万葉集を語るには歌人を取り上げてその歌を鑑賞する。例えば初めに登場するのは伝説の歌人、額田王である。その有名に比して、歌人としてのこすのは、事績は歴史上の人物としての正確な記録は万葉集をおいてほかにはない。それだけに万葉集にある人物像となる。額田王はその名を額田姫王として、その記述には鏡王の娘で十市皇女を生んだと正史には記すが、その事実は系譜をたどりえないとされる。みこと持ち歌人、代作者のことは万葉集にある。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
額田王
ぬかたのおおきみ
『万葉集』初期の女流歌人。『日本書紀』に鏡王の娘とあるが,鏡王については不明。同じ万葉女流歌人で藤原鎌足の室となった鏡王女 (かがみのおおきみ) の妹とする説もある。大海人皇子 (天武天皇) に愛されて十市皇女 (とおちのひめみこ) を産んだが,のちに天智天皇の後宮に入ったらしい。この天智天皇,大海人皇子兄弟の不仲,前者の子大友皇子と大海人皇子との争い,壬申の乱などには彼女の影響が考えられる。『万葉集』には,皇極天皇の行幸に従って詠んだ回想の歌を最初とし,持統朝に弓削 (ゆげ) 皇子と詠みかわした作まで,長歌3首,短歌 10首を残している (異説もある) 。職業的歌人とする説もあるが,歌には明確な個性が表われている。質的にもすぐれており,豊かな感情,すぐれた才気,力強い調べをもつ。
朝日日本歴史人物事典の解説
額田王
生年:生没年不詳
大和時代の皇族,歌人。『日本書紀』天武天皇の後宮の記事に「額田姫王」とし,鏡王の娘で,十市皇女を生んだとある。鏡王の系譜は不明。
『万葉集』に歌を残す鏡王女は,額田王の姉かともいわれるが,定かでない。生年については,十市皇女の夫大友皇子が大化4(648)年生まれであり,またふたりの間の子葛野王が慶雲2(705)年に卒し,『懐風藻』に年37とあることを手掛かりに,舒明朝(629~641)に求め,舒明9(637)年,あるいは2年などの説が行われている。
『万葉集』においては,斉明朝(655~661)に歌人としての活躍をみせ始め,続く天智朝(662~671)を頂点として,持統朝(687~696)のおそらくは初期におよぶが,天武朝(672~686)の作と確認されるものはない。壬申の乱勃発(672年6月)直前の,天智天皇の山科御陵より退散するときの歌(巻2)をもって,実質的には活動を終えた観がある。
長歌3首,短歌9首。このうち,「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」などの2首(巻1),および近江国に下るときに作る歌の長反歌(巻1)は,作者について,各々斉明天皇,天智天皇との異伝が存する。いずれも,額田王が,その歌才を認められ,天皇の意を体して代作したためと捉えるのが穏当か。
天智朝の漢風への強い志向を反映して,春秋の優劣を判別した歌(巻1)には,漢詩文の対句,同語反復の技法が取り込まれ,天智天皇を思う「君待つと我が恋ひをればわがやどの 簾動かし秋の風吹く」(巻4・8)は,閨怨詩の影響を受けたとされる。ただし後者には仮託説があり,蒲生野遊猟時の歌(巻1)もまた,薬狩 のあとの宴席での座興とみる向きがある。
従来詮索の的となった,額田王をめぐる天智天皇と大海人皇子(天武天皇)兄弟の葛藤については,なお問題が残ろう。
宮廷を活躍の場としつつも,確かな技巧と格調の高さをみせ,個性に根ざした作歌の,先駆的な開花を示した歌人として位置づけられる。
<参考文献>谷馨『額田姫王』,伊藤博『万葉集の歌人と作品』上
(芳賀紀雄)
出典 朝日日本歴史人物事典