結論から言うと必要だと思う。と言うか、人は必ず何らかのことを既に信じている。誰もがなにかを信じないでは生きられないのである。「私は唯物論者だから非科学的なことは信じない。」と言う人もいるが、それだって一つの信仰(注1)である。アインシュタインやニュートンのように超一流の科学者でありながら、神さまを信じている人はいくらでもいる。唯物論と科学で満足できる人はある意味幸せであるが、悩む人はたいていもっと根本的な不安を抱えているものである。この世界というものが信用できないという不安に駆られているからだ。
そもそもなぜこのような世界があって私はここにいるのだろう? という問いには科学も答えることが出来ない。「ビッグ・バンで世界は生まれた。その前は無である。」なんて答えはダメである。なんで無からビッグ・バンが生じたのかを説明できない。人間の理性はとことん理由を求めるからである。なんとかこの理性の遡及を中断して、この世界を肯定的に受け止めるようにしなければならない。
理性の暴走とも言える遡及を止める方法は二つある。一つは最初の原因である創造神を設けることである。キリスト教をはじめ世界の宗教はほとんどこのタイプである。もう一つのタイプはちょっと難しいが、最初の原因を求めようとする理性の働きそのものが間違っていることを悟ることである。仏教がこちらのタイプである。釈尊が説く無記というのはそのことである。
上記の二つの方法はどちらも理屈的には難点がある。「最初の原因である神」と言われても、「なぜそれが最初なの?」と言いたくなるのが普通だろう。また後者の場合について言えば、「最初の原因を求めようとする理性の働きそのものが間違っている」というのは理性を納得させるための理屈としては矛盾そのものである。どちらもすんなり納得できるものではない。腹の底から納得できるにはある程度の修行が必要になる。
理詰めでは納得できないものを納得するという点において、二つの道は非常によく似ている。一方はすべての根源を神に求めることによって、世界を肯定する。もう一方はすべては空であることを看取し、現前するものをすべて肯定する。両者は究極的には一致する。それが信仰ということである。
後者についてはもう少し説明が必要だと思う。仏教では「あらゆるものが空である」と説く。われわれの理性はあらゆることについて意味と理由を求めるが、それを空疎な行為であると見るのが空観である。いくら意味と理由を求めたところで、それは単に解釈を積み重ねることに過ぎない。いつまで経っても根源的なものにはたどり着けるはずがなく、そのような試みはすべて徒労に終わる。だから釈尊は形而上の事には言及しない。それが無記ということである。
そのことに得心が行けば、現前するものの背後に真理などなく現前しているものそのものが真理であるということに気がつくはずである。「柳は緑、花は紅」という言葉があるが、これはそのことを言っているのである。柳は緑で花は紅、そんなことは当たり前のことである。その現前する当たり前が真理であり尊いという、この世界を全面的に肯定する言葉である。
(注1)18世紀のイギリスの哲学者ディヴィッド・ヒュームは、「科学は事実の帰納であり、厳密な論理的根拠を持たない。」ということを言い出した。過去の事実に基づいて法則をつくったとしても、この次にそれと同じことが起こるという保証はないということである。科学は宇宙の秩序が斉一的であることを前提に成り立っているが、その宇宙の斉一性を保障する根拠というものがない。われわれは根拠なく宇宙の斉一性を信じているということなのである。以来、哲学者は科学を肯定するために頭を悩ませてきたが、未だにヒュームの懐疑を正面から乗り越えた理論は存在しない。
ささやかな水たまりの中にも玄妙な美しさがある。