即非の論理とは、鈴木大拙博士が次のように定式化したものである。
「A は A にあらず、ゆえにAなり」
これはもともと金剛般若経の次の一節をもとにしたものである。
「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」
これだと本来は「A は A にあらず、これをAと名づく」とならねばならないはずだが 、あえて「ゆえにAなり」としたのは、禅の大家でもある大拙居士が体空観による実感をもとに、そのように定式化したのであろう。(体空観については以前記事にしたことがあるので参照していただきたい。 ==> 「析空観と体空観」)
禅を実践している人には大拙居士の言うことが腑に落ちるのだろうが、そういう人にはそもそもそういう定式化は必要ない。一般人には「ゆえにAなり」は余りにも論理を無視した言い方なので神秘的過ぎる。論理を無視した説明は所詮説明にはなり得ない、情報としては「そういう境地がある」というだけのことである。いずれにしろ、「A は A にあらず、これをAと名づく」で十分だと思うのである。
もう少し具体的に考えてみよう。「A」の部分を「山」に置き換えてみる。
「山は山ならず、これを山と名づける」
我々は山を見て「山」と言う。しかし、「山」と呼ばれるものの実体はないと言うのが、「山は山ならず」と言う所以である。山は土と石でできている。その山を少し削るものとする。そしてその土と石をバケツに入れたとする。私たちはそのバケツに入れられた土と石を決して山と呼ぶことはない。また、少しくらい削られても、相変わらず元の山を「山」と呼ぶ、削られた分確実に変形しているにもかかわらずである。
仮に半分くらい削られても、それは山と呼ばれる。だが、どんどん削っていくと、必ずそれは山と呼ばれなくなる。その境界というものはあるのだろうか。一体私たちはなにを指して「山」と呼んでいるのだろうか?
このように考えていくと、私たちが「山」と呼んでいるものの実体は存在しないことになってしまう。それが「山は山ならず」と言うことである。山に限らない、私たちの持つ概念と言うものはすべて、このように実体をもたない抽象的な記号に過ぎないのである。一見具体的なものごとを考えているつもりでも、我々の思考は抽象化された記号の操作である。また、その抽象化がなければ、我々の思考も不可能となる。だから、(便宜的に)「これを山と名づける」のである。
片瀬東浜の雪の朝