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大震災関連その3 ~大災害に備えた知恵と教訓の成功例・日野原重明氏の対応と羽生結弦選手の行動力に見える「愛」

2017-08-14 | 羽生選手と大震災関連

 

幻冬舎から、「日野原重明さんが最後に伝えたかったこと」という連載記事が出ていまして、幻冬舎が昨年末からインタビューされていた内容が連載されています。 日野原さんは、これを最後の使命とお考えだったようです。

その中で、最新の記事 第五回:「医学とはサイエンスの上に成り立っているアート(芸術)」で、フィギュアスケートにも、あらゆることにも通じることが語られています。   

日野原さんの生き方をさらに変えたという、よど号ハイジャック事件の人質になった時の、当時の状況などを興味深く証言して下さっている、第3回:よど号で読んだ「カラマーゾフの兄弟」 という記事 

第1回:死は恐れるべきものではない、と語られた記事、同じく死について語られている第2回など、なかなか素晴らしい内容が連載されているので、参考までに、ここにリンクさせて頂きます。

 

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羽生選手は、自叙伝「蒼い炎Ⅱ」の最後に、こんなことを書いていました。

 

「人が思いを伝えようとする時には、インターネットだったり電話や手紙など、何か道具が必要です。

例えば僕という人間を道具として、僕という人間を通して、皆さんが自分の気持ちを伝えるきっかけになればいいいな、と。

僕というネットワークを使って、いろいろな気持ちを発信してほしいと思っています。」

 

「(略)… 震災に対する思いというものを、少しでも寄せて頂けて、少しでも増えていけば、

被災地、ひいては日本という国にとっていいものになっていくと思うんです。

そういうものが一つずつ集まって、素晴らしい光になってもらえたらなと思っています」

 

 

蒼い炎II-飛翔編-
羽生 結弦
扶桑社

 (この「蒼い炎」シリーズ(IとⅡ)は、羽生選手が得られる印税収入の全てを、羽生選手自らが育ち、被災したホームリンクである「アイスリンク仙台」に寄付しています。)

 

 

いわゆる「大災害」に備え、それが見事に成功した例があります。

 

羽生選手が生まれて間もない、1995年の3月20日に起きた、日本中を驚かせた無差別テロ事件「地下鉄サリン事件」で、

多数の緊急患者を救った「聖路加国際病院」と、当時そこの理事長だった日野原重明さんです。

 

日野原さんは、医師として東京大空襲の被災者の治療に当たったことや、

よど号ハイジャック事件に巻き込まれて人質になったことがあることも有名ですが、私にとって印象深いのはやはり、

地下鉄サリン事件の時の英断と、その直前に行っていた先見の明、そして行動力と実行力の凄さです。

これについては、過去にも色々と特集番組が組まれて報道されてきました。 

このページに、当時報道された、事件の経緯と病院側の対応の詳細が載っていますので、当時の特集番組などを見逃した方は、参考までにどうぞクリック。

 

日本で一番有名な医師とまで呼ばれ、医学界にも社会にも多大な影響を与えた、日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長)は、今月の18日に105歳で天に召されました。

多くの医師や看護師だけでなく、広く社会からも尊敬を集めた日野原さんは、パワフルな高齢者だったというだけでなく、ご自身の身に起きた数多くの大変な経験から得た教訓を生かし、実行された方でもあり、大災害対策という視点でも、悲惨な体験下を生き抜くという視点でも、模範や成功例を残されました。

 

サンスポ・小澤征爾さんコメント

「細かいところまで人の命を大事に考えた方でした」

「生きている喜びを死ぬまで味わう、そういった姿勢を持っていました。音楽に対する愛情、尊敬も強い方でした。素晴らしい人柄でした」と追悼。

こちらの朝日の記事だと、「高齢社会のスーパースター」と呼ばれていたそうです。(なかなか良い内容が載っています)

 

 

日野原重明さんは、お父様と弟さんが牧師という、牧師家庭に生まれ育った、生粋のクリスチャンでした。 (ジョン・ウェスレーの流れである、メソジスト派(プロテスタント系))

 

日野原さんは、子供時代、母親の命を救ってくれた医師を見て、医者になることを決意したそうです。

京都帝国大学医学部(現・京大医学部)に現役で入りますが、入った途端に結核になり、自分が結核患者として入院し続ける苦しい1年を過ごします。

医師としては完全に出遅れて、教授になるという夢を諦めた日野原さんでしたが、

その経験から、逆に「患者の立場として痛みを知る」こととなり、

それが後の、彼の医師としての姿勢や仕事に、非常に大きな影響を与えたそうです。

 

だから、患者となって入院していた、その辛く悲しい期間は、後から振り返ってみれば、むしろ大きな恵みだった」と仰っていました。

 

日野原さんが勤務し続けた「聖路加国際病院」とは、「せいろか」と読むのではなく、正式には、「聖ルカ 国際病院」と読むのが正しい読み方です。   

(注:「聖ルカ」とは、一体誰なのかと言うと、イエス=キリストの弟子だった一人で、医者でした。

新約聖書の「ルカの福音書」を、聖霊に満たされながら神様に書かされた、とても有名な人物です。 )

 

 

羽生選手はまだ生後3か月の赤ちゃんだったはずの1995年の3月に起きたこの事件ですが、

東京・築地の路上には、地下鉄の階段を上がってきて、謎の症状で路上に倒れ込む大勢の人で埋め尽くされた衝撃的で異様な光景を、

決して忘れていない人は多いことでしょう。

 

カルト教団「オウム真理教」が、このテロ事件である「地下鉄サリン事件」を起こしたあの時、

他の東京の多くの病院が、病床の空きがないことを理由に、原因不明の緊急患者の受け入れを断った中、

日野原さんは聖路加国際病院の理事長として、猛毒「サリン」による、前代未聞の数千人の被害者の大半を、一気に受け入れ、助けることを決断し、そして実行しました。

 

それが出来たのは、

その昔、戦時下で救助に当たった時、病院に入れることができずに亡くなった人々が多数いたのを目の当たりにし、

大惨事に耐えうる病院を作ることを決意していたそうで、

当初は批判されたそうですが、酸素の配管を病院中に張り巡らせ、大きなロビーや礼拝堂をも備えた病院建設を推し進め、1994年には完成させていたことから、この緊急対応が出来たというのです。

 

大きなロビーや礼拝堂を設計し、そこにまで酸素の配管を巡らせて備えさせた理由は、

いざとなった時に、多数出るであろう緊急患者を出来るだけ受け入れ可能となるように、ロビーや礼拝堂までもを、緊急の病室として転用できるようにするためであり、

基本的には東京で起こるかもしれない大地震や大災害を想定して、大勢が死傷する可能性に備え、それに対処できるようにするためだった」と言います。

 

その翌年、まさにその東京で、「大震災」ではなく、まさかの地下鉄サリン事件という「大・人災」が起きました。

 

でもこの準備のおかげで、結果的に、大勢の患者を受け入れ、救うことができました。

 

あの凄惨な事件の被害の広がりを、最小限に抑えられたのは、

当時、全力で救助に当たった関係者、全ての方々のおかげでもありますが、

この日野原さんの決断と、教訓を生かした知恵、そして彼の信念によるところは大きかっただろうと言われています。

 

一方で、大地震やそれに伴う被害、津波による浸水、爆発までもが想定され、何度も指摘されていながら、

むしろ対応を怠って、被害を拡大させたのが、東日本大震災直後の、福島の原発爆発事故です。

 

他国と比べても、水に恵まれ、豊かだった日本ですが、人間にとって必需品でもある貴重な「水」を大量に汚染していくという、

せっかくの恵みを自ら失っていくような、非常に罪深い、悲しい結果を招きました。

 

 

日野原さんの対応は、災害を想定して対応していた結果、予想もしなかった究極の人災の被害を、最小限に食い止める働きとなりましたが、

福島の原発事故は、内部関係者の数多くの指摘があったにも関わらず、災害の想定を無視した対応の結果、究極の人災までもを引き起こし、被害を拡大させた結果となりました。 

 

 

聖書には、「終末が近づいてきた世」に対して、次第に災害が増え、頻度も程度も増していくことが何か所にもわたって預言されていますが、

そのうちの一つは、次のように書かれています。 

 

以下は、イエス=キリストの弟子たちが、「あなたが(再び)来られて、世の終わる時には、どのような前兆があるのか。」と尋ねた時に、イエス=キリストが答えた言葉です。


「人に惑わされないように気をつけなさい。

わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 戦争の騒ぎや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

しかし、これらは全て産みの苦しみの始まりである。

(※ 人災も含めて、世界で起こる災害の度合いは、産みの苦しみ(=陣痛)のように、次第次第に激しさと程度を増していく、ということ。)

(中略)

そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

(中略)

そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 

(中略)

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。

偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、出来れば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。

(※ 注意: この「大きなしるしや不思議な業」とは、まるで「神の力」であるかのように見せかけますが、決して本当の神の力による奇跡ではなく、現代にも実在の本物の「悪魔の力」(=魔術、魔法)による惑わしの業による、ということです。)


あなたがたには前もって言っておく。

だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』 と言っても、行ってはならない。 

また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。

稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子(=人となった来られた神の子、の意味、イエス・キリストのこと)も来るからである。


(イエス=キリストの言葉

マタイによる福音書 24章4節~13節、 21節~28節  新約聖書 新共同訳より)

 

 

終末の世が近づくと、偽メシアや偽預言者たちが、この「悪魔の力」=魔の力(魔術・魔法・呪い・洗脳等)を使って、

まるで神の力であるかのように見せて、多くの人を惑わしていき、それに従っていってしまう人々が出る、と、

イエス=キリストは、約2000年前に警告していたのです。 

 

聖書で、最も強く繰り返し警告されているのは、多発していくことが明言されている「大災害」だけでなく、

世界中を惑わしにかかると言われる、「偽メシア」(=偽・救世主のこと、偽メサイア、反キリスト、獣、666などとも表現される)の登場と、彼らによる人々の奴隷化、悪魔的な世界支配があります。

 

現代は、「自称メシア」や、自分こそがキリストの再来だなどと吹聴する新興宗教の教祖や、それっぽく匂わせる政治家など、世界中を見れば、既に何人も出ています。

(地下鉄サリン事件を起こした「オウム真理教」の教祖・麻原も、広く見れば、その一つに入るかもしれません。)

 

でもまだ、聖書で最も警告されている人物ーーーー世界中の、「イエスが本物のメシア(救世主)だと信じていない人たち」や、聖書の預言の詳細を知らない人たちが、簡単に騙され、従ってしまうほどのカリスマ的人物ーーーーは、「表向きでは」登場していないですが、

いつの日か必ず現れると、聖書は明確に預言しているのです。

 

このカリスマ人物は、表向きはとても良く見えるはずで、世界統一政府、世界統一経済を推進し、世界の宗教を「みな同じ」などと言って、神と呼ばれている全てをごちゃごちゃにして、統一化しようと推し進める、と預言されています。(=これはつまり、神のような振りをした「悪魔」をも神として認め崇めろ、ということになっていくのです。 気が付けば悪魔そのものや、悪魔的なものをも拝んでいくことになります。)

恐らく、表向きはキリスト教徒を装って登場する可能性が高いだろうと言われています。 

(豹変して自分が神だなどと名乗り出し、正体を現すのは、最後の最後になるため。) 

正しい判別の基準を知らないと、簡単に騙されてしまいます。

聖書の預言によれば、この反キリストと呼ばれる人物(=世界の終わりの頃に、独裁者になる者)は、現代における「復活ローマ帝国」と呼ぶにふさわしい場所から、終末の世に 登場することになっています。 

 

 

聖書にこのような未来の預言があることと、私たちは今、そういう時代を生きていること、そういう時代に向かっていること、を知っておくことは、とても重要です。  (実は、聖書を信じていない人ほど、より重要になっていくのですが。)

 


わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は(=天地創造主の神は)言われる。

それは平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。

そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。

わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うだろう、と主は言われる。」

 (エレミヤ書 29章11~14節   旧約聖書 新共同訳より)


※ これらは、プリンスさんが歌っていた、羽生選手の演技「レッツゴー・クレイジー!」の歌詞の本質部分でもあります。

 


さて、聖書の中にある、終末の時代に次々起こるとされる、前代未聞レベルの大災害の連続に関する預言箇所も、現代を生き抜くうえで、大いに参考になりますが、その時代を生き抜くうえでも、特に重要になる聖書箇所があります。


日野原さんが、この地下鉄サリン事件の時に下した決断や、その直前に行っていた事前準備、晩年に至るまで、多くの人に影響を与えた数多くの行動を想うとき、

まさに、日野原さんは、次の聖書の言葉をとても重んじて実践されていたのだな、と良くわかるのです。


とても有名で、マザーテレサを始め、世界中の多くの人に影響を与えた言葉でもあり、

また、羽生選手の使った「レッツゴー・クレイジー!」が歌っている世界観の重要な根拠ともなっている聖書箇所です。

 

「人の子(イエス=キリストのこと)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。

そして、全ての国の民がその前に集められると、羊飼い(イエス=キリストの象徴)が羊(ひつじ)と山羊(やぎ)を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。

そこで、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、わたしの父(=天地創造主の神)に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国(=神の国、または天国)を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

すると、正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

( マタイによる福音書 25章31~40節  新約聖書  新共同訳より )

 

 

ここで言う「王」とは、神様(イエス=キリスト)のことです。

「羊(ひつじ)」というのは、「イエス=キリストに従う人々の群れの象徴」のことです。

「山羊(やぎ)」というのは、羊に外見は似ているけど、実態は違う「ニセモノ」の象徴として表現され、対比されています。

これは、(本物の動物のヤギの話ではなく)「羊のように見せかけているけれども、実は違う人々の象徴」のことで、この「羊と分類された行動と正反対の行動をとった人たちのこと」は、「山羊(やぎ)」と表現され、そのように分類される人々は、この聖書箇所の続きで、なんと王から地獄行きが宣告されています。

これは、羽生選手の演技「レッツゴー・クレイジー!」で歌われていた歌詞の中でも、多くの人が疑問に思ったであろう、

「パープル・バナナ(※ 救世主イエス=キリストのことです)を求めろ! トラックの積荷として連れていかれる前に」

と歌われていた部分に該当します。

 

 




 


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5 コメント

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ありがとうございます (チコ)
2017-07-29 19:35:17
難しい事はさておき、私にも良く理解ができました。地下鉄サリン事件は今でも鮮明に覚えてますしその時私が思った事は事件の詳細より
人間の奥にある計り知れない感情でした
当時25歳くらいでは人生経験もたりなく
色々を想像して理解に苦しんでいました。
どんな人間も修行するために生まれて来ていると聞きました。だから今を純粋に生きたい!
そう思えるお言葉でした。
ありがとうございます🙇
返信する
こちらこそ (管理人)
2017-08-01 22:48:46
>チコ様

いえ、こちらこそ、どうもありがとうございます。恐縮です。
私は知っている事実や聖書の言葉を載せただけですので...。

私は、オウム真理教の信者集団が、どこかの駅前で異様な音楽をかけながら踊っているのを、一度だけ見たことがありました。それを見て聞いた瞬間、それまでには感じたことがないレベルの気味の悪さと、ものすごい吐き気に襲われたのを良く覚えています。
その時は、その人たちが何者なのか知りませんでしたが、後から、地下鉄サリン事件を起こした集団だと判り、納得しました。

嘘、偽り、騙し、一種の虐待下に置いた上での洗脳は、悪魔的な組織の使う常套手段です。


イエス=キリストは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイによる福音書18章3-4節)とも語っていますので、純粋に生きたい!と、チコ様が感じられたということは、きっと素晴らしいことなのだと思います。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。
この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」
(ヘブライ人への手紙4章12-13節)

聖書の言葉に対する反応というのは、その人の心や本当の姿を明るみにすると言われます。

私は、羽生選手を見ていると、聖書の言葉の言っている意味が、より良く解るようになることが、良くあります。(笑)

コメントくださったチコ様の上に、そしてここを読んでくださった全ての方のうえに、そして日本の上に、神様の大きな祝福がありますように…!

イエス様の御名前でお祈り致します。
返信する
暑中お見舞い申し上げます (チコ)
2017-08-03 20:45:00
拝見するのが遅くなり申し訳ありません。
私のつたないコメントに返信ありがとうございました。

私事ですが、心が折れそうな時は羽生さんに助けられています。演技もそうですが
数々の名言にも 笑
この方はほんとに素直にかざらず サラサラって
音がするくらいさらりと 奥深いことを
おっしゃいますよね。

物事には必ず2局面あってどちらが正しいって
ことはない なんて話も聞きますが
でもやはり人間としての道徳心って
相反してない気がするんですよね。
最近は 羽生さんに助けてもらいっぱなしの
私でした。

そしてこのブログを訪れることができて
今 感謝しています。
盛夏
返信する
ありがとうございます (管理人)
2017-08-05 11:08:08
>チコ様

こちらこそ、とても丁寧なお返事を、どうもありがとうございます。

心が折れそうな時は、羽生さんに助けられているとのこと、最近は羽生さんに助けてもらいっぱなし、とのこと、
どちらの言葉も、きっと羽生選手にはとても嬉しいだろうと私は思います!(笑)

昨シーズンの羽生選手は、まだ怪我が治ってもいない時から、2つのプログラムに対して込めた想い、そのことを、何度も一生懸命語っておられましたからね。

昨シーズン、途中で、「(演技中に)ジャッジに向かってしゃべっちゃえばいいじゃん」などと思ったというくらいですし、本当は羽生選手にとっては、言葉で語った方がストレートで簡単なのではないでしょうか。(笑)

羽生選手の発言が、素直に飾らずに率直に…というのは、羽生選手に特徴的な、抜きんでた長所だと思いますし、そこが特に、羽生選手が天才性を発揮できる大きな理由でもある点だと私は思っています。

変な嫉妬心もなく、何が真理かを本気で追究する心がある。
「優れているもの」を、「優れている」と素直に認めることができ、それを尊敬して喜ぶ心がある。

ソチ五輪の、金メダル獲得後の発言でもわかりますけど、「この金メダルが果たして、本当に人々の役に立ったのか」「自己満足に過ぎないのではないか」を、直ちに、真剣に考えようとする。

聖書を読めばわかりますが、しっかりと自分の本当の姿を見つめ、素直で、正直に祈れる人が、一番神様に祈りが聞かれやすいのです。
本音で祈らないと、祈りはなかなか聞かれないからです。
そして、神様に「従う心」のある人。

でも、世の中には「自分の本音がわからなくなる」ように生きてきてしまったり、そのように仕向けられて育つケースも多々あり、特に日本はそれが多いと、私は思っています。
けど、そういう方々のその事情や背景をも、全てをご存知の神様が、一番ベストな道を必ず導いて下さるので、色々なことが自分の思い通りにいかなくても、そこにどんな意味があるのかを問いながら生きていくとき、いつか必ず答えが与えられていき、神様の本当の「愛」が解るようになる、と、聖書は語っています。
そして、その「愛」を、自分のためだけでなく、他者にも流していきなさい、と。
聖書が語る、「神様」の一番願うことは、それなのです。

聖書で語る神(=天地創造の神であり、救世主である神)とは、人間の自分勝手なご利益のためだけに、人間が「都合よく」「利用」できるような、そんな存在ではありません。

もし、人間がそれだけを望むのなら、その時は「神よりも自分のほうが上」を望んでいることになり、すなわち、「自分こそが神」になっている状態なので、そういう心の状態の人に喜んで寄ってくるのは、むしろ「悪魔側の霊たち」だと警告されています。

また、生きているただの人間や、死者を「神格化」したりして、それを神として拝むなら、そこに寄ってくるのは、「悪霊」だと聖書は明言しています。

悪魔的なものを、「それとわかりつつ」、喜ぶような心があるなら、そういう人のところに寄ってくるのも、当然、悪霊になるのです。

どんな悪魔の業をも、最後には簡単に逆転させることが出来るほど、絶大な力をもつ「真の神」にこそ信頼するように、… と、聖書は語っています。

これを歌っていたのが、「レッツゴー・クレイジー!」です。 羽生選手の演技は、時間の関係でカットされている歌詞がありますけど、そのカットされている部分に、悪魔側の戦略の一部が暴かれているのです。
そして、「それに騙されるな!」と、あの歌は語っていたのです。

聖書によれば、人間は絶えず、自分で何を選択するのか、自分から(悪魔と神の)どちらに従っていこうとするのか、が神様に問われています。

社会的影響力の高い人は、より一層、それが厳しく問われますので、羽生選手みたいに、世界的に影響力をもつに至った立場の人は、今まで以上に本当に大変と思いますけど、でも、そこで神様の御心にかなうことをしていくならば、その分、報いもより一層大きくなることでしょう!

このブログが、少しでもお役に立てましたならば、私も本当に幸いに思います。

コメント下さいまして、どうもありがとうございました。




返信する
補足説明 (管理人)
2017-08-09 17:26:28
すみません、ここを読んで下さっている方々に、ちょっと上の内容に、さらに補足説明しておきます。 

生まれながらの人間は、本当の意味での「愛」をもちあわせてはいません。
(聖書でいう本当の愛は、究極の愛であり「無償の愛」なのですが、これを最初から持っている人間はいないのです。誰かから受けることで体験していくか、神様から直接頂くかしかありません。)

だからこそ、まず神である方ご自身が、人の立場まで降りてこられて、人となって、人間一人一人の罪、その罪を代わりに全て背負われ、その愛を示されました。(これが救世主、イエス=キリストの十字架上の死の意味です)

イエスご自身はその生涯において、病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせ、数多くの奇跡を行い、そして、最後に罪を背負うため、ご自分は何の罪も犯していないのに、十字架上で死なれたのです。
(十字架刑を下す役割だった総督ピラトは、イエスに何の罪も見いだせないと宣言しましたが、イエスは十字架で罪を背負って死ぬこと、それこそが使命だったから、それを成し遂げられたのです。
これは、ユダヤ人の聖典でもある旧約聖書に、救世主がこのようにして死なれることさえも預言されています。)

そして、普通の人間ならあり得ないことですが、殺されて死んだにも関わらず、3日後に墓から蘇り、多くの弟子の前に現れ、そして大勢の前で天に昇って行かれたと聖書は証言していますし、多くの人がそう証言しているのです。

何よりも、今日も、イエス様に祈れば、祈りが直ちに聞かれる(イエスを神であり、救い主として心に受け入れれば、ですが)という事実と、
今も毎日、世界中でそれにより、人生が大きく変わっていく人が多数起こされていますが、
他の人間には決して出来ないほどの劇的改心を起こし、人を変えることができるほどの力が働くこと、イエスを自分の救い主と信じると「聖霊(の神)」という証印が押され、自分の霊の内側に、この神の霊の一部が与えられます。
このことにより、さらに特別な賜物が与えられ、神様としっかりとコミュニケーションが取れるようになり、共に生きられること、などが、イエスが今も生きておられ、働かれておられる真の神であることを証明しています。

今現在の世界では、これまで、イエスを救世主とは認めてこなかった「ユダヤ人」の間と、イエスを信じると殺されることまである「イスラム教徒たち」の間で、
人の手によらず、直接本人たちにイエス様が現れる形で、イエスを救世主と信じてクリスチャンに変わっていく人たちが激増している現実があります。

ユダヤ人でイエスを救世主として認め、受け入れ、信じた人達を、「メシアニック・ジュー」と呼びますが、現在、世界中でこの人数が激増しています。

ですから、逆に、多くのクリスチャンたちが、これらの出来事を知って大いに驚かされているような状態なのです。

それゆえ、本当に世の終わりは近いのではないかと言われていますし、聖書にある、多数の預言内容が既に成就している状態から見ても、現在進行中の預言内容を見ても、時は迫っていると考えられています。

※ 預言、は神の言葉を預かる、の意味で、いわゆるただの未来予想の、予言、とは異なります。
預言、は、本当の神の言葉にしか使えない単語です。

最後に、聖書で言う「神様」を理解するのに参考となる、重要な聖書の言葉をここに書いておきます。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いにこのことを心掛けなさい。
それはキリスト・イエスにも見られるものです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

(フィリピの信徒への手紙 2章3~11節  新共同訳より)
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