中原中也の手による「小林秀雄小論」なるものがある。(原文はこちら==>「青空文庫・小林秀雄小論」) 私は自分でも中原のかなりのファンであることを自認しているが、この小論に関しては天才詩人の書いたお粗末な散文としか思えない。内容はまったく意味不明である。ただ小林秀雄に対する悪意だけが明瞭に読み取れる。
小林は自分の恋人を寝取った男だから、憎いと思うのは当然だろう。しかし、文学者であるなら、自分の文章に対してはもっと誠実でなくてはならないように思う。小林秀雄を批判したいのならもっと率直に批判すれば良いのであって、ヴァニティがどうたらこうたら小理屈をこねるのは、子供の見え透いた負け惜しみにしか見えない。 この文章を、小林の「中原中也の思ひ出」とを比べると、どうしても中原の未熟さが際立っているように見える。もし私が長谷川泰子だったとしても、18歳の中原よりも23歳の小林の方を選んだのは、当然だったような気がする。
分銅惇作による伝記「中原中也」には彼の交友関係について、次のように記されている。
≪ 中也ほど身勝手な詩人はいないであろう。彼は接触する相手が誰であろうと、学ぶものは学んだうえで、自己流の切り捨て方をする。相手の弱点を看破すると、小気味よく裁断する。それは時に意地悪く、独善的であって、彼の友人たちはいちように不快な被害者意識に悩まされることになる。≫
同じ伝記には、河上徹太郎の言葉として「中原中也その三巻の全集だけ精読して、理解している人があれば羨む。」と述べたとある。そうであれば、純粋に中原中也を愛することができるから、という意味だろう。とにかく、彼の友人(というより文学仲間と言うべきか)による彼の評は総じて芳しくない。小林秀雄が長谷川泰子から逃れるように出奔した際の中原のはしゃぎようについて、大岡昇平は次のように表現している。
≪中原の浮き浮きした様子は小林の行方と泰子の将来を心配してゐる人間のそれではなかつた。もめごとで走り廻るのを喜んでゐるおたんこなすの顔であつた。≫
彼の周囲から、彼の文学的才能以外について、彼を好意的に評価する声が聞こえてこない。年少でありながら、とにかく口が達者で他人を言い負かしては、相手をへきえきさせる、そういった人物像だけが浮き上がってくる。それでも仲間から見放されなかったのは、彼の才能が本物だったからだろう。彼が30歳の若さで夭逝したことは何とも残念なことである。適うことなら、成熟した中原中也を見たかったと切に思う。
鎌倉・寿福寺隧道 中原の終の棲家は寿福寺境内の借家であった。彼もこの隧道を何度もくぐったに違いない。