政府側の主張は、検察庁法は検察官の定年を63歳とし、検事総長のみ65歳と定めている。ただし、国家公務員法は、退職により公務の運営に著しい支障が生じると認められる十分な理由がある場合には、1年以内の定年延長を認めるとしているので、今回は国家公務員法に基づいて延長を決定した、と言う。
しかし、国家公務員法に定年制を導入した1981年の国会審議の際に、当時の人事院幹部が「検察官と大学教官は、(検察庁法などで)既に定年が定められている。(国家公務員法の)定年制は適用されない」と答弁している。
野党は政府側が従来の法解釈を変更したと主張するのに対し、政府は変更していないと議論は平行線をたどっている。当時の人事院がわざわざ「国家公務員法の定年制は検察官には適用されない」と明言しているのだから、前例のない検察官の定年延長には新たな法制定が必要だと判断するのが妥当だ思うのだが、安倍総理は「検察官も国家公務員であるから、国家公務員法の定年制が適用されても問題ない」と強弁する。そのやりとりを聞いていて、私は規則のパラドックスを連想した。
ちょっと難しい話になるが、一般に言葉には厳密な意味が備わっていると誤解されているが、実はそうではない。我々の経験は有限だからである。我々は人々の有限な振る舞いを通じて言葉を習得するが、その一つ一つの振る舞いに対して解釈は実は無限にある。だから理論的には究極的な言語の意味には到達することはできないのである。だから屁理屈を駆使すれば法解釈などどうにでもなるとも言える。
しかし、それでも我々は言語が通じているという奇跡的な事実を重く見るべきである。無限の解釈の余地があるにもかかわらず、ほとんど齟齬を生じることなくコミュニケーションができるのは、われわれ人間が先天的に言語に関してなにか共通な機能を備えているからだろう。だから我々の言語解釈はある程度収斂する。だからある程度の齟齬は乗り越えることができる、ただし人間同士ならばだが‥‥。私の個人的見解では、検事の定年延長に関する解釈の齟齬は本来乗り越えることができる程度のものだと思う、人間同士ならば‥‥。ここで対立が生じるのは、一方が宇宙人だからかもしれない。