なので を文頭に用いるのは現代の用法と見るが、誤用として説明したり、文書には用いないようにすると言ったりすることがある。
だから と比較して、だから に から という因果関係の明示的用法があるため、それと解説を併せる場合がある。
なのに を逆接の接続詞と扱う。文頭の用法がある。それなのに の略したもの。
だのに という接続詞と対比することがある。*それだのに とは言わない。
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もう一度、振り返ってみておこう。なので なのだ のだ んだ ーだ ーじゃ
なので
2023-06-14 | 日本語どうなる2023
なので という語法に、文接続で用いる文末から、文頭の接続が目立つようになって、話ことばの口調と言われていた。つまり、文として続かない。
Aなので、Bである
と接続されるのを、Aという文で言い切ると、次の文頭に、なので を用いてBという文に続け . . . 本文を読む
日本語教育入門期の言葉づかいで、本です、本ではありません、のように、ペアにして肯定、否定の言い方を導入するときに、本ではありません というところを、本じゃありません とする会話表現があった。東京方言であろうと思い込んでいた。では の音変化で、じゃ となると。これは本じゃない 本じゃありません。そうすると、ややこしくなるが、である の言い方に、だ となる、というのは、では の言い . . . 本文を読む
―だ という、この語法は、なり たり に、近代になって、教科文法で説明があった。指定の助動詞と言う。断定はいつから加えたか。断定と指定の判断というときの違いである。現代語で断定と文法の機能を言うが、指定という方が分かりよいはずである。ーだ となった経緯に、ーに あり ーて あり と見えるが、ーであり
の であ から だ になったとする音変化が分かりよいとすると、この ーだ は、ーである ということにもなる。ーです については、 ―であります ということになるか。 . . . 本文を読む
長いんです、短いんです、大きいんです、小さいんです、ダンボなんです、と言ってみると、
長いってなあに、短いってなあに、大きいってなあに、小さいってなあに、でも、ダンボって小象の名前でしょ。
鼻が長い、足が短い、耳が大きい、目が小さい、象は鼻が長いんです、足が短いんです、耳が大きいんです、目が小さいんです。
でもでも、ダンボは小僧でしょ。
長い といえば、それだけではセンテンス . . . 本文を読む
なのだ 二重判断と説明したのは、国語教育の教科文法を文節にして、国語を進めてきた方々であっただろうかと、それは研究所の所長に代々、ついておられた。
岩波国語辞典に編者として名をとどめている。
センテンスの判断は1回、それを言語にするとすれば、二重主語のような捉え方はどうしてか。
なのだ といえば、どうして二重の判断ができるのか、いまでは強調とか念押しの語尾の用法のようになってしまっているが、この日本語は根底にある解明すべき論法となる。
のだ 文末につけて、話ことばで、んだ と言う現象が、テレビ放送の関東弁で耳につくことがあった。 . . . 本文を読む
なのだ という言い回しが二重判断になるという説明を聞いた。半世紀も前の研究所長の言である。標準的な国語を目指していた国語研究所は変貌していく。国語では思いもつかない日本語の見方があると思われたのだろう。日本語教育に視野を入れるのはセンターの付置となる経緯を作り出す。
なのだ について、辞書解説で、強い判断を表すとした。人の知らないことを教える口調とも。
なので は、なのだ の言 . . . 本文を読む
文の接続に、なので とする。作文に現れる。話し言葉の印象があるので、文だけには限らない。会話の口調に、なので、なので というのだろう。
検索して英語に翻訳すると7つにもなるとか。それに相当する表現バリエーションの接続が、日本語になると、なので 一つかと勘違いしそうな解説である。
話し言葉の砕けた口調と受け取られる言葉づかいである。丁寧には、ですので と言い換えればよいという。あるいは、書きことばでの、であるので となるようなところ、したがって そうだから のようになる。 . . . 本文を読む
蒸し暑い。32℃を超えて、夕刻には気温が下がらない。とんでもない暑さだ、とか、とてつもない暑さだ、とか言ってみて、その文脈はどう言えばいいだろうと考える。暑くてヤバイ!とか、ヤバい暑さだ、やばくない?と言うと、涼しくなるか、ますます暑い。誉め言葉に、とんでもない。ほら吹きに、とてつもなくとなれば、暑さにやられて、ヤバいことになった、とでも。 . . . 本文を読む
くずし字で言えば草書体に七を3つ重ねて、この時、二つ目が十になるの、七十七と続ける。
高校同期会の延期の知らせがあった。七十代を超えた人の集まりは新型コロナの余波に危険な状況があるというデータを示されて高齢者の罹患は厳しい様子が見える。神様の祟りがないように触らぬがよしと、喜寿の集いともなれば永らえたパワーは寿命をものともしないようにも思えるが、残念な決定であったのだろう。 . . . 本文を読む