私が幼稚園で唄った歌にこういうのがあります。
♪ 朝はどこから来るかしら
あの山越えて谷越えて
光の国から来るかしら
いえいえそうではありません …
毎日目覚めたときには朝が「来」ていて、遊んでいるうちに居なくなっています。なにしろ子供のことです、私は真剣に考えました。「ほんまに朝は一体どこからくるんやろ? ほいで、どこへ行ってしまうんやろ?」 (?_?)
その後成長して、コペルニクスの地動説も知り、「朝は行ったり来たりするもんではない」ということもわかるようになりました。いま振り返って見ますと、その頃の私は『自分が何について考えているのか』ということが分からないまま考えていたんですね。子供には自分を取り巻く環境についての知識がないので、その世界観は常に揺らいでいます。朝になったり夜になったりすること自体が不思議なんですね。いわばその不思議感といべきものが、聞きかじった歌の歌詞に結びついてしまったということでしょう。
このことについて反省してみると、われわれの思考というのは言葉を機械的に運用しているだけではないのか、ということに思い当たります。朝は物体ではないのですが、子供である私にはまだそのような分別は無かったのですね。でも、大人になったらこのような間違いをしないだろうかというと、そうでもないような気がします。私たちが言葉により思考する限り、私たちの思考はどうしても言葉により支配されます。
禅の公案に、「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか?」というのがあります。鐘だけでも鳴らない、撞木だけでももちろん鳴らない。いったいどちらがなるのかという問題です。もちろん、この現象を科学的に解明せよ、という意味では全然ない。禅では、言葉以前に『真理は現前している』という立場をとります。鐘が撞木がと言う前に現実をよく観よということであります。
禅は科学以前の真理を求めようとしているのであります。科学以前とはロゴス以前、つまり言語以前です。禅的視点から見れば、天動説も地動説も同じ事実を違う言葉で表現しているということになるのです。その辺のことは以前も記事にしましたのでご参照ください。(クリック==>「非風非幡」)
言語以前を見つめる視点をもつ、それが不立文字ということであります。
ちなみに「朝はどこから」の歌の続きはこうなっています。
♪ それは明るい家庭から
朝が来る朝が来る
オハヨ-オハヨ-
ペリトモレノ氷河 (アルゼンチン)