禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

朝はどこから

2018-01-10 05:43:54 | 哲学

私が幼稚園で唄った歌にこういうのがあります。

    ♪ 朝はどこから来るかしら

     あの山越えて谷越えて

     光の国から来るかしら 

     いえいえそうではありません …

毎日目覚めたときには朝が「来」ていて、遊んでいるうちに居なくなっています。なにしろ子供のことです、私は真剣に考えました。「ほんまに朝は一体どこからくるんやろ? ほいで、どこへ行ってしまうんやろ?」 (?_?)

その後成長して、コペルニクスの地動説も知り、「朝は行ったり来たりするもんではない」ということもわかるようになりました。いま振り返って見ますと、その頃の私は『自分が何について考えているのか』ということが分からないまま考えていたんですね。子供には自分を取り巻く環境についての知識がないので、その世界観は常に揺らいでいます。朝になったり夜になったりすること自体が不思議なんですね。いわばその不思議感といべきものが、聞きかじった歌の歌詞に結びついてしまったということでしょう。

このことについて反省してみると、われわれの思考というのは言葉を機械的に運用しているだけではないのか、ということに思い当たります。朝は物体ではないのですが、子供である私にはまだそのような分別は無かったのですね。でも、大人になったらこのような間違いをしないだろうかというと、そうでもないような気がします。私たちが言葉により思考する限り、私たちの思考はどうしても言葉により支配されます。

禅の公案に、「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか?」というのがあります。鐘だけでも鳴らない、撞木だけでももちろん鳴らない。いったいどちらがなるのかという問題です。もちろん、この現象を科学的に解明せよ、という意味では全然ない。禅では、言葉以前に『真理は現前している』という立場をとります。鐘が撞木がと言う前に現実をよく観よということであります。

禅は科学以前の真理を求めようとしているのであります。科学以前とはロゴス以前、つまり言語以前です。禅的視点から見れば、天動説も地動説も同じ事実を違う言葉で表現しているということになるのです。その辺のことは以前も記事にしましたのでご参照ください。(クリック==>「非風非幡」)

言語以前を見つめる視点をもつ、それが不立文字ということであります。

ちなみに「朝はどこから」の歌の続きはこうなっています。

   ♪ それは明るい家庭から

    朝が来る朝が来る 

    オハヨ-オハヨ-

ペリトモレノ氷河 (アルゼンチン)

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知識とは何か?

2018-01-08 11:27:30 | 哲学

最近、SNS上で「知識とは何か」について議論したのだが、知識がなんであるかは難しいものらしい。この世界で起こっていることについての情報を知識というのだろうと漠然と思っていた。が、どうやら100%確実な保障のある知識というものは存在しないこと、知識が知識と言えるためには「正当な根拠」が必要であることは理解できた。正当な根拠がなければ、それは知識ではなく単なる「信念」と呼ばれるものでしかない。

知識がなんであるかが難しいというのは、「正当な根拠」の「正当性」が厳密には定義できないことにある。

100%確実な知識というものはあり得ないと前述したが、生きていくためにはどうしても知識が必要である。私たちが幼児の頃はたいていは知識を両親から教えられる。私たちが未知の社会の中へ入って行くには、親から得た知識は必須である。そしてその知識の正当性の根拠は親の権威ということになるだろう。幼児にとっては、「パパは何でも知っている」のである。

やがて子供が学校に行くことになると、そこには親よりももっと物知りな教師がいて、親の知らないようなことがたくさん書かれている教科書というものがある。私たちは学校で、それまでとは比較にならないほどの知識を学ぶのである。そしてその知識の正当性の根拠となるものは、教師や教科書の権威である。

そして、もっと深くものごとを学び考えるようになると、教師や教科書の知識も必ずしも正しいとは言えない場合が多々あることを知るようになる。場合によっては、自分自身がその方面の知識における権威になっていることもあるかもしれない。しかし、その権威的知識と言えども、それを支えるより広範な知識は別の権威によって支えられているという構図はそのままである。その信憑構造というものは広く深く堅牢になっているということは言えるが、100%確実とは言えないのである。

知識に100%の確実性を求めることができないとなると、その正当性の根拠は科学に置ける場合と同様に反証可能性に求めるしかないだろう。

知識における反証可能性とは、その知識に対する反論がなされた時、その反論を評価し原知識を再検証する手順を用意しているかどうかにかかっている。検証の結果により反論の一部でも正しいということになれば、原知識は訂正されなければならない。知識が知識と言えるためにはそういう態度が必要なのである。反論されても、検証・再評価の手順がないのであれば、それは知識ではなく単なる信仰に過ぎない。

前々回記事の「竹島は日本の領土」について考えてみよう。

中学生にとってそれは教科書から得た知識と言っていいかもしれない。しかし、高校生の場合だと微妙であるような気がする。高校生ともなれば、竹島について韓国が日本と正反対のことを主張していることも、それが韓国に実効支配されていることも、国境が実質的には軍事力によって決定されるということも知っているだろう。それらのことを鑑みるならば、日本側の主張の正当性は唯一歴史的検証にかかっていることを理解できなくてはならない。

そこまで思い至れば、実証的な歴史研究者の意見に耳を傾けなければならない。現実には日韓ともに自分の側に都合のいい恣意的解釈をする研究者の言い分を採用しているので、誰が実証的研究者かということを見極めることは難しいかもしれないが、実際に歴史研究者の著作に自ら目を通すということは必須である。少なくともこの件に関する知識を知識たらしめるには、そのような努力をすることが必要になる。 

相手がどのように反論しようとも、聞く耳もたないで我が政府の言い分だけを信じているなら、それは知識ではなく単なる「信仰」であると言った方が良い。


※個人的には、実証的な歴史研究家として池内敏氏を推薦したい。

葉山の仙元山ハイキングコースからの眺め

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明けましておめでとうございます

2018-01-01 14:01:41 | 日記

本年もよろしくお願いいたします。

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