa%29.pdf




http://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/377_46838.html

五 国語音韻変化の概観

 以上、日本の中央の言語を中心として、今日に至るまで千二、三百年の間に国語音韻の上に起った変遷の重おもなるものについて略述したのであるが、これらの変遷を通じて見られる重なる傾向について見れば、
(一) 奈良朝の音韻を今日のと比較して見るに、変化した所も相当に多いが、しかし今日まで大体変化しないと見られる音もかなり多いのであって、概していえば、その間の変化はさほど甚しくはない。
(二) 従来、古代においては多くの音韻があり、後にいたってその数を減じたという風に考えられていたが、それは「い」「ろ」「は」等の一つ一つの仮名であらわされる音韻だけのことであって、新たに国語の音として加わりまたは後に変化して生じた拗音や長音のような、二つまたは三つの仮名で表わされる音をも考慮に入れると、音韻の総数は、大体において後代の方が多くなったといわなければならない。
(三) 音韻変化の真の原因を明らかにすることは困難であるが、我が国語音韻の変遷には、母音の連音上の性質に由来するものが多いように思われる。我が国では、古くから母音一つで成立つ音は語頭には立つが語中または語尾には立たないのを原則とする。これは、連続した音の中で、母音と母音とが直接に接することを嫌ったのである。それ故、古くは複合語においてのみならず、連語においてさえ、母音の直前に他の母音が来る場合には、その一方を省いてしまう傾向があったのである。その後国語の音変化によって一語中の二つの母音が続くものが出来、または母音が二つ続いた外国語(漢語)が国語中に用いられるようになると、遂にはその二つの母音が合体して一つの長音になったなども、同じ傾向のあらわれである。我が国で拗音になった漢字音は、支那では多くは母音が続いたもの(例えばkia kua mia io)であるが、これが我が国に入って遂に拗音(kya kwa mya ryoなど)になったのも、やはり同種の変化と見ることが出来ようと思う。そうして今日のように、どんな母音でも自由に語中語尾に来ることが出来るようになったのは第三期江戸時代以後らしい。かように見来たれば、右のような母音の連音上の性質は、かなり根強かったもので、それがために、従来なかったような多くの新しい音が出来たのである。
(四) 唇音退化の傾向は国語音韻変遷上の著しい現象である。ハ行音の変遷において見られるpからFへ、Fからhへの変化は、唇の合せ方が次第に弱く少なくなって遂に全くなくなったのであり、語中語尾のハ行音がワ行音と同音となったのは唇の合せ方が少なくなったのであり、ヰヱ音がイエ音になり、また近世に、クヮグヮ音がカガ音になったのも、「お」「を」が多分woからoになったろうと思われるのも、みな唇の運動が減退してなくなったに基づく。かように非常に古い時代から近世までも、同じ方向の音変化が行われたのである。
(五) 外国語の国語への輸入が音韻に及ぼした影響としては、漢語の国語化によって、拗音や促音やパ行音や入声のtやン音のような、当時の国語には絶無ではなかったにしても、正常の音としては認められなかった音が加わり、またラ行音や濁音が語頭に立つようになった。また西洋語を輸入したために、パ行音が語頭にも、その他の位置にも自由に用いられるようになった。
 音便と漢語との関係は、容易に断定を下し難いが、多少とも漢語の音の影響を受けたことはあろうと思う。
(六) 従来の我が国の学者は日本の古代の音韻を単純なものと考えるものが多く、五十音を神代以来のものであると説いた者さえある。しかるに我々が、その時の音韻組織を大体推定し得る最古の時代である奈良朝においては、八十七または八十八の音を区別したのであって、その中から濁音を除いても、なお六十ないし六十一の音があったのである。それらの音の内部構造は、まだ明らかでないものもあるが、これらの音を構成している母音は、五十音におけるがごとく五種だけでなく、もっと多かったか、さもなければ、各音は一つの母音かまたは一つの子音と一つの母音で成立つものばかりでなく、なお、少なくとも二つの子音と一つの母音または一つの子音と二つの母音から成立つものがあったと考えるほかないのであって、音を構成する単音の種類または音の構造が、これまで考えられていたよりも、もっと多様複雑になるのである。これらの音が平安朝においては濁音二十を除いて四十八音から四十七音、更に四十四音と次第に減少し、音の構造も、大体五種の母音と九種の子音を基礎として、母音一つか、または子音一つと母音一つから構成せられるようになって、前代よりも単純化したのである。この傾向から察すると、逆にずっと古い時代に溯れば、音の種類ももっと多く、音を構成する単音の種類や、音の構造も、なお一層多様複雑であったのではあるまいか、すなわち、我々の知り得る最古の時代の音韻組織は、それよりずっと古い時代の種々の音韻が、永い年月の間に次第に統一せられ単純化せられた結果ではあるまいかと考えられるのである。




橋本進吉
はしもとしんきち
(1882―1945)

国語学者。福井県敦賀(つるが)市に生まれる。代々の医家であったが、5歳にして父を失った。第三高等学校を経て、1906年(明治39)東京帝国大学文科大学言語学科を卒業、国語調査委員会補助委員となる。09年東京帝国大学文科大学助手に任ぜられ、27年(昭和2)助教授、2年後教授となる。34年「文禄(ぶんろく)元年天草版吉利支丹(キリシタン)教義の用語について」によって文学博士の学位を授与された。43年定年退官、翌年国語学会発足と同時に初代会長となる。その研究は国語学のほとんどの領域に及ぶ。卒業論文では係り結びをテーマにし、文法研究をもって学者としての道を歩み出した。その文法理論は、中等学校の文法教科書として著された『新文典初年級用』(1931)によって世に橋本文法として知られる。意味と音声形式の両面から規定された文節という文法上の単位は、理解が容易であり、その整然たる文法体系は教育界に歓迎された。ただ、教科書という制約上、橋本自身の学説と同一ではない。その文法学説は『国語法要説』(1934)などに示されている。また、日本語の歴史的研究にも多くの業績を残したが、なかでも音韻史が著しい。いわゆる上代特殊仮名遣いの研究は、奈良時代の音韻だけでなく、文法、語義などの研究をも飛躍的に進歩させた。さらに、キリシタン資料における日本語ローマ字表記によって、1600年ごろの音韻体系を明らかにし、悉曇(しったん)、韻学の研究成果を踏まえて、日本語の音韻史を記述することに力を注いだ(『国語音韻の研究』『国語音韻史』『上代語の研究』など)。『校本万葉集』(共編)、『古本節用集の研究』(共著)にその一端がうかがわれるように、厳密な文献批判に基づき、慎重かつ徹底した研究態度によって公にされた論述は精緻(せいち)を極める。著書、論文、講義案はほぼ著作集に収められている。[沖森卓也]
『『橋本進吉著作集』全12巻(1946~83・岩波書店)』


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