禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

量子論で空を説明する?

2020-02-05 19:53:33 | 仏教
 科学理論の進歩が私達の世界観を一変させることはよくある。ニュートンの万有引力、ダーウィンの進化論、アインシュタインの相対性理論、等々。我々は固定観念に陥りやすいのであるが、なかなか気がつかない。時には科学が私たちの曇った目をぬぐってくれることもある。しかし、科学というものは、現象を合理的に説明するための仮説であるという事は常に心に留めておかねばならないことである。
 ある人が言うには、「量子力学によって龍樹の空についての思想の正しさが証明された。」ということなのだが‥‥。はたして、龍樹の思想は科学によってその正しさを証明されねばならないような性質のものだろうか? もしそうだとしたら、科学上の新しい発見によっては龍樹も否定される可能性もあるということなのか? 

 そうではあるまい。龍樹の空観というのは仏教における原理とも言うべきものである。龍樹は「空とは縁起である」と説く。縁起とは中村元博士によれば相依性であるという。つまり相対的な関係性のことである。ものごとの識別・判断は相対的な関係性の中から生まれてくる。そこには必ず何らかの恣意が忍び込むというのが空の思想である。入定すると、あらゆるものから相貌が失われる。すべてのものの意味が脱落する。山は山でなくなり、川は川でなくなる。もちろん机も机ではないし、カレーライスはカレーライスではない。鈴木大拙博士の言う即非の論理「AはAにあらず、ゆえにAである」とはそのことを言っているのである。もちろんそういうところでは量子力学どころではない。数学も物理学も識別・判断することから成り立っているからである。

 もちろん、私達が生きていくには識別・判断というものがなければならない。しかし、仏教はその識別・判断は恣意的であると説く。つまり、それはニュートラルではなく、私達の都合であるというのである。数学や物理学だけではない。善悪や美醜というのも突き詰めてみれば、私達の都合によって成り立っている。もちろん私達は、その都合というものを否定しては生きていけない、そういう卑小な存在であることを忘れてはならないのである。私たちは卑小であるから、区別や差別をして生きている。しかし、本来はいかなるものにも差別などというものはない、と言うのが仏教の教えである。
考えようによっては仏教はとてつもなくニヒリスティック見えるかもしれないが、それだけ射程が大きいということなのだろうと思う。量子論によって説明することなどできるはずもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする