禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

何を信じるかそれが問題だ

2022-01-14 11:45:51 | 雑感
 私たちは何かを信じて生きている。それは間違いのないことである。デカルトは「少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探るべき」と言ったそうだが、そんなことは不可能だと思う。デカルトは「私が今夢を見ている可能性を否定することは出来ない。」と言うが、何もかも疑うなら、夢だとか現実だとかいう枠組みさえも無くなりカオスになってしまう。なにかを信じていなければ疑うことさえできないのである。なにかを信じているという土台があってこそ疑うこともできるのである。
 
 もしかしたら、「私は根拠のないものは信じない。だから科学的なもの以外は信じない。」と言う人もいるかもしれない。しかし哲学的視点から見れば、科学でさえ一種の信仰に過ぎないのである。「宇宙に斉一な秩序が存在する」ということを信じて初めて科学は成立するが、宇宙斉一説の論理的根拠というものは存在しない。今日まで万有引力の法則が有効であったが、明日からもそうであるという必然的な論理的根拠、保証は実はどこにもないのである。だから科学を信じるなという話をしているのではない。逆である。私たちは所詮絶対的な根拠というものを得ることが出来ないという話をしているのである。だから最後の最後、究極の所はなにかを信じるしかないと言いたいのである。おそらく、科学は私たちが最も信じるべきものである。少なくとも万有引力の法則は今まで私達を裏切ったことはない。とにかく私たちは宇宙の斉一な秩序を信じて生きていくしかないのである。

 どんな思想も最終的な根拠というものが「信じる」ということに支えられているということは憶えておかなくてはならない。現実の社会ではそのためにいろんな齟齬が生じてくるのである。ちょうど一年前にアメリカのキャピトル・ヒル(国会議事堂)に暴徒が乱入する騒ぎになった。民主主義のチャンピオンを自認していたアメリカでこのような事件が起こること自体がちょっと信じがたい話だが、昨年10月にキニピアック大が行った世論調査では、民主党支持層の93%が「事件は政府に対する攻撃だ」と答えたが、共和党支持層では29%にとどまったという。共和党支持者の間ではこの事件を民主主義に対する挑戦であるとは見ずに、「民主党や大手メディアが事件を政治利用している」という不満が渦巻いているらしいのだ。

  一昨年の米大統領選挙では、トランプ側が選挙に不正があったとして訴訟を乱発した。そのほとんどが根拠のないものでことごとく却下されたが、トランプ支持者にとってはおびただしい訴訟があったこと自体が不正の根拠になるらしい。モンマス大の11月の世論調査では、共和党支持層の73%の人が「バイデン氏の勝利は不正によるものだ」と信じているという。何十件もの訴訟がことごとく門前払いを食わされていれば、普通は訴訟する側の姿勢が疑われてしかるべきだと思うが、人は信じたいものを信じるということなのだろう。インターネットが拡張された世の中になってこのような傾向はますます顕著になってきている。ネットの中には信じたい情報があふれているからだ。そのほとんどがゴミみたいな情報であったとしても、信じたい人間にとってはそんなことはなぜか問題にならない。

 最近、武蔵野市議会において外国籍の人の住民投票への参加が話題となった。住民投票というのは、あくまで行政側が住民の意見を問うもので法的拘束力はない。よりよい街をつくるためには一人一人の住民の協力が必要なのであるから、外国籍であろうと何であろうとその土地の住民であれば、その意見を聞くというのは当たり前のことではないかと思う。なのに、インターネット上では、外国人による日本乗っ取りの道を開く式のコメントが横行する。いわゆるネット右翼が見当はずれの意見をコピペして拡散するのである。周りの雰囲気に流されるというのが良くない日本人の傾向である。表向きには社会の多様性や寛容性が大事であるとかよく言う、しかし現実的には狭量で排他的な意見に引きずられやすい。「外国人に日本が乗っ取られる」などというありもしない幻想をやすやすと受け入れてしまうのである。

 どのような信念を受け入れるべきかということを簡単に言うことは出来ないが、それに基づいて行動する以上必ず責任がつきまとうことを忘れてはならない。自分なりの正当性の基準について熟慮する必要がある。

横浜 たそがれ時の中華街
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