禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「少年時代」と「長い道」

2019-12-14 05:10:17 | 読書感想文
 井上陽水の「少年時代」が篠田正弘監督の同名の映画作品の主題歌であることは多くの人に知られている。また、その映画も藤子不二雄A氏による同名のマンガ作品をもとにつくられたことも、年配のマンガファンならご存じだろう。しかし、その藤子不二雄Aの「少年時代」の原作が柏原兵三による「長い道」であることを知っている人は少ないのではないかと思う。

 映画もマンガも素晴らしい作品だったが、やはりそれは原作の良さに支えられている。

 子供が純真で素朴であるというのは大人の思い込みに過ぎない。大人の目の届かない子供の世界は、一種の野生状態であり力と駆け引きがもの言う世界である。いじめ事件関連のニュースが報道されるたびに、「昔はこんな陰湿ないじめはなかったね」と言っているお父さんやお母さんには特に読んでもらいたいと思う。いじめが陰湿なのは周囲から見えないからである。ある意味、いじめはいじめられている本人の中にしかないと言えるかもしれない。いじめている本人からも周りの人間からも単にじゃれあっているように見えても、はかり知れない屈辱をいじめられている側は受け取っている場合があるからである。

 もしかしたら、それは本当に犬や猫がじゃれあっているのと同じ性質のものかもしれないのだ。人というのは所詮思い通りには生きていけない。子供の世界というのは、他者との緊張関係の中で、互いの力を推し量り合い牽制しながら、身の処し方を学ぶところなのだろう。その中でいじめは必然的に発生する。教育現場で事件が発生するたびに、関係者の「いじめはなかったと信じる」みたいな発言をよく耳にする。「なかったと信じる」では教育者として失格である。いじめは先ずあるという前提で臨むべきだ。

 100%平等でみんな仲良しな学校生活が可能などという幻想を抱いていると、「私どものところにいじめはありません」という小役人的な物言いになってしまう。
いじめは根絶できない。人間は不条理な生き物だからである。いじめいじめられながら、生きていくのはある意味「当然」なのだ。悲しいことだが、それが事実である。

「長い道」は作者の疎開という実体験によるものだという。凄絶ないじめを体験しながらも、その少年時代をある種の懐かしさのようなものにまで昇華させた(と、私は読んだ)傑作である。是非多くの人々に読んでもらいたいと願う。
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