ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における語りえぬものとは、論理と倫理であると言われている。それは人間の根源に根差す所与のものだからだろう。ここで言う「所与」とは前提として与えられているもの、根拠をさかのぼることができないもののことである。
禅仏教で語りえないものといえば、真の自己ということになるだろう。それを「無」と呼ぶのは、それが所与のものであるからである。無は有の相対概念であるが、所与のものは無いということが想定され得ないにもかかわらず、有であるとされているので、あえて「無」と名付けたのである。
デカルトの「われ思うわれあり」の「われ」も所与のものである。「われ」は手あかがつきすぎて、所与のものを表現する言葉としてはふさわしくない。カントはデカルトより一層堅牢な理論装備をして、それを超越論的統覚と呼んだ。
カントと禅仏教の自己に対する問題意識は、私には非常に近いものに思えるのだが、あまりそういうことが言われないのは、カントは一人称から出発しているのに対して、禅仏教は無人称から出発しているためだろう。二元論と一元論という形式の違いが実質以上にかけ離れているような印象を与えているような気がする。
< 「私は考える」ということが私の全ての表象に伴い得るのでなければならない。>( 純粋理性批判」132)
結局、カントは「考える私」を所与のものとして、主観が客観を認識するというデカルトの主客二元路線を踏襲した。
それに対して禅仏教においては、「私は考える」としてもそこには「考え」があるだけで、実は考えている「私」はどうしても見いだせないのである。禅では、山を見れば自分は山になる、木を見れば木になる、と言う。それは、私が山を見ているのではなく、そこには山の『見え』だけがあり、それを見ている『私』はいない、という意味である。
それで、禅においては「無我」あるいは「無」と言う。「考え」や「山の見え」が展開される場所、あるいは永井均流に「世界の開闢」と言ってもいいかもしれない、西田幾多郎は「絶対無の場所」と呼んだ。それは有るとも無いとも言えない所与のものである。