禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

国会における言語ゲーム

2020-02-14 09:09:25 | 哲学
【 政府は先月、黒川弘務・東京高検検事長(63)の定年延長を決定。野党は検察官の定年を63歳と定める検察庁法に「違反している」と反発するが、森雅子法相は、国家公務員法の延長規定を決定の根拠とし、問題ないとの考えを繰り返している。】
(以上、 朝日新聞デジタルより引用 )

 政府側の主張は、検察庁法は検察官の定年を63歳とし、検事総長のみ65歳と定めている。ただし、国家公務員法は、退職により公務の運営に著しい支障が生じると認められる十分な理由がある場合には、1年以内の定年延長を認めるとしているので、今回は国家公務員法に基づいて延長を決定した、と言う。
しかし、国家公務員法に定年制を導入した1981年の国会審議の際に、当時の人事院幹部が「検察官と大学教官は、(検察庁法などで)既に定年が定められている。(国家公務員法の)定年制は適用されない」と答弁している。

 野党は政府側が従来の法解釈を変更したと主張するのに対し、政府は変更していないと議論は平行線をたどっている。当時の人事院がわざわざ「国家公務員法の定年制は検察官には適用されない」と明言しているのだから、前例のない検察官の定年延長には新たな法制定が必要だと判断するのが妥当だ思うのだが、安倍総理は「検察官も国家公務員であるから、国家公務員法の定年制が適用されても問題ない」と強弁する。そのやりとりを聞いていて、私は規則のパラドックスを連想した。

 ちょっと難しい話になるが、一般に言葉には厳密な意味が備わっていると誤解されているが、実はそうではない。我々の経験は有限だからである。我々は人々の有限な振る舞いを通じて言葉を習得するが、その一つ一つの振る舞いに対して解釈は実は無限にある。だから理論的には究極的な言語の意味には到達することはできないのである。だから屁理屈を駆使すれば法解釈などどうにでもなるとも言える。

 しかし、それでも我々は言語が通じているという奇跡的な事実を重く見るべきである。無限の解釈の余地があるにもかかわらず、ほとんど齟齬を生じることなくコミュニケーションができるのは、われわれ人間が先天的に言語に関してなにか共通な機能を備えているからだろう。だから我々の言語解釈はある程度収斂する。だからある程度の齟齬は乗り越えることができる、ただし人間同士ならばだが‥‥。私の個人的見解では、検事の定年延長に関する解釈の齟齬は本来乗り越えることができる程度のものだと思う、人間同士ならば‥‥。ここで対立が生じるのは、一方が宇宙人だからかもしれない。
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哲学者は謙虚?

2020-02-11 20:36:58 | 哲学

 哲学をやるというような人は大体において頭のいい人が多い。「世界で一番自分が頭が良い」と考えている人も少なくないのではないかと、私は想像している。なぜそんなことが言えるのかと言うと、(まことに恥ずかしいことだが)私自身がそういう人間だったからである。傲慢と言えば実に傲慢と言うしかない。もちろんそんなことは錯覚である。「世界で一番頭が良い人」は世界に一人しかいないのだから、宝くじで一億円当たる確率よりもはるかにありえないことに違いない。

 社会的には落ちこぼれと言ってもおかしくないほど愚かな私でさえ、そのような傲慢な錯覚に陥るのはなぜだろうか? おそらく、人は自分が考え得ることしか考えられないからだと思う。つまり、自分が考え得る領域の外に出ることができない。あまりに当たり前すぎて、なんのことを言っているのか意味がわかりにくいと思うが、これは重要なことで肝に銘じておく必要がある。 加えて、これも実に当たり前のことであるが、他人の考えていることは外から見て分からない。つまり、他人の言うことの内で自分の理解できるのは、やはり自分が考え得ることだけなのである。所詮人は自分の物差しでしか物事を推し量れないのである。それで、つい、「世界中の誰もが考えたことのないことを、今自分が考えている」というような妄想を抱いてしまうのだ。

 しかし、少しでも本格的な哲学に足を踏み入れれば、そのような妄想は一挙に吹き飛ばされてしまう。「世界中の誰もが考えたことのないこと」と思っていたようなことは、とっくに誰かが考えていたというより、実は哲学の入り口に過ぎないようなレベルの低い思いつきでしかなかったということに気づかされるのだ。議論はもっと深くて洗練された場で展開されているのである。自分では頭が良いつもりでも、勉強すればするほど上には上があることを思い知らされてしまう。したがって、知的優越感というものが哲学の動機であり続けるということはあり得ない。ものを知れば、自分の知見の狭さを知らされるのが道理である。哲学とまともに向かい合ってればどうしても自己否定と態度変更を迫られることが度々起こる。謙虚にならざるをえないのである。

 だから、きちんと哲学をしている人はそれなりに謙虚だということができる。「それなりに」というのは、外見的には傲慢に見える人もいるからである。カント研究で有名な中島義道先生などはなかなか狷介な人で、駅のアナウンスがうるさいと駅員さんに噛みついたり、屁理屈をこねて出版社の担当者をてこずらせたりするが、ある意味それも彼自身のまじめさからくるものと言えなくもない。中島先生の場合はそういう世間への疎さもあるが、少なくとも学問に対する謙虚さと真摯さは人一倍あり、憎めない側面も持ち合わせている。

 頭が良いとか悪いとか、所詮それは比較の問題でしかない。絶対的に賢い人、愚かな人というものはいない。そこのところは肝に銘じておく必要がある。
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新型ウィルスの逆襲

2020-02-10 10:30:56 | 雑感
 TBSの番組「サンデーモーニング」の最後に「風を読む」というコーナーがある。昨日はJT生命誌研究館館長の中村桂子さんが次のようなことを述べていた。

「自然の中にはバクテリア(細菌)がいたり、ウイルスがいたり、いろんなものがいるわけで、人類がこの地球上に登場した時には、もうそういうものはいた。ある意味では時々戦ったり、ずっと長い間、一緒に生きてきた‥‥(略)‥‥私たち(人間)はすぐに役に立つか?とか、必要か?っていうけど、自然界にいる以上、全てのものが、いることに意味があるので、別に必要だから、いるわけでも何でもない。私、いるから、いますよってわけで‥‥(略)‥‥病原体として出てきた時には、なるべく減らさなくてはいけないし、そういう意味では戦わなきゃいけないが、ゼロにしちゃう、何もなくなる、それが良いわけではない。そういうもの(ウイルスなど)がいる世界で、(人間も)生きているんだよなぁ、という感覚は持ち続けないと生きているということにはならない」  

 ここで言われていることはすぐれて仏教的であると思う。ウィルスは私たち人間が登場する以前から自然界にいたのである。私たちはそういう中で生きている。ウィルスが人間にとってよくないものというのは人間の側の都合であることを忘れてはならない。ウィルスがよくないからといって根絶やしになどできるものでもない。流行を防ぐために最善の努力をしなければならないのは当然であるが、ヒステリックな対応はさらなる災厄を生み出す可能性がある。根絶したつもりでも次から次へと変異したものが現れるだろうという諦観は必要である。中村さんも仰っているように、我々は『そういう世界の中で生きている』という感覚はとても大事なことと思う。
今回の新ウィルスの県の影響で、今シーズンのインフルエンザの患者数が例年に比べて激減したというニュースがある。マスクと手洗いの励行でウィルスの流行がかなり防げるということが分かったのは怪我の功名というものだろう。 
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宗教的人間と倫理的人間

2020-02-09 10:30:08 | 雑感
 昨日、小坂国嗣先生の西田哲学の講義を聴いてきたのだけれど、先生が面白いことをおっしゃっていた。西田が親鸞に傾倒していたことについて、浄土真宗が盛んな土地に生まれたということ以外に、西田自身の資質がかかわっていたのではないかと言うのだ。先生は、西田は禅を相当やったけれど、性格的には禅には不向きな性格だったかもしれないと言う。というのは、彼の日記などを見ると、彼は甘いもの好きでつい自制ができなくて甘いものを食べ過ぎてしまう、そんな述懐がたびたび出てくるのだという。先生は「私にはどうも理解できない。食べてはいけないと思うのなら、食べんときゃいいじゃないかと思うのですがねぇ。」と言う。 しかし、先生が言うには、優れた宗教家にはそういうタイプの人が多いのだという。親鸞がその典型であろう。そういう人であればこそ自分の罪というものを強く意識する。宗教はそういう人のためにあるのだろう。特に浄土真宗は「分かっちゃいるけどやめられない」タイプの人のための宗教である。そこに西田が傾倒する理由があるということだろう。 先生ご自身はそういうタイプの人ではないと自覚しているようだ。自分なりの法に抵抗なく従える人という意味で倫理的人間を自認しているようだった。

 先生の述べられたことを総合すると、浄土真宗は宗教的人間向き、禅は倫理的人間向きと考えておられるのかもしれない。イメージ的には確かにそんな感じがしないでもない。しかし、西田の親友である鈴木大拙は禅の大家でもありながら、西田以上に親鸞に傾倒しているように思える。それに、日本のインテリには親鸞ファンがとても多い。三木清や吉本隆明も晩年近くには親鸞への傾倒を深めている。先生の仰ることは確かにかなり説得力があるのだが、なかなか見極めが難しいことだと思う。
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即非の論理

2020-02-08 21:10:38 | 哲学

日本に伝えられた仏教は中国を経由している。当然日本に伝えられた仏典はすべて漢語で書かれている。かつての日本は文化的には辺境の地であるから、やまと言葉は難解な思想を翻訳できるほど成熟していなかったのだろう、とにかく我々は仏教を漢文のまま受け入れたのである。


このことによって、仏教は実際以上に難解なものというイメージを我々は持ってしまったのではないかと思う。漢文の持つ響きは荘厳で重い。その重い響きの中に我々は神秘的なありがたさを感じるているのではないだろうか。時には衒学的な匂いがすると感じるのは私だけだろうか。


金剛般若経に次のような一節がある。


  「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」


「仏の説く般若波羅密は即ち般若波羅密に非ず、是を般若波羅密と名づける」と言う意味である。鈴木大拙博士が「A は A にあらず、ゆえにAなり」と定式化し、これを「即非の論理」として世に広めたのである。


即非の論理などと言うといかにも物々しいが、「一切皆空」が仏教の根本原理であることを了解していれば実に当たり前のことなのである。


  「山は山ならず、これを山と名づける」


我々は山を見て「山」と言う。しかし、「山」と呼ばれるものの実体はないと言うのが、「山は山ならず」と言う所以である。
山は土と石でできている。その山を少し削るものとする。そしてその土と石をバケツに入れたとする。私たちはそのバケツに入れられた土と石を決して山と呼ぶことはない。また、少しくらい削られても、相変わらず元の山を「山」と呼ぶ、削られた分確実に変形しているにもかかわらずである。
仮に半分くらい削られても、それは山と呼ばれる。だが、どんどん削っていくと、必ずそれは山と呼ばれなくなる。その境界というものはあるのだろうか。一体私たちはなにを指して「山」と呼んでいるのだろうか?


このように考えていくと、私たちが「山」と呼んでいるものの実体は存在しないことになってしまう。それが「山は山ならず」と言うことである。山に限らない、私たちの持つ概念と言うものはすべて、このように実体をもたない抽象的な記号に過ぎないのである。一見具体的な物事を考えているつもりでも、我々の思考は抽象化された記号の操作である。また、その抽象化がなければ、我々の思考も不可能となる。だから、「これを山と名づける」のである。


以上述べたことが金剛般若経の趣旨であると私は考えている。そんな難しい話ではない。「一切皆空」であると言っているだけである。ところが、インターネットでこの即非の論理を検索すると、我々が「論理」と呼んでいるものを超越した論理であるかのように語っているものがある。


インターネット上では 「これを山と名づける」ではなく、「それ故これは山である」としているものが多い。おそらくそこには一歩踏み込んだ解釈があるのであろうが、「これをAと名づける」と「それ故これはAである」とではまるきり違う。

私が散見した解説では、この語法について納得のいく説明をしてくれているものはまだ見当たらない。

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