禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅的視座について

2016-05-07 11:03:31 | 哲学

私はこのブログで禅的哲学というものを標榜していおりますが、これは禅的視座から哲学というものをしてみようという趣旨からなのであります。では、禅的視座とは何かというと、「何の偏見もなくものを見ること」を私が勝手に「禅的視座」と呼んでいます。禅宗のお坊さんは坐禅を通して自己を内観する、その過程を経て、ものごとを素朴に見ることができる。そういう視点を「禅的視点」であるとして、偏見を排除して哲学をしてみようというのが「禅的哲学」の主旨であります。偏見を排除するのは哲学としてはあたりまえのことなので、あえて「禅的」と銘打つのは変といえば変なのですが、今のところどこからもクレームはついていないので、このままでいこうと考えています。

今回はこの禅的視座という意味において、最も洞察力に優れていた西洋哲学者のデイビッド・ヒュームを紹介したいと思います。

ヒュームは日本ではその名を知っている人は少ないですが、西洋哲学ではデカルトやカントと並ぶほど重要な人物です。『有限性の後で(カンタン・メイヤスー) (前篇)』という記事の中で「ヒュームの懐疑」として取り上げましたが、「因果律は理性によって根拠づけることができない」ということを初めて指摘した人です。これ以降の西洋哲学は大きな変革を遂げたのです。

以下に彼の主著である「人性論」から「人格の同一性について」論じている部分を引用します。

≪ 哲学者のなかには、「自己」とよばれるものを、われわれはいつでも親しく意識しているのだと思っている者がいる。つまり、自己の存在、およびその存在の持続を我々は感じており、また自己の完全な同一性、完全な単純性について、論証による明証性以上に確信しているのだと思っているのである。
しかし不幸なことに、これらすべての肯定的な主張は、それを裏付けるために引き合いに出されるまさしくその経験に反しており、そこに説明されるような仕方では、自己のいかなる観念も我々は持っていないのである。
' ------------ ( 省略 )-------------
私だけについて言うと私自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、私が出会うのはいつも、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である。どんな時でも、知覚なしに私自身をとらえることは決してできず、また知覚以外のなにかに気づくことは決してありえない。 ≫

後半の部分は、「人間は知覚の束」であるということを述べています、このことは五蘊によって人間が構成されているという仏教とほぼ同じといってもよいでしょう。

西洋はデカルト以来の主客二元による機械論的思想に支配されている、と考えられがち(私も最近までそう思っていました)ですが、近年はそうでもないようです。ヒュームの影響を受けていない西洋哲学者は皆無であると言ってもよいでしょう。

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