西洋思想は必然の王国であると言った人がいる。すべてのことに理由があるとして、「それはなぜか?」とその背後にある「真実」を解き明かさずにはいられないのである。
英語で "The Search for Truth"(真理の探究)というのは、個々の事象から一般法則を抽象することとほぼ同義である。例として、ニュートンの万有引力について考えてみよう。
ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたと言われている。それが事実かどうかは分からないが、とにかくいろんなものが落ちるということがその要因であったことは間違いない。ニュートン以前には誰も万有引力があるとは思っていなかったのだが、ニュートンの炯眼はいろんな事象の背後に万有引力という「力」を想定すればあらゆる事柄を合理的に説明できることを見出したのである。
一旦万有引力の法則を納得して受け入れると、今まで見えなかった万有引力が誰にも「見える」ようになってくる。今ではほとんどの人が万有引力の存在を実感しているわけだ。しかし、厳密な意味において決して「万有引力」が見えているわけではない。ニュートン以前に誰も引力の存在を知らなかったのは、我々は決して「力」そのものを見ることはないからである。どのような力もそれは「想定」でしかない。つまり仮説である。
実際は、「リンゴが落ちる」という事実だけがある。その事実から「万有引力」があると想定している。しかし、科学的因果関係というものは、常に「原因⇒結果」という図式にすべてを押し込めようとする。次に引用するのは、ものごとを科学的因果関係の枠内で考えようとする哲学者に対するウィトゲンシュタインの警句である。
≪ 一般的なるものへの我々の渇望には今一つ大きな源がある。我々が科学の方法に呪縛されていること。自然現象の説明を,できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法,また数学での,異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。哲学者の目の前にはいつも科学の方法がぶらさがっていて、問題を科学と同じやり方で問かつ答えようとする誘惑に抗し難いのである。この傾向こそ形而上学の真の源であり、哲学者を全き闇へと導くのである。 ≫ (ちくま文芸文庫「青色本」大森荘蔵訳 p.45)
禅仏教では「あるがまま」という言葉がよく言われる。見たまま聞いたままをそのまま受け止めよという意味である。「柳は緑花は紅」ともいう。悟りは神秘の中にあるのではなく、あたりまえの世界を当たり前に受け止めるところにあるのである。真理は見えている世界の背後にあるのではなく、現前している世界そのものが真理であると受け止めるのである。「現前」が究極の真理であることを見究めることこそが禅的視座である。
決して禅仏教が科学を軽んじているわけではない。あくまで哲学的な真理観について語っているのである。科学では、「万有引力があるから、リンゴが落ちる。」と言うが、哲学的には「リンゴが落ちるのを見て、科学者は万有引力があると言う。」ということである。あらゆる仮定を排除する禅者にとっては「リンゴが落ちた」という事実があるだけだ。
言い換えるならば、「リンゴが落ちる」と言うことと「万有引力がある」と言うことは、同じ事実を別の言葉で表現しただけと言っても良い。言葉の置き換えは究極的な解決にはならない、次は「なぜ万有引力があるのか?」という問いになる。その問いに答るために「重力子」というものを想定する、というふうに要素還元は無限に続くのである。だが実際のところは、「リンゴが落ちる」という事実があるだけなのである。先に揚げたウィトゲンシュタインの警句は明らかに禅に一脈通じるものがある。これを持って、西洋哲学が東洋に接近しているというのは言い過ぎだろうか。
本日(7/13)の夕景