禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

民主主義は脆い

2021-01-12 11:41:19 | 政治・社会
 一昨日(1/10)のTBS・サンデーモーニングでジャーナリストの青木理さんが、トランプ支持派の連邦議会占拠に関して、次のようなことを述べていた。

【 今回思ったのは、民主主義って脆いんだなということですよね。ちょっとゆがんだ為政者がああいう形であおると、あっという間にこうなっちゃう。ヒトラーだってある意味民主主義から生まれているわけですからね。だから全く他人事じゃない。安田さんがちょっと仰いましたけれども、日本だって本来権力をチェックすべきメディアを(に)圧力賭けたり、(それによってメディアが)萎縮したりということが起きてるわけですし、本来独立すべきいろんな役職、内閣の法制局の長官とか検察庁のトップとかねというところの人事、学術会議というところまで手を突っ込まれている。という本来権力のやるべきじゃないことまでやられて抵抗できないと、民主主義というのはあっという間に崩壊していきかねないんだということを、民主主義を標榜する国に生きる僕らは真剣に考えないといけないですね。】 

 「民主主義が脆い」のはそれが知性による産物で、人間本来の性分・本能に沿っていないからだろう。自分にとって都合の良い大声に雷同しようとするのが本性にあっているのだろう。トランプの発信した嘘や根拠のない情報は2万回に及ぶとも言われている。大統領選に関する訴訟も確かな根拠に基づくものは一つとして認められていない。ことごとく却下されている。確かな根拠に基づかない訴訟を乱発するような男は、本来誰からも相手にされないのが普通だと思うのだが、トランプは大統領選挙で7千万もの票を得た。おそろしい現実である。以下は信濃毎日新聞からの引用である。

【ホワイトハウス前で開いた集会でトランプ氏は「我々は大統領選で地滑り的勝利を収めた」と根拠なく主張した。「弱気では米国を取り戻せない。強さを示さなくては」とも訴え、支持者に「大通りを行進しよう」と呼びかけた。】 

 「我々は大統領選で地滑り的勝利を収めたという発言は、すでに精神錯乱状態のなせるわざではないかと疑いたくなるような発言だと思うのだが、熱狂したトランプの支持者には不自然には聞こえないらしい。そういう人々にとっては「大通りを行進」して議事堂に突き当たったら、窓ガラスを破って侵入することも当然のことなのだろう。彼らは「盗まれた選挙」を取り戻すためには暴力的な示威行動にも正当性があると考える。知性があれば明らかな犯罪でしかない行為を情動が許可してしまうのである。
 
 前回記事でも述べたが、.いわゆるプア・ホワイトと称される人々がトランプを支持している。トランプの「アメリカの労働者は不法移民に職を奪われている。」という言葉が そういう人々の共感を呼ぶのである。彼らにとって「不法移民」とは非白人のことである。白人である自分の権利が非白人によって不当に侵害されているという思いがあるのだろう。事情は第2次世界大戦前のドイツによく似ている。ヒトラーは不況にあえぐドイツ国民に対し、アーリア人の栄光を情熱的に訴えた。トランプもヒトラーもそれぞれ「不法移民」と「ユダヤ人」という差別目標を定めることによって、暗に自分達の支持層に無根拠な人種的優越性を与えたのである。常に他者より優位に立ちたい、それが人間の本能なのだろう。それで人々はトランプの威勢の良くて自分に都合の良い言葉に感応した。

 民主主義というのは、自分を含め多くの人々が弱者であるという自覚によって初めて成り立つ思想である。弱者であるから広範な連帯が必要である。連帯するためには他者の利益を守らなければならない。他者はもう一人の自分だからである。自分が差別されないためには他者が差別されてはならない。他者の利益を守ることは自分の利益を守られるための唯一の根拠である。そのような知的理解がなければ民主主義は成り立たない。そういう意味で民主主義は全体主義よりも弱い、トランプやヒトラーのように直接的に情動に働きかけるものがないからである。
 
 だからこそ私たちはよく考えねばならない。反知性的な指導者の声に惑わされてはならない。人々は連帯しなくてはならない。人々は差別してはならない。連帯と平等がなければ自分が守られる根拠もなくなってしまうのである。民主主義が人類にとって最善のものかどうかは分からないが、少なくとも現在の私達には他に選択肢はないのだから。
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人間の愚かさを侮っては ならない(ユヴァル・ノア・ハラリ)

2021-01-08 11:37:59 | 政治・社会
 かつてアメリカ合衆国は民主主義のチャンピオンであると自認していたはずだ。なのに、暴徒が連邦議会に不法侵入し占拠するというようなとんでもない事態が出来した。しかも、それを大統領自身が扇動した疑いがあるという。選挙の結果が自分の思い通りにならないからと言って、選挙そのものを否定していては民主主義の制度そのものが成り立たない。文明国の人間なら誰でも知っていなくてはならない常識である。
 大手メディアのことを「フェイク・ニュース」と罵るのは、すでにトランプの口癖になっているが、フェイク・ニュースの最も大きな発信源はトランプ大統領その人である。「選挙が盗まれた」というのも彼の口癖で、今回の選挙結果についておびただしい数の訴訟を起こしている。そのことごとくが裁判所によって却下されているにもかかわらず、トランプの支持者はそれを事実だと信じているのである。トランプの訴えが如何に馬鹿々々しいものであるか、アメリカ在住の映画評論家・町山智浩 さんが二例ほど紹介してくれているので、ここで披露したいと思う。

【ケース1】
 トランプ大統領の弁護士・ルドルフジュリアーニはミシガン州では投票登録者数より投票が多かった、架空の投票が大量にあったのではないかと主張した。「ベンビルでは投票登録者数の3.5倍の人が投票された。またモンティチェロでは投票登録者数の1.5倍の人が投票されている。」と言うのである。

 アメリカで投票するためには、選挙人名簿に自分の名前を載せてもらうよう、自分の住んでいるところの選挙管理委員会に申請をしなくてはならない。ペンビルとモンティチェロという二つの町で、選挙人名簿の人数よりも多くの人が投票 (over vote) しているというのである。調べてみると確かに、その二つの町ではあらかじめ登録された選挙人名簿の人数よりも多くの人が投票していた。しかし、その二つの町はミシガン州ではなく、実はミネソタ州の町だったのである。ミネソタ州では選挙当日に選挙人名簿の登録申請も受け付けているので、あらかじめ登録されていた選挙人名簿の人数よりも投票数が多くなるのは当然のことだったのである。 こんなお粗末なミスをした、ジュリアーニ(元ニューヨーク市長)はもう弁護士としてはやって行けないだろうと町山さんは述べている。
 
【ケース2】
 「ペンシルベニアでは私(トランプ)の94万1千票が消された。そして、43万5千票がバイデンに書き換えられた。(差し引き)130万票がドミニオンに奪われた。」と主張した。

※ドミニオンというのは集計器のメーカーである。そのメーカーの経営者が民主党贔屓で集計器のソフトに細工したと主張しているのである。


しかし、集計は複数のメーカの機械が分担して行う。ペンシルベニアにおけるドミニオンの集計分は全部で約130万票で、その内の67万6千票がトランプ氏の票として計上されている。なにを勘違いしたのかが分からないが、トランプ陣営の人々は計算に弱いということが露呈されてしまった。
 
 本来なら、こんな訴えをしたこと自体を恥じねばならないことである。ところがトランプは懲りずに次から次へと明確な証拠もなしに訴訟し、そしてことごとく却下されている。今までに彼の主張に明確な根拠があると認められたものは何一つないというのが現実である。トランプがとても大統領にふさわしい人物でないことは明らかであるにもかかわらず、彼の支持者たちはそのことを見ようとはしない。そして口々に「選挙が盗まれた」と本気で叫ぶのである。詐話師の言葉がこれほど人々の心に強く訴える力があるのはなぜだろう? 
 トランプの支持者の核にいわゆるプア・ホワイトと称される人々がいる。トランプ大統領の「アメリカの労働者は不法移民に職を奪われている。」という言葉に共感しているのだろうと考えられる。本来なら自分たちはもっと恵まれているはずなのに、そうでないのは民主党のリベラルな政策によって、自分たちは割を食っているのだという思いがあるのだろう。 私には、アーリア人の優越性を訴えることによって国民の熱狂的な支持を集めたヒットラーとトランプが重なるのだが、それは思い過ごしだろうか?
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あまりに無策、あまりに無能

2021-01-06 21:20:36 | いちゃもん

 ほんの一週間とちょっと前まで、膨大な税金つぎ込んでGoToキャンペーンやっていたのだ。このピント外れな政策を主導した老害政治家・二階とその傀儡のガースーは万死に値する。日本の政治家に最悪の事態を回避する、という発想はないらしい。
 既に保健所のキャパシティはオーバーフローしている。このような事態はずっと前から予想されていたはずなのに、政治家達は掛け声ばかりで手をこまねいていた。今からでもPCR検査数を飛躍的に増大させるには、検査部門を保健所から切り離すべきだろう。
 民間会社、大学、自衛隊等、国家総動員で検査体制を整える。軽症の陽性者はどんどん指定の宿泊施設へ隔離する。施設が足りなければ、オリンピックの選手村をそれに充てるとか、自衛隊が野戦病棟をどんどん作る。それくらいの決断が必要な事態だと思う。要はやる気だ。政治家にはやる気を出して欲しい。後手後手の弥縫策は要らない。
 現場では医療従事者が不眠不休で頑張ってくれている。そんな時に高級料亭で会食しているような政治家は要らない。ご退場願いたい。
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すべては仮想現実か?

2021-01-02 12:12:35 | 哲学
  前回記事の最後に「すべては仮想現実」というようなことを述べたのであるが、私の標榜する禅的哲学ではそれをそのまま結論とするわけにはいかない。 すべてが仮想現実であるなら現実というものは何もないということになる。言葉というものは相対的なのであって、「実」があって「仮」があり、「仮」があって「実」があるのである。すべてが仮想ならそれは仮想と呼ぶべきではない。それはわれわれが絶対そこから抜け出ることはできないもの、すなわち現実そのものに他ならないのである。
 般若心経に次「色即是空 空即是色」という文言があることは広く知られている。「色」とは我々に対して現前するすべての現象すべてのものを表す言葉である。「空」とは実体のないことを言う。「実体」とは少し難しいがそれだけで独立して確固たる存在であり得るものという意味である。(参照=>空(くう)について」
 つまり、色即是空とはあらゆるものが本質を持たない、ひいては意味のないものというようなことを言っているのである。おそらく釈尊は、「だからなにごとにも執着してはならない。」とわれわれに諭すのだろう。すべては無常であるその世界の中で、絶対的とか固定的なものを求めれば、この世界が「すべては仮想現実」であることに絶望するしかないだろう。それが色即是空の意味するところである。
 しかし、色即是空だからと言って「すべては無意味」とすましているというのはニヒルすぎる。もしすべてが無意味なら「すべては無意味」という言葉自体が無意味である。「すべては無意味」と自分に言い聞かすこと自体が不自然である。釈尊がわれわれに教えるのは「執着してはならない」ということだけである。執着を離れてわれわれは自然(じねん)を得る。その時世界は再び絶妙なものとしてよみがえる。それが「空即是色」ということ(と私は解釈している)である。
 「柳は緑花は紅」とはこの世界の当たり前のことを言うのであるが、その当たり前が尋常でないことを意味しているのである。私たちは決して仮想現実の中にいるのではない、あらためてこの現実の妙を噛みしめる、地につけた足の実感を確かめながら生きよという教えである。
 
建長寺の柏槇  開山禅師・蘭渓道隆のお手植えと伝えられている。
無門関第37則「庭前拍樹」の柏樹とは実は柏の木ではなく、この柏槇のことらしい。
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