ちょうど1週間前になる記事で注目するサイトとして論文PDFを取り上げて、その後に論文の(一)をさがしてみると、それはともに含めて書籍になっているのを知って入手、読了した。3日前か、その日の検索、注文12日、そして13日に読み始めた。感想を書こうとして、そのままになった。
それで問いかけのタイトルに筆者はどう答えたか、それはなんであったか。この筆者によって、
愛しています 伝わっていますか
愛しているという表現法を上記のように言いたかったらしい。
愛しているのである
という考察には至らないように見える。結局、言いたいことに見えるのは、である体は嘘をつく、嘘っぽいとなるので、その文体を選ばないとなる。哲学の問いになってしまって、188ページ 日本語からの哲学論 どうにも混沌としたままである。日本語マジックか。
2023/01/12に配達しました
日本語からの哲学: なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか? (犀の教室 Liberal Arts Lab)
平尾昌宏
出版社 : 晶文社 (2022/9/27)
発売日 : 2022/9/27
単行本 : 312ページ
>
〈です・ます〉体で書き上げた論文が却下された著者が抱いた疑問。「なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?」
〈である〉と〈です・ます〉、二つの文末辞の違いを掘り下げていった末にたどり着いたのは、全く異なった二つの世界像=哲学原理だった。
国語学、日本語学の成果をふまえ、日本語で哲学することの可能性を追求した画期的な論考。〈である〉と〈です・ます〉それぞれが表す哲学原理とは? 愛、正義、ケアの概念は〈である〉で語るべきか、それとも〈です・ます〉で語るべきか? 世界には〈です・ます〉でしか描けないものがある。スケールの大きな思考実験にして、唯一無二の哲学入門。
「本書は(自分でも驚くのだが)日本語の「です・ます」と「である」について、ただそれだけを論じた本である。だが、その結果として(これも驚いたことに)、全く異なった二つの世界像に到達する。この二つの世界像がそれぞれどのようなものか、それらにどんな意味があるか、それを今ここで示すのは難しい。その意味、というより、それらに何らかの意味があることを明らかにするためだけに、これだけの分量が必要だったと言うしかない。もしその内実に関心があるという奇特な方がいらっしゃったら、後は本文を読んで貰うしかない。」(「まえがき」より)