禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

無限大と無限小と連続

2021-02-02 11:01:20 | 哲学
 無限とは文字通り「限りがない」という意味であろう。自然数を、「1,2,3、‥‥」とかいくら数えていっても終わることがない。そういう意味だったはずである。しかし「無限大」と言うと、なにかその言葉が指示する対象があるかのように錯覚してしまう。しかし無限大ははるか無限の彼方、あったとしてもわれわれの経験はそこまで到達できない。それが実在するかどうかということはわれわれには理解不能である。次のような(-1)のn乗(n=0→∞)を一般行とする無限級数Sを考えてみよう。

      S=1+(-1)+1+(-1)+1+(-1)+ ‥‥‥

この時、Sの値は「収束しない」と数学の時間に習ったはずだ。しかし、無限大というものが「実在」するのであればSの値も存在しなければおかしいという素朴な疑問がわく。

 無限大とは逆に「無限小」という概念もあるが、これも分かりにくい。「如何なる適当な意味においても零と区別することができないほど極めて小さい」 と説明されても、大抵の人は小首を傾けるのではないだろうか? 零ではないが零と区別できない、限りなく小さい数が無限小である。数直線上で言えば零の隣の数(点)に相当する。高校の数学で習う積分とはある領域を無限小に分割(つまり微分)してそれらをすべて(無限大個ある)を合算したものと考えられている。数学は形式的な学問なので、直観できないような概念でも、矛盾なく定義できればOKなのである。

 で、ここからが本題なのだが、実はわれわれはなんの根拠もなく、空間が無限小に分割できると考えている。つまり、空間が「連続である」と前提しているのである。あなたは「だって空間が連続なのは明らかじゃないか?」と反論するかもしれない。そうすると私は再びあなたに「それはなぜ?」と聞き返す。その時点であなたは絶句するしかないはずだ。私たちは大は宇宙全体、小は素粒子についてまで考えることができる。その時、頭の中で空間を縮小したり拡大したりしている。その時、いくら拡大しようが縮小しようが、空間はいつでも「同じ」く一様で連続であると前提しているのである。実は、一様で連続なのは私たちの頭の中の空間であって、実際の物理空間ではない。素粒子レベルのミクロの空間に私たちの日常的な感覚をそのまま持ち込めると考えるのは科学的態度とは言えない。もしかしたら、最小の距離や最小の時間がある可能性について考えるべきだと思う。あらためて、物理空間が連続であるかどうかは実際の観測によらなければならない、ということを確認しておきたいのである。

 もし、最小の距離または最小の時間というものがあるのだとしたら、ゼノンのパラドックス(※注)などというものは容易にかたが付くのである。

※注)ゼノンのパラドックスというのは、時間や距離が連続であると仮定すれば、運動は有限時間内に無限のプロセスを経なければならなくなるというパラドックスで、「アキレスと亀」の話はもっとも有名な一例である。(以下はWikipediaから引用)
 
【あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らか[10]なので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。
スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。
コメント
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