哲学というものがない時代は人は「あるがまま」のものを見ていたはずである。目の前のリンゴ、机、それらは目の前にあるがもののごとくある、と信じられていた。このようなものの見方を「素朴実在論」という。しかし、素朴実在論を前提に知識を蓄えていくと、素朴実在論を否定しなくてはならなくなるのである。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは次のように言う。
≪素朴実在論は物理学を導く。しかし物理学が正しければ素朴実在論が間違っていることが分かる。だから、素朴実在論が正しければ、素朴実在論が間違っていることになる。故に、素朴実在論は間違っている。≫
物の存在を前提として、それらの秩序を表現するための物理学というものが発展してきた。ここでいうところの「物理学」は自然科学全般を指す。化学や生物学もミクロにみると物理学によって支えられているからである。それで物理学が進歩すると、人間そのものも物理学の対象として含まれるようになり、様々なことが明らかになってくる。
目の前のテーブルにリンゴがあるとする。この状況を物理学的視点からみるとどうだろう。太陽から出た光が部屋の中に散乱している。その中の一部がリンゴの表面に当たり、赤色に相当する波長の光が反射されて私の瞳の中に入り網膜に到達する。網膜に移された光の像によって視神経が刺激され、その刺激が私の脳に届いて、意識下にリンゴの像が映し出される。
これだと、私の目の前にあるリンゴは実は私の脳の中にあることになってしまう。リンゴだけではない、私はあらゆるもの(こと)を感官を通じて認識しているのであるから、あらゆるものは私の脳の中ということになってしまう。実在論に対して、すべては私の観念であるという見方を観念論という。このような事情で実在論というのは哲学的にはかなり旗色が悪い。
では観念論の方は問題がないのかといえばそうでもない。すべてが脳の中というなら、脳の外というのは一体何なんだ、という疑問がわいてくる。「外」があって初めて「中」が意味を持ってくるのであって、すべてが「中」ならそれは中でも外でもないわけである。一体、「外」はどこへ行ったのだろう。
西田幾多郎はこのようなパラドックスが生じる原因が主客二元的なものの見方にあると見抜いていた。「私(の脳)が対象を認識する」という構図そのものが間違っているとして、それは「英国にいて英国の正確な地図を描く」ようなものであると考えたのである。
英国にいて英国の正確な地図を描こうとすると、その地図の中に今描いている地図も書き込まなくてはならない。さらに書き込んだ地図の中にも‥‥というふうに無限に小さい英国の地図まで書き込まなくてはならなくなる。
そこで西田は、「私(の脳)が対象を認識している」という構図を捨てる。有名な「善の研究」の中で彼は「意識現象が唯一の実在である」と述べている。
≪ 我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。すなわち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したのにすぎない。≫(岩波文庫「善の研究」P.72)
物体現象というのは目の前の物理空間に実在するとされているリンゴであり、意識現象というのは見えているままのリンゴのことである。同じことではないかというかもしれないが、前者には暗黙の裡に「<私>もその中に存在している物理空間」というものが前提されており、その結果「私がそのリンゴを見ている」という主客の図式が既に織り込まれている。物体現象が「各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したのにすぎない。」というのは、そのような図式が推論によって構成されたものであるという意味である。
西田が西洋の観念論者と違う点は、認識する「私」というものを措定しないことにある。「見えているままのリンゴ」があるだけなのである。「リンゴを見ている私」というのも推論によって構成されているものに過ぎない。世界は「見えているままのリンゴ」、「見えているままのテーブル」、「見えているままの○○」‥で構成されているのである。それらすべてが意識現象ならばもはやそれを「意識現象」という言葉で呼ぶのはふさわしくない。それは意識現象でも物体現象でもないものだからである。西田はそれを「純粋経験」と呼ぶことにした。
「個人あって経験があるにあらず、経験があって個人があるのである。」
西田のこの有名な言葉は、経験を積んで人格が出来上がっていくというような意味に解釈する人もいるが、そうではない。ここでいう経験というのは純粋経験のこと、つまり「見えているままのリンゴ」のことである。まず「見えているリンゴ」があるのであって、それに先立って「見ている私」があるのではないというのがこの言葉の真意である。それは仏教的な視点にも通じるものである。
残念ながら、善の研究は西田の若書きの論文であり、純粋経験は定義の段階から錯綜して結局は破綻してしまっているように見える。西田自身これ以降「純粋経験」の言葉は使わなくなってしまったが、純粋経験によって「あるがままの世界」を哲学的に表現しようとしたことは大いに評価されてよいように思う。
≪素朴実在論は物理学を導く。しかし物理学が正しければ素朴実在論が間違っていることが分かる。だから、素朴実在論が正しければ、素朴実在論が間違っていることになる。故に、素朴実在論は間違っている。≫
物の存在を前提として、それらの秩序を表現するための物理学というものが発展してきた。ここでいうところの「物理学」は自然科学全般を指す。化学や生物学もミクロにみると物理学によって支えられているからである。それで物理学が進歩すると、人間そのものも物理学の対象として含まれるようになり、様々なことが明らかになってくる。
目の前のテーブルにリンゴがあるとする。この状況を物理学的視点からみるとどうだろう。太陽から出た光が部屋の中に散乱している。その中の一部がリンゴの表面に当たり、赤色に相当する波長の光が反射されて私の瞳の中に入り網膜に到達する。網膜に移された光の像によって視神経が刺激され、その刺激が私の脳に届いて、意識下にリンゴの像が映し出される。
これだと、私の目の前にあるリンゴは実は私の脳の中にあることになってしまう。リンゴだけではない、私はあらゆるもの(こと)を感官を通じて認識しているのであるから、あらゆるものは私の脳の中ということになってしまう。実在論に対して、すべては私の観念であるという見方を観念論という。このような事情で実在論というのは哲学的にはかなり旗色が悪い。
では観念論の方は問題がないのかといえばそうでもない。すべてが脳の中というなら、脳の外というのは一体何なんだ、という疑問がわいてくる。「外」があって初めて「中」が意味を持ってくるのであって、すべてが「中」ならそれは中でも外でもないわけである。一体、「外」はどこへ行ったのだろう。
西田幾多郎はこのようなパラドックスが生じる原因が主客二元的なものの見方にあると見抜いていた。「私(の脳)が対象を認識する」という構図そのものが間違っているとして、それは「英国にいて英国の正確な地図を描く」ようなものであると考えたのである。
英国にいて英国の正確な地図を描こうとすると、その地図の中に今描いている地図も書き込まなくてはならない。さらに書き込んだ地図の中にも‥‥というふうに無限に小さい英国の地図まで書き込まなくてはならなくなる。
そこで西田は、「私(の脳)が対象を認識している」という構図を捨てる。有名な「善の研究」の中で彼は「意識現象が唯一の実在である」と述べている。
≪ 我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。すなわち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したのにすぎない。≫(岩波文庫「善の研究」P.72)
物体現象というのは目の前の物理空間に実在するとされているリンゴであり、意識現象というのは見えているままのリンゴのことである。同じことではないかというかもしれないが、前者には暗黙の裡に「<私>もその中に存在している物理空間」というものが前提されており、その結果「私がそのリンゴを見ている」という主客の図式が既に織り込まれている。物体現象が「各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したのにすぎない。」というのは、そのような図式が推論によって構成されたものであるという意味である。
西田が西洋の観念論者と違う点は、認識する「私」というものを措定しないことにある。「見えているままのリンゴ」があるだけなのである。「リンゴを見ている私」というのも推論によって構成されているものに過ぎない。世界は「見えているままのリンゴ」、「見えているままのテーブル」、「見えているままの○○」‥で構成されているのである。それらすべてが意識現象ならばもはやそれを「意識現象」という言葉で呼ぶのはふさわしくない。それは意識現象でも物体現象でもないものだからである。西田はそれを「純粋経験」と呼ぶことにした。
「個人あって経験があるにあらず、経験があって個人があるのである。」
西田のこの有名な言葉は、経験を積んで人格が出来上がっていくというような意味に解釈する人もいるが、そうではない。ここでいう経験というのは純粋経験のこと、つまり「見えているままのリンゴ」のことである。まず「見えているリンゴ」があるのであって、それに先立って「見ている私」があるのではないというのがこの言葉の真意である。それは仏教的な視点にも通じるものである。
残念ながら、善の研究は西田の若書きの論文であり、純粋経験は定義の段階から錯綜して結局は破綻してしまっているように見える。西田自身これ以降「純粋経験」の言葉は使わなくなってしまったが、純粋経験によって「あるがままの世界」を哲学的に表現しようとしたことは大いに評価されてよいように思う。