国語を日本語にする。日本語は、訓読みをすれば、やまとことばである。すると、国語を和語にする、ということである。国語が近代のイデオロジーによって形成されたとするなら、日本語は現代の言語学によってみることである。その日本語には、漢語、外来語、外国語、和語があり、カタカナ語にコンシュ語が加わる。混用する種類のことばである。またイデオロジーの国語を和語にすれば、その和語は倭語にまでさかのぼる。しかし、その和語つまり倭語を記録するものはない。
言語と語言の違いを問うが、答えはない。日本語に言語と伝わる。中国語に語言となる。語源と打てば発音にそうが、語言では辞書の登録にはなさそうである。日本語と中国語での語構成の違いかと推測する。北京語言学院という頃の、日語専家となった思い出があるが、いまも疑問は変わらない。中国語の連語に、言語と語言とでは異なるのだろう。言語学は語言学であるのだから変哲ない議論であるようだ。言語を熟語で取り入れたのだからそのままに、言語をゲンゴとするのはおかしいという人がいて、言語四種論の名称のように、ゲンギョとすべきであるとの物言いであるが、さもなければ、言語道断のゴンゴのように読めというわけである。固有名や四字熟語もそれなりの理由があることであるから、言語を熟語で言語のことを言い語りとせずにゲンゴとしてきたのは意味のあることなのであると考えることになる。ゲンゴはコトバなのである。言を日本語読みし、語を同様にしてみて、言語は文字としての言葉となったのである。それを漢語をもって書き言葉とする習いから、言語が書き言葉の、固定した表記により、言語概念を作り出すことになる。言、語、それぞれの文字を言葉としても知るところであったことを、古訓によって見ることができる。ゲンゴが言葉であるとすると、言と語の違いを訓読みで、言うということと、語るということの違いをもって、言語としていることがわかる。そして語るには話すがくわわって、その位置を変えることになる。語と話はコトバの広がりを持つようになる。自ら語ることと自らを含めて話すことである。語ると話すには行為としての違いを見せるようになる。そして話すには日本語の意味内容を持つようになる。
日本語という概念を考えようとするときに多くの場合に共通するのは日本はニッポン語なのか、にほん語なのかという呼称であろう。国号の議論があってそれは歴史に日本という語がいつどのように記録されたかを追求する。しかし、結局はそれを自らのものとなしえない歴史が日本にはある、わたしに、この議論は国号を表記する文書の発見にあっても、それを発音したか、どう訓読みしたか、そのアイデンティティーを求めることになるので、日本はこの表記に日本国であるのである。
その伝統は日本と書かれた大日本においてもそうであるし、それを追求するといつの間にかにほんと呼び、ニッポンとするわたしたちの祖先がいるのである。それを容易に決められないという日本の概念であるから名辞からとらえるところの議論は困難を極める。どちらでもよいとする概念のとらえ方には日本委二つの読みがあり、加えて3つめの読みがあったのであり、書き方には、仮名文字、ローマ字となると、その言葉の概念を外延にnipponとなるとして、この表記だけは、にほんをnihonとすることはまずないので、それも外延の周囲にあることであるから、内包をどう見るかである。
日本語はニッポン語でもにほん語でもない、日本語なのである、その概念には漢字を文字とし文字が言葉であるとする概念がある。日本をニッポンとするにも、にほんとするにも、日本とことばを意識する。そのいずれの音韻をとるか、nipponに、にほんが日本だとする。この概念は音声言語と文字言語を持つ言語の特性をそのままに受け入れている。
言語のこと言語と語言の違いを問うが、答えはない。日本語に言語と伝わる。中国語に語言となる。語源と打てば発音にそうが、語言では辞書の登録にはなさそうである。日本語と中国語での語構成の違いかと推......
言語と語言の違いを問うが、答えはない。日本語に言語と伝わる。中国語に語言となる。語源と打てば発音にそうが、語言では辞書の登録にはなさそうである。日本語と中国語での語構成の違いかと推測する。北京語言学院という頃の、日語専家となった思い出があるが、いまも疑問は変わらない。中国語の連語に、言語と語言とでは異なるのだろう。言語学は語言学であるのだから変哲ない議論であるようだ。言語を熟語で取り入れたのだからそのままに、言語をゲンゴとするのはおかしいという人がいて、言語四種論の名称のように、ゲンギョとすべきであるとの物言いであるが、さもなければ、言語道断のゴンゴのように読めというわけである。固有名や四字熟語もそれなりの理由があることであるから、言語を熟語で言語のことを言い語りとせずにゲンゴとしてきたのは意味のあることなのであると考えることになる。ゲンゴはコトバなのである。言を日本語読みし、語を同様にしてみて、言語は文字としての言葉となったのである。それを漢語をもって書き言葉とする習いから、言語が書き言葉の、固定した表記により、言語概念を作り出すことになる。言、語、それぞれの文字を言葉としても知るところであったことを、古訓によって見ることができる。ゲンゴが言葉であるとすると、言と語の違いを訓読みで、言うということと、語るということの違いをもって、言語としていることがわかる。そして語るには話すがくわわって、その位置を変えることになる。語と話はコトバの広がりを持つようになる。自ら語ることと自らを含めて話すことである。語ると話すには行為としての違いを見せるようになる。そして話すには日本語の意味内容を持つようになる。
日本語という概念日本語という概念を考えようとするときに多くの場合に共通するのは日本はニッポン語なのか、にほん語なのかという呼称であろう。国号の議論があってそれは歴史に日本という語がいつどのように記......
日本語という概念を考えようとするときに多くの場合に共通するのは日本はニッポン語なのか、にほん語なのかという呼称であろう。国号の議論があってそれは歴史に日本という語がいつどのように記録されたかを追求する。しかし、結局はそれを自らのものとなしえない歴史が日本にはある、わたしに、この議論は国号を表記する文書の発見にあっても、それを発音したか、どう訓読みしたか、そのアイデンティティーを求めることになるので、日本はこの表記に日本国であるのである。
その伝統は日本と書かれた大日本においてもそうであるし、それを追求するといつの間にかにほんと呼び、ニッポンとするわたしたちの祖先がいるのである。それを容易に決められないという日本の概念であるから名辞からとらえるところの議論は困難を極める。どちらでもよいとする概念のとらえ方には日本委二つの読みがあり、加えて3つめの読みがあったのであり、書き方には、仮名文字、ローマ字となると、その言葉の概念を外延にnipponとなるとして、この表記だけは、にほんをnihonとすることはまずないので、それも外延の周囲にあることであるから、内包をどう見るかである。
日本語はニッポン語でもにほん語でもない、日本語なのである、その概念には漢字を文字とし文字が言葉であるとする概念がある。日本をニッポンとするにも、にほんとするにも、日本とことばを意識する。そのいずれの音韻をとるか、nipponに、にほんが日本だとする。この概念は音声言語と文字言語を持つ言語の特性をそのままに受け入れている。