太陽の光は、なんの色もついていないように見えますが、実はこのようにたくさんの色が混ざってできているのです。そして、地球の大気はこのうち青いほうの光を散乱する性質をもっています。つまり、空気中の分子は、太陽からやってきたうちの青い光だけをつかまえて、別の方向へ放り出す性質があるのです。大気中にはたくさんの分子がありますから、青い光は何回も何回もつかまっては放り出されを繰り返します。そうして青い光は、空じゅういっぱいにひろがり、最後に私たちの目に入ってくるのです。(国立科学博物館の説明)
色はその波長の違いによるものと現在では知られている。つまり特定の波長の光が私たちの視神経を刺激すると、私たちには青い色が見えるということである。
では、その特定の波長の光が視神経を刺激するとなぜ青く見えるのか?と問われると、とたんに窮するのではないだろうか? それ以上のことは、たとえニュートンやアインシュタインのような大科学者でも答えることのできない問題である。この難問を現代哲学では「意識のハードプロブレム」と呼んでいる。
意識のハードプロブレム(英:Hard problem of consciousness)とは、物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのかという問題のこと。(ウィキペディアより)
クォリアというのは、目の前に見える赤いリンゴ、美味しそうなカレーライスの匂い、ストーブの温かさ、我々がじかに感じているありありとしたこの感覚のことである。
何にでも理由と目的を見つけたがるのは西洋哲学の欠陥と言えるかもしれない。禅的視座から見れば、科学というものははじめから意識に関する究極的な解答を求める責務を持たされていない。
科学の立場から言えば、特定の波長の光が視神経を刺激することと、意識の中で青い色が見えることとは同じ意味であり、その時点で科学はりっぱに使命を果たしている。それ以上の追及はできないのである。
仏教は科学を否定するわけではないが、あくまでそれはこの世界の動きを予測するものであり、われわれが生きていく為の方便という位置づけである。科学は、先ず科学法則があってそれが今ある世界を成立させていると説く、それに対し、仏教者は先ずいまある世界を無条件で受け入れる、それが「あるがままを受け入れる」という世界観である。仏教者にとっては、一義的にはあるがままの世界があり、科学法則というものは付随的についてくるものでしかないのである。
ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、「万有引力があるからだ」と考えたと言われる。それ以来、人々は「万有引力があるからリンゴが落ちる。」と考えるようになる。
禅的視座から見ると、それは厳密なものの見方ではない。リンゴが落ちるという事実がまづ先にあり、ニュートンはそこから万有引力があるという仮説を想定したのに過ぎない。言うなれば、「リンゴが落ちる」という事実を「万有引力がある」という別の言葉で表現しただけなのである。万有引力のアイデアは有効なものではあるが、仏教者の世界観としては、「リンゴが落ちる」ということが一義的なのである。
同様に、「空が青い(時には赤い)」という事実も一義的なのである。もうそれはそれ以上理由を遡及することのできない始原的事実なのだ。科学者は、「空が青い」というような事実をもとに、光やそれを受ける視神経や脳といういわば虚構を想定しているのであって、その虚構を通じて我々の意識の中の空の青さの理由を説明しようとするのは、「空は青いから青く見える」というような循環に陥っているのである。
空が青く見えるということに理由はない。
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