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75年前の今日は

2016-12-08 14:56:09 | 太平洋戦争史
暦には載っていないが、75年前の1941年(昭和16年)12月8日は、「太平洋戦争開戦日」である。

人間、得てして嫌なこと、悪しきことは忘れ去りたく、良いこと、楽しかったことは何時までもよく覚えているものである。しかし、75年前の今日の日のことは、我々の年代ですら忘れがちである。

ましてや若い世代では、未履修のこともあり、ほとんどの方は頭の片隅にもないのでは?・・もっとものことである。このせちがない時代を生き抜くことは至難なことであり、過去のことより、“今この時をどう生きるか”のご時勢である。

そのことを知りつつも、敢えてその日を紐解く。勿論、私も乳飲み子であり、この日のことは知る由もなく、長じて知った出来事である。

先ずは当日の再現である。

朝から、(^^♪ 守るも攻めるも黒鉄(くろがね)の 浮かべる城こそ頼みなる・・~と メロディーに乗せてラジオの勘高い声が鳴り響く! 

“臨時ニュース・臨時ニュースを申し上げます”
帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戰鬪状態に入れり―  
      (大本營陸海軍部發表・十二月八日午前六時)

陸軍は 英植民地のマレ―・コタバルへ敵前上陸
海軍は ハワイ・真珠湾へ奇襲攻撃を同時に敢行している。
        (時差の関係で陸軍が早い)

ここでは、「真珠湾攻撃」をみる。

日本海軍は空母6隻(飛行機353機)で奇襲攻撃、敵戦艦4隻を撃沈するなど、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えている。

この報は、暗電・トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)で本国にもたらされているが、それさえ聞けずに名誉の戦死を余儀なくされた兵士達が居たことを忘れてはならない。

なかでも、この作戦で用いられた特殊潜行艇(全長:24m・全幅:1.85m)5隻(2人乗り)に乗り組んだ九軍神たちである。(1人は捕虜) 

結果として、彼等の現場での戦果は皆無であるも、本戦争における両国民の意識高揚の小道具となったのでる。

即ち、日本では、大本営による「敵艦アリゾナ轟沈」の小道具に使われ、国民の熱狂を誘引することとなる。

一方、米国では、座礁で捕虜となったS少尉の特殊潜行艇を市中引き回しならぬ、全米本土引き回して、ルーズベルト大統領の軍事国債発行に係る正当性の小道具に使われている。

      
帰艦かなわぬ軍神たちはトラトラトラを黄泉で聞く

後に彼等は軍神と崇められ、4ヶ月後に日比谷公園で海軍合同葬を営んで貰ったとあるが、そのご遺族には、12月8日は“痛恨の極み”の一日であったに違いない。

そして昭和20年8月15日、全戦没者310万人(軍人・軍属230万人、民間人・800万人)に及ぶ尊い人命の犠牲をもって漸く終戦を迎えたのである。

あの日から既に3/4世紀を経た今日、こうして平和な御代を送らせて貰っているのである。
先人のご苦労に感謝の念が仕切りな一日なり。

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オバマ米大統領・広島で追悼

2016-05-26 11:32:09 | 太平洋戦争史
昨日、伊勢志摩サミット終了後オバマ氏が広島を訪問した。
平和公園の原爆慰霊碑に献花し、所感を述べたのである。

同時刻にNHKテレビにかじりつき かたずをのんで同氏の所感を聞いた。
概要はの以下の通り。
     
        <オバマ氏の主な語録>
     ”罪のない人達が苦しみ犠牲になった”
     ”キノコの雲の中に人類の矛盾”
     ”科学が殺人の道具となることがある”
     ”広島は真理を教えている”
     ”原爆が落とされたときに思いをはせている”
     ”広島の思いは消えない”
     ”日米は同盟と友情を育んできた”
     ”核兵器廃絶へと導いていく”
     ”核を持つアメリカは勇気を持たなけねばならない”
     ”私たちのたちの戦争に対する考えを変えなけねばならない”
     ”私たちは過去から学ぶことができる”
     ”アメリカも日本も犠牲は同じ”
     ”すべての国・人の努力が必要”
     ”亡くなった人たちは私たちと同じだった” 
     ”世界は広島によって一変した”
     ”核なき世界を信ずる 世界の中の人々に大きな希望”
これに対し安部総理大臣は 
 
”世界の中のどこでも このような経験決して繰りかえさせてはならない” 
”オバマ大統領に敬意を表す”とし と 結んだ。

    
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暦に載らない「太平洋戦争開戦日」

2012-12-08 13:56:15 | 太平洋戦争史
今日の暦には、「針供養の日」とある。
針の供養は江戸時代から、針の労をねぎらい裁縫上達を祈る祭りとして広まったそうである。昔の針仕事は女性にとって大事な仕事の一つであったのである。

一方、暦には載っていないが、71年前の1941年(昭和16年)12月8日は、「太平洋戦争開戦日」である。

人間、得てして嫌なこと、悪しきことは忘れ去りたく、良いこと、楽しかったことは何時までもよく覚えているものである。しかし、71年前の今日の日のことは、我々の年代ですら忘れがちである。

ましてや若い世代では、未履修のこともあり、ほとんどの方は頭の片隅にもないのでは?・・・もっとものことである。このせちがない時代を生き抜くことは至難なことであり、過去のことより、“今この時をどう生きるか”のご時勢である。

そのことを知りつつも、敢えてその日を紐解く。
勿論、私も乳飲み子であり、この日のことは知る由もなく、長じて知った出来事である。


当日の再現である。朝から、ラジオの勘高い声が鳴り響く.

“臨時ニュース・臨時ニュースを申し上げます”
帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戰鬪状態に入れり― 
        (大本營陸海軍部發表・十二月八日午前六時)

陸軍は 英植民地のマレ―・コタバルへ敵前上陸、
海軍は ハワイ・真珠湾へ奇襲攻撃を同時に敢行している。
        (時差の関係で陸軍が早い)

ここでは、「真珠湾攻撃」をみる。

日本海軍は空母6隻(飛行機353機)で奇襲攻撃、敵戦艦4隻を撃沈するなど、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えている。

この報は、暗電・トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)で本国にもたらされているが、それさえ聞けずに名誉の戦死を余儀なくされた兵士達が居たことを忘れてはならない。

なかでも、この作戦で用いられた特殊潜行艇(全長:24m・全幅:1.85m)5隻(2人乗り)に乗り組んだ九軍神たちである。(1人は捕虜) 

結果として、彼等の現場での戦果は皆無であるも、本戦争における両国民の意識高揚の小道具となったのでる。

即ち、日本では、大本営による「敵艦アリゾナ轟沈」の小道具に使われ、国民の熱狂を誘引することとなる。

一方、米国では、座礁で捕虜となったS少尉の特殊潜行艇を市中引き回しならぬ、全米本を土引き回して、ルーズベルト大統領の軍事国債発行に係る正当性の小道具に使われている。

      
  ”帰艦かなわぬ軍神たちはトラトラトラを黄泉で聞く”

後に彼等は軍神と崇められ、4ヶ月後に日比谷公園で海軍合同葬を営んで貰ったとあるが、そのご遺族には、12月8日は“痛恨の極み”の一日であったに違いない。

そして昭和20年8月15日、全戦没者310万人(軍人・軍属230万人、民間人・800万人)に及ぶ尊い人命の犠牲をもって漸く終戦を迎えたのである。

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太平洋戦争史-(完)「戦いすんで日が暮れて」

2011-12-10 10:15:31 | 太平洋戦争史
太平洋戦争は今から66年前の昭和二十年八月十四日、日本は連合国に「ポツダム宣言」の受託を通知し、日本の無条件降伏でその幕を閉じている。

振り返れば、昭和16年12月の開戦から3年9ヶ月、昭和12年の日中戦争から数えれば9年、さらに昭和6年の満州事変まで遡ると、実に15年に及ぶ長い戦争が日本の大敗北でようやく終っている。

ここに、“日出る国・日本帝国”は崩壊したのである。


以下、「太平洋戦争・負債勘定」である。

 1、人的損害・・・全戦没者310万人以上(日中戦争死没者18,9万人含む)   
    軍人・軍属の戦死・行方不明:240万人(陸軍約183万人・海軍約57万人)   
    空襲・その他による一般市民の死者:70万人(うち原爆による死者:32万人) 
 
 2、物的損害・・・兵器の損害は当時の価格で700億円 
    軍事的損失:航空機52,700機 ・ 艦艇870隻
    商船被害:損失814万トン・大破75万トン

 3、戦  費・・・当時の価格で総額7,559億円(日中戦争以降の総軍事費)    
    昭和19年度における軍事費の歳出予算に占める比率は85,5%

 4、物的資産被害 ・・・被害総額は当時の価格で653億円   
    建物・家財道具・港湾・運河・船舶・鉄道・車両・通信設備

◆おわりに◆

三百十万に及ぶ人命の損失、おびただしい国富、その他物的の莫大な犠牲や巨大な戦費を注ぎ込んだにもかかわらず、日本は無条件降伏に至っている。

壮大な大東亜共栄圏のことも“夢のまた夢”で終り、辛うじて残された日本本土、そして外地の軍人、軍属及び居留民約七百万人が引き揚げねばならなくなった。

これが敗戦当時の日本の姿である。
“こんな無謀な戦争は決して二度と繰り返してはならぬ”太平洋戦争の最大の教訓である。

                (完)

12月6日から五日間に亘り 幣拙文にお付き合い戴き 有難うございました。

太平洋戦争史-④ 戦況編(昭和16~20年)

2011-12-09 11:32:09 | 太平洋戦争史
お手数でしょうが各年次をお開き下さい。↓(私の別ブログです)

【昭和16年(1941)】
http://www.seniorcom.jp/community/diary_show_d.php?prgId=889&id=58301&user_id=12498

【昭和17年(1942)】
http://www.seniorcom.jp/community/diary_show_d.php?prgId=889&id=60882&user_id=12498

【昭和18年(1943)】
http://www.seniorcom.jp/community/diary_show_d.php?prgId=889&id=54890&user_id=12498

【昭和19年(1944)】
http://www.seniorcom.jp/community/diary_show_d.php?prgId=889&id=60924&user_id=12498

【昭和20年(1945)】
http://www.seniorcom.jp/community/diary_show_d.php?prgId=889&id=56779&user_id=12498

戦況編(完)

続く

太平洋戦争史-③ 開戦・「真珠湾攻撃」とマレー「コタバル上陸」

2011-12-08 10:07:19 | 太平洋戦争史
今年は「太平洋戦争・開戦70周年」で、今日はその日である。

奇しくも、今朝のNHKニュースでは、「太平洋戦争末期に激戦地となった硫黄島で、先月29日から、今年度初めてとなる発掘調査を行い、およそ1週間で155人の遺骨を収容しました」と報じている。

早速、昭和16年12月8日にタイムスリップする。

昭和16年12月8日朝7時、ラジオは突然臨時ニュースのチャイムを鳴らした。
以下、その日を再現する。

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

♪守るも攻むるも くろがねの  浮かべる城ぞ たのみなる
 浮かべるその城 日の本の  皇国の四方を 守るべし
 真鉄のその艦 日の本に  仇なす国を 攻めよかし~ 
 
                (軍艦行進曲)  

この日のラジオは、一日中数々の軍歌にのせて開戦ニュースを流していたそうである。

太平洋戦争はハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアム等に日本が先制攻撃を行なって始まっている。

大本営の作戦では、ハワイ空襲開始とマレー上陸開始の相互関係については特に熟慮して同時攻撃を行っている。何故なら、一方が先行すれば他方の急襲が失敗に終わる恐れがあったからである。

早速「真珠湾攻撃」を見る。

ご案内のとおり、昭和16年(1941)12月8日(ハワイ現地時間12月7日)に、日本海軍の機動部隊が航空機を主力にハワイの真珠湾にある米海軍基地(アメリカ太平洋艦隊と航空基地)に対して行った奇襲攻撃のことである。

この作戦は、連合艦隊司令長官山本五十六の構想の下に行われ、これによりアメリカ・イギリスに宣戦して太平洋戦争へと突入、この時点で日本とアメリカも第二次世界大戦に参戦することとなる。

作戦経緯をみると、11月に日本海軍機動部隊は真珠湾攻撃に備え、千島列島の択捉島単冠湾に集結し、26日に、連合艦隊命令により、ハワイ沖に向け出航している。

機動部隊は、12月3日に山本長官の激励の電報を受け、12月7日 0700(現地時間1230)旗艦赤城のマストに、 「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」の信号を掲げ、オアフ島からの敵飛行哨戒圏内に突入して行く。

これとは別に12月7日夜 開戦時の配備についた先遣部隊のうち特別攻撃隊の特殊潜航艇5隻は、同夜真珠湾外において各々母艦を発進している。

その後、特別攻撃隊はラナイ島の西方海面で収容配備についたが、発進した5隻の特殊潜航艇は1隻も帰艦することはなく、♪トラトラトラ(我レ奇襲に成功セリの暗号電)を黄泉で聞く~こととなった。

なお、この奇襲攻撃で軍事施設以外を攻撃しないように目標を限定したため、一般市民に与えた被害は少なかったようである。

この奇襲攻撃の戦果は、 戦艦・巡洋艦など船舶の撃沈・大破が18隻、航空機が200余機、戦死・行方不明2,400余人、戦傷2,380余人。

一方、日本軍の損害は、飛行機では、喪失機29機・要修理機122機、特殊潜航艇5(乗員9名戦死 1名捕虜)、戦死搭乗員55名。とある。

しかし、その日の真珠湾には米国主力艦隊はここには居なかったので無傷で残り、その後の戦いに日本軍は窮地に追い込まれることになるのである。

次に マレー「コタバル上陸」↓ である。

http://www.seniorcom.jp/community/diary_show_d.php?prgId=889&id=54521&user_id=12498

こうして太平洋戦争は、旧日本軍の「真珠湾奇襲攻撃」と、ここマレー半島の「コタバル敵前上陸」をもって開戦したのでる。


この先 玉砕・本土空襲の悪夢の日々が続くことになろうとは、誰もが思わないいままに暮れた12月8日である。

太平洋戦争史-②「開戦への経緯」

2011-12-07 14:51:07 | 太平洋戦争史
何事もそこに至るには それなりの要因がある。
太平洋戦争に至った要因を挙げるなら その時の時代背景ではなかろうか?・・・。

昭和12年(1937)に勃発した盧溝橋事件の後、日本は、アメリカ・イギリス・オランダ等との間で対立が深まっていた。双方は以前から中華民国(支那)における利権を巡り対立していたのである。

日本は当時、中華民国領へ侵出していた。
これに対しアメリカ、イギリス、支那、オランダ等は日本に対して中華民国領への侵出を停止することを求めていた

そんななか、なをも申し入れを拒む日本に、四ヶ国は、遂に「石油と鉄鋼の輸出制限」などの措置をとる様になってきたのである。(現在の北朝鮮が置かれている立場に類似しているかも・・)

このことは自国に対する挑戦であると反発した日本は、ドイツ・イタリアと「日独伊三国軍事同盟」を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立を一層深める結果となったようだ。

苦境に立つ近衛文麿内閣は、昭和16年4月から関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍がフランス領インドシナへ侵出すると、両者の関係は決定的に悪化し、アメリカは「在米日本資産の凍結」、日本への「石油輸出の全面禁止」などを通告している。こうなっては近衛内閣もお手上げである。

10月に近衛内閣から代わった東條英機内閣は、11月20日アメリカに対する交渉最終案を用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使等にハル国務長官に対し交付させ、以後の最終交渉に当たらせた。

しかし日本の行動を快く思わない蒋介石や、チャーチルの働きかけもあるなか、11月26日朝、アメリカ海軍から“台湾沖に日本の船団の移動”との報告を受けた(実際は輸送船であったがアメリカ海軍による故意の過大報告とも?)ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使らに提示してきたのである。

これを日本に対する最後通牒と受け取った東条内閣は12月1日の御前会議において日本時間12月8日の開戦を決定している。

こうして運命の昭和16年12月8日を迎えるのである。  続く

太平洋戦争史-①「神の国」のこと

2011-12-06 12:21:46 | 太平洋戦争史
未履修科目・日本史のうち「神の国」をみる。

神の国とされた日本の戦史を辿ると、古くは、文永(1274年)・弘安(1281年)の二度に亘る蒙古来襲も神風?が吹き、フビライの元軍(モンゴル)に不戦勝したのである。

それ以来、明治維新を終えて富国強兵を図った明治期には、♪日清談判破裂して〜品川乗り出す東艦〜と、征清歌を唄った「日清戦争(明治27〜28年)」では、清国海軍主力艦・定遠をも撃破して勝利を収めている。

更にその10年後には、今度は当時の軍事大国・ロシア、♪一列談判破裂して 日露戦争はじまった〜の、世紀の一戦「日露戦争(明治37〜38年)」に臨む。

この戦いでは、世界最強とされたバルチック艦隊を有するロシアに、東郷平八郎元帥率いる日本連合艦隊が、T字作戦を用いてこれまた撃破している。(NHK「坂の上の雲」参照)

よって乃木大将(当時は中将)が、わが息子等を犠牲にして悪戦苦闘した不落の要塞・203高地を漸く陥れることとなる。

これより以前、広瀬中佐の♪轟く砲音飛び来る弾丸〜荒波洗うデッキの上に~と、唱歌で唄われた、数次にわたる旅順港閉塞作戦も侭ならずの果てに、この203高地陥落で、漸くにして旅順港の敵艦隊を全滅に至らしめたのである。

この報に日本国中は、♪日本勝った〜日本勝った〜ロシァ負けた〜ロシァの皇帝腰ゃ抜けた〜と唄い、各地で提灯行列が行われている。

しかし、ここまで負け知らずの神の国ではあったが、昭和期に入るや、その神話も崩れ、米英などからなる連合軍に嫌と云うほど叩きのめされ、漸く悪しき夢から目が覚めたのである。続く

もうすぐ終戦の日-6(戦況③・昭和18年)

2011-08-14 10:30:29 | 太平洋戦争史

♪刃も凍る北海の  御楯立ちて二千余士  精鋭こぞるアッツ島
       山崎大佐指揮をとる  山崎大佐指揮をとる~
            
              (アッツ島決戦勇士)

戦局はこの年から「撤退」・「玉砕」へと加速することになろうとは・・・

【戦 況】

1/2  「ニューギニア・ブナの日本軍玉砕」
東部ニューギニアでは、連合軍の猛攻で日本陸海軍は撤退をくりかえし、戦局は敗色が濃くなった。

・2/1  「日本軍、ガタルカナル島から撤退」
太平洋南西部のガダルカナル島からの撤退を開始。7日、撤退完了(11000名・死者25000名)

・4/18 「連合艦隊指令長官海軍大将・山本五十六がソロモン群島で戦死」
ソロモン上空で乗機を撃墜され戦死(享年59歳)。海軍兵学校を卒業以来、39年間の海軍生活を送り、真珠湾奇襲攻撃の成功で国民的英雄とされた。
その後、米軍がソロモン諸島に次々と上陸し、日本軍に対する反攻作戦を展開してゆく。

・5/9  「アメリカ潜水艦、北海道幌別を砲撃」  
・5/12 「アメリカ軍、アッツ島に上陸」
冒頭の歌(アッツ島決戦勇士)の如し、5月12日、力尽き玉砕している。

・6/30 「アメリカ軍、レンドバ島(ソロモン群島中部)に上陸」
・7/29 「日本軍、キスカ島から撤退」
・9/4  「アメリカ軍、ラエ・サラモア(ニューギニア)に上陸」
・10/2 「コロンバンガラ島(ソロモン群島)の日本軍撤退」
・11/1 「アメリカ軍、ブーゲンビル島(ソロモン群島)に上陸」  
・11/21「アメリカ軍、マキン・タラワ両島(ギルバート諸島)に上陸」 11/25に日本守備玉砕軍

・11/22 「米・英・中によるカイロ会談」
ルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石による日本の戦後処理についての討議。日本の無条件降伏、日本が獲得した太平洋の島の放棄、中国東北地方と台湾の中国への返還、朝鮮の独立などを規定している。そして、11/27~12/1に「カイロ宣言」として発表。


「戦時下の国内の様子」

 ・学校教育は、そろばん、読み書きは勿論のこと、国民学校の校庭では、模型飛行機による木製の操縦かんを操作、そして飛行機の絵を瞬間的に見て当てる訓練まで行っている。

 ・陸軍航空整備学校では、学童による空の体験入隊が行われ、所沢の陸軍航空整備学校に一日入校も行われている。

 ・動員学徒による兵器増産戦力増強のために、軍需生産工場で工作機械を操作しながら戦車を製造し、造船所でもボルトをしめて船体の組み立て作業を、そして飛行機工場では、プロペラ取り付け作業が行なわれている。

 ・国民生活は、国民精神総動員本部が東京市内に置かれ、「ぜいたくは敵だ」という立看板を配置し、装飾品や生活用品や文房具など販売制限された。

 ・「学徒出陣」のこと 太平洋戦争の激化に伴い、学生の徴集延期制度が撤廃され、1943年10月21日、神宮外苑競技場で、見送りの家族など6万5千人を動員して出陣学徒壮行式が挙行されている。

昭和18年はこうして戦っている。

つづく


もうすぐ終戦の日5(戦況②・昭和17年)

2011-08-13 13:25:30 | 太平洋戦争史

 往くぞ 往くぞ ガンとやるぞ~ と、 
歓呼の声に送られて 今ぞいでたつ父母の国~で あったが、 

一番乗りを やるんだと  力んで死んだ 戦友の
 遺骨をだいて 今入る  シンガポールの 街の朝 

(戦友の遺骨を抱いて)

に、なろうとは・・昭和17年の主な戦況をたどる。

102「日本軍・マニラ占領」台湾から3日連続の空襲を行い、米軍機の大半を撃破。
 /29  「日本軍ラバウル占領」

208 「シンガポール総攻撃」 日本軍がシンガポールの英軍に対し総攻撃を開始。冒頭の「戦友の遺骨を抱いて」は、その時を唄ったものである。
 /15「シンガポール陥落」 山下泰文司令官が、英軍司令官パーシバルと会談、降伏を確認している。

3/01 「日本軍・ジャワ島上陸」
 
08 「日本軍・ラングーン占領、ニュギニア上陸」

409 フィリピン・バターン半島の戦い」米軍が日本軍に降伏。後に日本軍は、捕虜に収容所までの約100kmを炎下徒歩で行軍させ、多くの死者を出し、後々問題になったあのバターン死の行進」である。          

18「米陸軍機本土初空襲」 B25・16機によって日本本土(東京・名古屋など)が初めて空襲される。

501「日本軍・ビルマのマンダレ-占領」

07「マニラ湾コレヒドール島の米軍降伏」 

05 「ミッドウェー海戦」 4月の本土空襲をきっかけに、日本は太平洋正面の防衛強化のため、この日ミッドウェー島攻略を行った。その結果虎の子の空母4隻を喪失し、アメリカの海・空軍戦力の優勢が決定的になった。

07「アリューシャン戦線」 日本軍は防衛線拡大のためアリューシャン作戦を行っている。一時期アッツ・キスカ両島を占領するも、次々と撤退を余儀なくされた。以降各地の離島で日本軍は玉砕の運命をたどることとなる。

808 「第一次ソロモン海戦」  24 「第二次ソロモン海戦」

21「ガダルカナル島で、上陸した一木支隊潰滅」

912 「ガダルカナル島で、川口支隊攻撃開始、同14日に中止」

1112 「第三次ソロモン海戦」ガダルカナル島周辺の制空・制海権は連合国側に移り、同島は孤立状態になる。

1231 「大本営、ガダルカナル島撤退を決定」

つづく


もうすぐ終戦の日-4(戦況①・昭和16年)

2011-08-13 13:05:39 | 太平洋戦争史

1208

日本時間2時、日本軍マレ-半島に敵前上陸開始。

 同3時19分、第一航空隊ハワイ真珠湾に空撃開始。

4時、野村・来栖両大使、ハル長官に最後通牒手交。               

6時、大本営開戦を発表  

1140分、宣戦詔書発布

 

こうして太平洋戦争(大東亜戦争)の幕が切って落とされたのである。
    

1210
「マレー沖海戦」
日本軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力戦艦である、プリンス・オブ・ウェールズなど2艦を撃沈。これにより、東南アジア海域の制海権は日本海軍の手中に入った。そして英軍撤退により、日本軍がマレー半島西部ペナン島を無血占領し、続いて東岸のクワンタンを占領、半島を横断しクアラルンプールへ向かった。この時の日本軍の進軍は戦車でなく自転車だった。
日本軍、「グァム島を占領」、ルソン島に上陸。

1225
「日本軍 香港占領」
第23軍を主力とした日本軍が、香港ルートによる列強の中国支援を断ち切るべく、イギリス防衛軍を破って香港を攻略。以後45年8月の日本の敗戦まで香港は日本の軍政下にあった

※「関連」
12
11:日独伊三国協定終結・単独不講和をとり決め。
   12:閣議で、戦争の名称を「大東亜戦争」と決定(支那事変も含む)。
   16:呉海軍工廠で戦艦「大和」が竣工。

以下、終戦までの戦況をみてゆく。


もうすぐ終戦の日-3(開戦・真珠湾攻撃ほか)

2011-08-12 12:44:43 | 太平洋戦争史

太平洋戦争は、ハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアム等に日本が先制攻撃を行なって始まっている。

大本営の作戦では、ハワイ空襲開始とマレー上陸開始の相互関係については特に熟慮して同時攻撃を行っている。何故なら、一方が先行すれば他方の急襲が失敗に終わる恐れがあったからである。

 昭和16年12月8日朝7時、ラジオは突然臨時ニュースのチャイムを鳴らした。

以下、その日を再現する。

臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。「帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」 

  ♪守るも攻むるも くろがねの  浮かべる城ぞ たのみなる
   浮かべるその城 日の本の  皇国の四方を 守るべし
   真鉄のその艦 日の本に  仇なす国を 攻めよかし~
              (軍艦行進曲)

 この日のラジオは、一日中数々の軍歌にのせて開戦ニュースを流していたそうである。

「真珠湾攻撃」のこと

 

ご案内のとおり、昭和16年(1941)12月8日(ハワイ現地時間12月7日)に、日本海軍の機動部隊が航空機を主力にハワイの真珠湾にある米海軍基地(アメリカ太平洋艦隊と航空基地)に対して行った奇襲攻撃のことである。

 

この作戦は、連合艦隊司令長官山本五十六の構想の下に行われ、これによりアメリカ・イギリスに宣戦して太平洋戦争へと突入、この時点で日本とアメリカも第二次世界大戦に参戦することとなる。

 

作戦経緯をみると、11月に日本海軍機動部隊は真珠湾攻撃に備え、千島列島の択捉島単冠湾に集結し、26日に、連合艦隊命令により、ハワイ沖に向け出航している。機動部隊は、12月3日に山本長官の激励の電報を受け、12月7日 0700(現地時間1230)旗艦赤城のマストに「 皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ 」の信号を掲げ、オアフ島からの敵飛行哨戒圏内に突入して行く。

 

これとは別に12月7日夜 開戦時の配備についた先遣部隊のうち特別攻撃隊特殊潜航艇5隻は、同夜真珠湾外において各々母艦を発進している。その後、特別攻撃隊はラナイ島の西方海面で収容配備についたが、発進した5隻の特殊潜航艇は1隻も帰艦することはなく、♪トラトラトラ(我レ奇襲に成功セリの暗号電)黄泉で聞く~こととなった。

 

なお、この奇襲攻撃で軍事施設以外を攻撃しないように目標を限定したため、一般市民に与えた被害は少なかったようである。この奇襲攻撃の戦果は、 戦艦・巡洋艦など船舶の撃沈・大破が18隻、航空機が200余機、戦死・行方不明2,400余人、戦傷2,380余人。一方、日本軍の損害は、飛行機では、喪失機29機・要修理機122機、特殊潜航艇5(乗員9名戦死 1名捕虜)、戦死搭乗員55名 とある。

 

しかし、その日の真珠湾には米国主力艦隊はここには居なかったので無傷で残り、その後の戦いに日本軍は窮地に追い込まれることになるのである。

 

「コタバル上陸」のこと
 

真珠湾空襲に先立つこと約数時間前、12月8日午前1時30分第18師団・歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸を敢行している。

 

 太平洋戦争がこの時に始まったのである。 守る英軍は、歩兵第8旅団を主力とする約6000の兵力で海岸一帯に防御陣地を築いていたようである。鉄条網をめぐらした陣地は水際から50~70M付近に構築され、その後方には散兵壕があり、地雷も多数敷設されていたそうである。

 

この戦闘で、死傷者700名、上陸用舟艇の沈没15、損傷10と、多大な犠牲を払い激闘4時間の末、海岸線を制圧した上陸部隊は直ちにコタバル市内を占領したとある。

 

この間、上陸船団の「淡路山丸」などが被弾し、再度の揚陸作業のやむなきに至るも、その後11日には補給基地トンバット、12日はムロン、13日は航空基地タナメラと電撃的に部隊を進めていったとある。

 

こうして太平洋戦争は、旧日本軍の「真珠湾奇襲攻撃」と、ここマレー半島の「コタバル敵前上陸」をもって開戦したのでる。

この先 玉砕・本土空襲の悪夢の日々が続くことになろうとは、誰もが思わないままに暮れた12月8日である。

 

早速、その後の戦局をみてゆく。


もうすぐ終戦の日-2(開戦に至る経緯)

2011-08-11 12:48:09 | 太平洋戦争史

太平洋戦争に至った要因はなんだったのだろうか?

昭和12年(1937)に勃発した盧溝橋事件の後、日本は、アメリカ・イギリス・オランダ等との間で、対立が深まっていた。双方は以前から中華民国(支那)における利権を巡り対立していたのである。

日本は当時中華民国領へ侵出していた。これに対し、アメリカ、イギリス、支那、オランダ等は日本に対して中華民国領への侵出を停止することを求めていた。そのなか、なをも申し入れを拒む日本に、四ヶ国は、遂に「石油と鉄鋼の輸出制限」などの措置をとる様になある。(現在の北朝鮮が置かれている立場に似ている。)

このことは自国に対する挑戦であると反発した日本は、ドイツ・イタリアと「日独伊三国軍事同盟」を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立を一層深める結果となったようだ。苦境に立つ近衛文麿内閣は、昭和16年4月から関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍がフランス領インドシナへ侵出すると、両者の関係は決定的に悪化し、アメリカは「在米日本資産の凍結」、日本への「石油輸出の全面禁止」などを通告している。

こうなっては近衛内閣もお手上げである。10月に近衛内閣から代わった東條英機内閣は、11月20日アメリカに対する交渉最終案を用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使がハル国務長官に対し交付し、以後の最終交渉に当るも、蒋介石、チァーチルの働きかけもあるなか、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾の船団の移動との報告を受けた(実際は輸送船であったがアメリカ海軍による故意の過大報告)ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍隊警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含むいわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使らに提示したのでこれを日本に対する最後通牒と受け取った東条内閣は12月1日の御前会議において日本時間12月8日の開戦を決定している。

こうして運命の昭和16年12月8日を迎えるのである。


もうすぐ終戦の日-1(はじめに)

2011-08-10 12:13:49 | 太平洋戦争史

お盆の15日が近づいた。

今年は 先の「太平洋戦争」の66回目の終戦の日(終戦記念日)である。

今日より 当時の一端を思い起こすこととする。

先ずは、未履修科目・日本史のうち神の国をみる。

神の国とされた日本の戦史を辿ると、古くは、文永(1274)・弘安(1281)の二度に亘る蒙古来襲も神風?が吹き、フビライの元(モンゴル)軍に不戦勝したのである

それ以来、明治維新を終えて富国強兵を図った明治期には、♪日清談判破裂して~品川乗り出す東艦~と、征清歌を唄った日清戦争(明治2728)では、清国海軍主力艦・定遠をも撃破して勝利を収めている。

更にその10年後には、今度は当時の軍事大国・ロシア♪一列談判破裂して 日露戦争はじまった~の、世紀の一戦日露戦争(明治3738)に臨む。

この戦いでは、世界最強とされたバルチック艦隊を有するロシアに、東郷平八郎元帥率いる日本連合艦隊が、T字作戦を用いてこれまた撃破している。

よって乃木大将が、わが息子等を犠牲にして悪戦苦闘した不落の要塞・203高地を漸く陥れることとなる。

これより以前、広瀬中佐の轟く砲音飛び来る弾丸~荒波洗うデッキの上に~・・と、唱歌で唄われた、数次にわたる旅順港閉塞作戦も侭ならずの果てに、この203高地陥落で、漸くにして旅順港の敵艦隊を全滅に至らしめたのである。

この報に日本国中は、日本勝った~日本勝った~ロシァ負けた~ロシァの皇帝腰ゃ抜けた~と唄い、各地で提灯行列が行われている。

しかし、ここまで負け知らずの神の国ではあったが、昭和期に入るや、その神話も崩れ、米英などからなる連合軍に嫌と云うほど叩きのめされ、漸く悪しき夢から目が覚めたのである。

さて、どうしてあの太平洋戦争に至ったのだろうか?・・・。かっては神の国とされた日本の道程、そしてこの戦争に至る経緯と以下の主な戦況を検証するものである。なお記述は以下の「戦時年表」に従い、思いつきの独断と偏見によるものであることをお断りしておく。

【戦時年表】
1
奇襲攻撃 ハワイ真珠湾・マレーコタバル上陸   (昭和16128)
2
マレー沖海戦・シンガポール進攻作戦       (昭和161210日)       
3
ミッドウェー海戦 ガタルカナル島作戦      (昭和17)
4
アッツ島玉砕・学徒出陣            (昭和18年)
5
マリアナ沖海戦・サイパン島玉砕・レイテ沖海戦・東京爆撃(昭和19年)
6
硫黄島玉砕・沖縄決戦・広島原爆・長崎原爆   (昭和20年)
7
ポツダム宣言受託
8、その他関連

次は 「開戦への経緯」~「開戦」を見る。 


太平洋戦争を振り返る(はじめに)

2007-06-27 16:40:10 | 太平洋戦争史
昭和時代も既に19年まで検証してきた。
終戦まであと一年、ここらで「太平洋戦争」をみておく。
 
まずは、未履修科目・日本史のうち「神の国」をみる。
神の国とされた日本の戦史を辿ると、

古くは、文永(1274年)・弘安(1281年)の二度に亘る蒙古来襲も神風?が吹き、フビライの元(モンゴル)軍に不戦勝したのである

それ以来、明治維新を終えて富国強兵を図った明治期には、

♪日清談判破裂して~品川乗り出す東艦~
と、征清歌を唄った「日清戦争(明治27~28年)」では、清国海軍主力艦・定遠をも撃破して勝利を収めている。

更にその10年後には、今度は当時の軍事大国・ロシアと、

♪一列談判破裂して 日露戦争はじまった~
の、世紀の一戦「日露戦争(明治37~38年)」に臨む。

この戦いでは、世界最強とされたバルチック艦隊を有するロシアに、東郷平八郎元帥率いる日本連合艦隊が、T字作戦を用いてこれまた撃破している。

よって乃木大将が、わが息子等を犠牲にして悪戦苦闘した不落の要塞・203高地を漸く陥れることとなる。

これより以前、広瀬中佐の
♪轟く砲音飛び来る弾丸~荒波洗うデッキの上に~・・
と、唱歌で唄われた、数次にわたる旅順港閉塞作戦も侭ならずの果てに、この203高地陥落で、漸くにして旅順港の敵艦隊を全滅に至らしめたのである。

この報に日本国中は、
♪日本勝った~日本勝った~ロシァ負けた~ロシァの皇帝腰ゃ抜けた~
と唄い、各地で提灯行列が行われている。

しかし、ここまで負け知らずの神の国ではあったが、昭和期に入るや、その神話も崩れ、米英などからなる連合軍に嫌と云うほど叩きのめされ、漸く悪しき夢から目が覚めたのである。