言語コミュニケーション学会が在籍生会員と教員とで組織されることは、それはその通りであるが、組織体を構成して運営することは、たやすいことではない。意思決定を行う、実行をする、その担い手となる下働きがあって、組織の命令系統を作る一方で、会員資格を持つ全員からの総意を受ける、それを取りまとめて議していかなければならない。例えば、そこに経費が絡むと予算建てから収支に伴う決算までを行わなければならないし、アカウンタブリティー、言うところの説明責任を負わなければならない。会報を発行して、その活動を周知する宣伝広報も重要なことである。それを教育として実現するか、研究の活動を支える実質となるか、それは組織体の発足にかかわって、会の目的に定めることとなる。会長を擁して指揮を受けて統率が図られることであるが、なによりも民主主義と言われる世の中であるから、その通りおこなわれなければならない。予算があること、会員名簿があること、会の行事が決められること、運営の母体を取り決め、活動のスケジュールを持つこと、その成果を会員に還元することなど、目途することはいくつかあった。
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学会運営には3人の仲間があればよいから、あと2人を探しておいでと、言ったら、3人に声をかけて集まった。
これで行事スケジュールを話し合って、組織作りをスタートさせればよい。
運営には企画と実行推進と、あとは事務処理となる。
事務方は会員管理、会計、通信など、かつて大学院学生の頃に副手をしていて学会の事務を経験しているので、これが大変なのではあるが、組織が整ってくれば、縁の下の力持ちとなる。
そのころ、仏教文学の研究会を東西でそれぞれ独立していた会があって、全国学会にすべく東西合同の会の事務役をしたことがあった。
学会関係の事務を大学院生がやっていたのは、担当指導の教授が命じたからであるが、全国学会発足の会が名古屋で開かれて、院生時代に名大を訪れたことがあったり、いろいろと経験がある。
名簿管理、会計、会報作り、そして学会ニュースなど。
大学教員になったときにはすぐにも、万葉学会、中世文学会、全国大学国語国文学会の大会を立て続けに3年、やったことがある。
大学の業務、研究と教育の仕事であったのではあるが、学会の運営には3人の担い手があればできるという、指導教授の教えが生きていた。
それをそのまま、かれこれ20年の大学人となって、また、大学の学科のために学生指導に取り入れることとなったのは、めぐりあわせに外ならない。
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L缶のネーミングは仲間づくりが進むうちに話し合いをして決められた。
学会学生運営員会のための、学生自身による、学生の発想である。
言語表現フェスティバルを企画し計画して提案して実行するには主催をするグループ名がいるということであった。
L缶はイベントを多く生み出していたから、そのネーミングは格好良かった。
いわば、自立をしたのである。
わたしにはいっぽうで、2000年の大学祭の参加はゼミ生を集めてパンダカフェを開いていた。
赴任して気づけば、研究室には仲良し8人衆がいた。
インターゼミナールとなって大学祭に活動を始めたのは言語文化コースのゼミ生である。
しかし、そのときに学生生活委員としての一コマが、学祭ステージに起こった。
学祭片付けの見回りにでて、ステージ階段に疲れ果てて倒れこむ学生がいた。
みると、準備をしていた新入り学生たち、学科のna-niクンであった。
夕闇迫る中で、声を掛けたらよろよろと立ち上がって片付けに消えていった。
つなぎを着ていたので、作業を続けたのだろう。
大学祭に下役として働いていた、その、L缶の主要メンバーの立ち上げに来たのは、na-niクンであったのである。
そのクンに聞いたのが、学祭実行のようなイベントをつくりたい、と意思を述べた。
na-niクンは、それからしばらくしてのことであった。
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学会運営には3人の仲間があればよいから、あと2人を探しておいでと、言ったら、3人に声をかけて集まった。
これで行事スケジュールを話し合って、組織作りをスタートさせればよい。
運営には企画と実行推進と、あとは事務処理となる。
事務方は会員管理、会計、通信など、かつて大学院学生の頃に副手をしていて学会の事務を経験しているので、これが大変なのではあるが、組織が整ってくれば、縁の下の力持ちとなる。
そのころ、仏教文学の研究会を東西でそれぞれ独立していた会があって、全国学会にすべく東西合同の会の事務役をしたことがあった。
学会関係の事務を大学院生がやっていたのは、担当指導の教授が命じたからであるが、全国学会発足の会が名古屋で開かれて、院生時代に名大を訪れたことがあったり、いろいろと経験がある。
名簿管理、会計、会報作り、そして学会ニュースなど。
大学教員になったときにはすぐにも、万葉学会、中世文学会、全国大学国語国文学会の大会を立て続けに3年、やったことがある。
大学の業務、研究と教育の仕事であったのではあるが、学会の運営には3人の担い手があればできるという、指導教授の教えが生きていた。
それをそのまま、かれこれ20年の大学人となって、また、大学の学科のために学生指導に取り入れることとなったのは、めぐりあわせに外ならない。
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L缶のネーミングは仲間づくりが進むうちに話し合いをして決められた。
学会学生運営員会のための、学生自身による、学生の発想である。
言語表現フェスティバルを企画し計画して提案して実行するには主催をするグループ名がいるということであった。
L缶はイベントを多く生み出していたから、そのネーミングは格好良かった。
いわば、自立をしたのである。
わたしにはいっぽうで、2000年の大学祭の参加はゼミ生を集めてパンダカフェを開いていた。
赴任して気づけば、研究室には仲良し8人衆がいた。
インターゼミナールとなって大学祭に活動を始めたのは言語文化コースのゼミ生である。
しかし、そのときに学生生活委員としての一コマが、学祭ステージに起こった。
学祭片付けの見回りにでて、ステージ階段に疲れ果てて倒れこむ学生がいた。
みると、準備をしていた新入り学生たち、学科のna-niクンであった。
夕闇迫る中で、声を掛けたらよろよろと立ち上がって片付けに消えていった。
つなぎを着ていたので、作業を続けたのだろう。
大学祭に下役として働いていた、その、L缶の主要メンバーの立ち上げに来たのは、na-niクンであったのである。
そのクンに聞いたのが、学祭実行のようなイベントをつくりたい、と意思を述べた。
na-niクンは、それからしばらくしてのことであった。