禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「アイデンティティ」がわからない

2015-07-15 14:45:07 | 哲学

 会社員の方なら大抵はIDカードと言うものを会社から持たされているだろうが、このIDカードというのは他人が私を私であると識別(identify)するためのものである。しかし、心理学や哲学で、「アイデンティティ」と言う時は自分に対する自己認識を問題にしているらしい。

三省堂辞書サイトによると、

「学術用語としてのアイデンティティーの定義は、哲学分野では、『ものがそれ自身に対して同じであって、一個のものとして存在すること』です。心理学・社会学・人間学などでは、『人が朱鷺や場面を超えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一を持っていること』と説明され、『本質的自己規定』をさします。」

となっているが、ここで一つの素朴な疑問がわいてくる。

私には「自己を自己として確信できない」という状態がいかなるものかが想像できないのだ。「私が私でない。」という言い方をする時があるが、それはたいてい比喩的な表現であって、まともな表現としてはそもそも文法的に間違っている。私の体や考え方は毎日変化している。子供の頃の私と現在の私ではまるで別人である。しかし私が私以外であったことはないのである。たとえ記憶をすべて喪失したとしても、私は「私は私である。」と言うだろう。

そんなわけで私は、「アイデンティティの危機」などという言葉を耳にすると、深刻な統合失調症のような印象を受けてしまうし、やたらと「おれの日本人としてのアイデンティティがさぁ‥‥」などと連発する昨今の風潮には少なからず反発を感じるのである。

「日本人としてのアイデンティティ」をもった集団がいるとしても、はたして肝心の「日本人」が何であるかということは必ずしも明瞭ではない。各個人によって「日本人」の意味が違うことは十分考えられるのである。 

 民族意識の高い青年がいたと仮定しよう。常々日本人であることを誇りに思い、小さいころから朝鮮学校の生徒とはよくいざこざを起こしたりしていた。口癖は「ケッ、チョウセンがっ」である。そんな彼が海外旅行のためのパスポート申請で戸籍謄本を取り寄せたとき、自分の父親が元在日韓国人で日本に帰化していたことが分かってしまった。もともとの姓は「金」で通称が「金本」だったが、帰化の時点で「兼本」とし同時に在日社会とも絶縁していたので、その青年は自分が生粋の日本人であると思い込んでいたのだ。

このような状況の時、その青年は「アイデンティティの危機」に陥るのだろうか?

彼の国籍はもともと日本人だし、日常的に日本語を話し、日本文化の中で育ってきた。そんな彼が「日本人としてアイデンティティの危機」を感じたのだとしたら、もともと彼が持っていた「日本人」の概念に大した意味はなかったのではないかと私は考える。彼は何も変わっていない、以前と違うのは彼の父親が帰化人だという情報を知ったというだけのことである。彼にとって「日本人」というのは単なる記号以上のものではなかったということではないのだろうか。同時に、こんなものをわざわざ「アイデンティティの危機」などと表現することもないような気がする。数学の試験で80点とって「おれは数学ができる。」と己惚れていたのが、実は平均点が95点だと知ってがっかりした、というのと大して違わないのではないだろうか。

心理学のことはよく知らないので、「アイデンティティ」という言葉の意義の有効性について断定的なことは言えないが、この言葉を心理学以外で安易に多用することには抵抗を感じるのである。

※ 禅において『本質的自己規定』というなら、それは一無位の真人ということに他ならない。それはあらゆる属性とは無縁のものであり、喪失もまたありえないものである。禅的見地からしても「アイデンティティ」の危機や喪失はあり得ない。

コメント (1)
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