韓国徴用工判決、投資と観光客が激減する恐れ
向山英彦
2018年11月2日(金)
韓国大法院(最高裁)は10月30日、韓国の元徴用工4人が新日本製鉄(現・新日鉄住金)を相手に起こした損害賠償請求訴訟の再上告審で、4人にそれぞれ1億ウォン(約1000万円)を賠償するように命じる判決を確定した。
判決後、新日鉄住金と日本政府はこの問題は65年の「日韓請求権ならびに経済協力協定」(略称)で解決済みであり、本判決は極めて遺憾であるとのコメントを表明した。
今後の韓国政府の対応次第では、日韓関係に深刻な影響を及ぼす可能性がある。
盧武鉉政権の見解を覆す
日本政府・企業にとって衝撃的な判決となった。というのは、「日韓請求権並びに経済協力協定」の規定に反するだけでなく、従来の韓国政府の見解とも異なるからである。
65年に、日本と韓国との間で「日韓基本条約」(略称)、「日韓請求権並びに経済協力協定」などが締結され、国交が正常化した。
正常化のネックとなっていた請求権問題については、日本が韓国に経済協力することで「政治的決着」が図られた。
この背景に、当時の朴正煕(パク・チョンヒ)政権側に、日本から資金供与を受けて経済建設を推進したかったことがある。
具体的な内容をみると、
同協定の第1条で、日本が韓国に対して、3億ドルの無償供与、2億ドルの低利融資、3億ドルの商業借款を供与すること、
第2条で、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、…(中略)…完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と規定された。
日本政府はこの規定を拠り所に、個人の請求権問題は「解決済み」との立場をとっている。
同様に、韓国政府もこの協定で解決ずみとの見解を示してきた。
盧武鉉政権(ノ・ムヒョン、文在寅=ムン・ジェイン=大統領は当時秘書室長)も、日本政府が同協定に基づき供与した無償3億ドルのなかに請求権問題を解決する資金が含まれているとの見解を示した。
今回の裁判でも、一審、二審は基本的に政府と同様の見解を示したが、12年5月に大法院が個人の請求権は消滅していないとの判断を示して、二審判決を破棄した。
13年7月の差し戻し控訴審で高裁は、新日鉄住金に対して1人当たり1億ウォンの支払いを命じる判決を下した。
新日鉄住金はこれを不服として上告。この後、5年間審理が行われなかった。
そして10月30日、大法院が新日鉄住金の上告を棄却し、判決が確定した。
大法院の見解の変化と5年間の空白の理由
今回の一連の動きには、二つの疑問が浮かぶ。
一つは、大法院の見解が12年になぜ変わったのか、もう一つは、上告審で5年間審理が行われなかった理由は何かである。
大法院の見解が変わった背景に、国民による過去の問題に対する問い直しがあったと考えられる。
韓国では80年代後半に民主化が進み、情報公開を求める動きが広がるなかで、過去の日韓会談関連の外交文書が公開されるようになった。
これを機に、過去の政府が不問にした問題に対する問い直しが始まり、いわゆる慰安婦問題や徴用工問題が再浮上した。
こうした世論に押されるかのように、65年に形づくられた日韓の法的枠組みそのものを司法が問題にしたと考えられる。
日本からすれば、「ちゃぶ台返し」である。
他方、5年間審理が行われなかったのは、おそらく朴槿恵(パク・クネ)政権下で改善し始めた日韓関係への影響に配慮(政府から求められた可能性も)したものと推測される。
しかし、その後の「ろうそく革命」による朴大統領の弾劾、文在寅政権の誕生(17年5月)によって状況が変わった。
とくに歴史問題に対して原則的な立場を採る文在寅政権下で、慰安婦問題に関する日韓合意を再検証する作業が進められたことにより、大法院は日韓関係への影響に配慮する必要がなくなったと考えられる。
日韓経済関係に及ぶ3つの影響
今回の判決を受けて、今後相次いで同様の訴訟が起こされることが予想される。
日本企業が賠償に応じなければ、韓国内の資産を差し押さえられる可能性がある(その場合、日本企業が国際的な仲裁措置を求める可能性も)。
他方、韓国政府も難しい対応を迫られる。
判決後、韓国政府は司法の判断を尊重しつつも、日韓関係に否定的な影響を及ぼすことがないように取り組むと表明したが、どのような具体策を出してくるかは現時点では不明である。
日本政府はそれをみて、今後の対応を決定することになる。国際司法裁判所への提訴を含めて厳しい姿勢で臨むことも予想される。
今回の判決は今後の日韓関係、とくに経済関係にどのような影響を及ぼすのであろうか。この点に関しては、以下の3点を指摘したい。
第1は、日韓の企業間関係への影響は限定的にとどまることである。
日本と韓国の企業がサプライチェーンで結びついている。
日本企業は韓国企業に対して、高品質な素材、基幹部品、製造装置を供給している。
東レが韓国で炭素繊維を生産しているのは、生産コストの低さもあるが、グローバルな事業活動を行っている韓国企業が顧客として存在していることが大きい。
また韓国企業も、半導体や鉄鋼製品、自動車部品を日本企業に供給している。
こうしたサプライチェーンは日韓の枠を超えて、世界に広がっている。日韓企業は長年の取引を通じて信頼関係を築いているため、今回の判決がこの点でマイナスの影響を及ぼすことはないだろう。
第2は、韓国経済にマイナスの影響が及ぶことである。
まず、日本企業による投資が減少する。
訴訟対象になる企業を中心に、韓国での投資計画の先送りや新規投資の見送りが生じるほか、韓国の法的安定性への信頼低下により、日本から韓国への新規投資が減少する可能性がある。
日本からの投資は近年、素材、部品、研究開発分野に広がっており、韓国の産業高度化に寄与しているため、日本企業による投資減少の影響は大きい。
つぎに、観光への影響である。
判決後、日本企業の韓国からの撤退、韓国との断交を求める投稿がネット上で増え始めた。
日本国内で「嫌韓ムード」が広がれば、日本から韓国への観光客数が減少する可能性がある。
中国からの観光客が本格的に回復していない状況下で、日本人観光客が減少すれば、韓国の観光業界には大きな痛手となる。
ちなみに、日本の訪韓者数は今年に入り増加基調で推移し、1~9月は前年比21.9%増であった。
韓国ツートラック戦略に危機
第3は、日韓の政府間協力の動きが停滞することである。
文在寅政権発足後、慰安婦問題に関する日韓合意(15年12月)が「白紙化」されたのに続き、
今回の判決が出たことにより、日本政府の韓国政府に対する信頼は著しく低下したと考えられる。
今後関係が悪化すれば、各分野における政府間協力の動きが停滞するのは避けられないだろう。
米国の保護主義の強まりや利上げなどを背景に、新興国では資金流出が始まった。
韓国でも、日本との間で通貨スワップ協定を再締結して、セーフティネットを強化すべきとの意見が出ているが、その実現が遠のくことになる。
さらに、政府間関係の悪化は民間レベルの交流にも少なからぬ影響を及ぼすであろう。
文在寅政権は歴史認識問題に関して原則的な立場を採る一方、「ツートラック戦略」に基づいて、日本との間で経済協力(第4次産業革命での連携や人材交流など)を進める方針であるが、それが難しくなる。
韓国経済に及ぶマイナスの影響は、おそらく韓国政府が想定している以上のものとなる。
このような事態に陥ることを避けるためにも、韓国政府には従来の政府見解に基づいて、政府が事実上個人の賠償に応じるなど、日本企業に実害が及ばない策を講じることが求められる。
向山 英彦(むこうやま・ひでひこ)
日本総研 調査部 上席主任研究員
中央大学法学研究課博士後期過程中退。 ニューヨーク大学で修士号取得。 専門は、韓国経済分析、アジアのマクロ経済動向分析、アジアの経済統合、アジアの中小企業振興。
向山英彦
2018年11月2日(金)
韓国大法院(最高裁)は10月30日、韓国の元徴用工4人が新日本製鉄(現・新日鉄住金)を相手に起こした損害賠償請求訴訟の再上告審で、4人にそれぞれ1億ウォン(約1000万円)を賠償するように命じる判決を確定した。
判決後、新日鉄住金と日本政府はこの問題は65年の「日韓請求権ならびに経済協力協定」(略称)で解決済みであり、本判決は極めて遺憾であるとのコメントを表明した。
今後の韓国政府の対応次第では、日韓関係に深刻な影響を及ぼす可能性がある。
盧武鉉政権の見解を覆す
日本政府・企業にとって衝撃的な判決となった。というのは、「日韓請求権並びに経済協力協定」の規定に反するだけでなく、従来の韓国政府の見解とも異なるからである。
65年に、日本と韓国との間で「日韓基本条約」(略称)、「日韓請求権並びに経済協力協定」などが締結され、国交が正常化した。
正常化のネックとなっていた請求権問題については、日本が韓国に経済協力することで「政治的決着」が図られた。
この背景に、当時の朴正煕(パク・チョンヒ)政権側に、日本から資金供与を受けて経済建設を推進したかったことがある。
具体的な内容をみると、
同協定の第1条で、日本が韓国に対して、3億ドルの無償供与、2億ドルの低利融資、3億ドルの商業借款を供与すること、
第2条で、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、…(中略)…完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と規定された。
日本政府はこの規定を拠り所に、個人の請求権問題は「解決済み」との立場をとっている。
同様に、韓国政府もこの協定で解決ずみとの見解を示してきた。
盧武鉉政権(ノ・ムヒョン、文在寅=ムン・ジェイン=大統領は当時秘書室長)も、日本政府が同協定に基づき供与した無償3億ドルのなかに請求権問題を解決する資金が含まれているとの見解を示した。
今回の裁判でも、一審、二審は基本的に政府と同様の見解を示したが、12年5月に大法院が個人の請求権は消滅していないとの判断を示して、二審判決を破棄した。
13年7月の差し戻し控訴審で高裁は、新日鉄住金に対して1人当たり1億ウォンの支払いを命じる判決を下した。
新日鉄住金はこれを不服として上告。この後、5年間審理が行われなかった。
そして10月30日、大法院が新日鉄住金の上告を棄却し、判決が確定した。
大法院の見解の変化と5年間の空白の理由
今回の一連の動きには、二つの疑問が浮かぶ。
一つは、大法院の見解が12年になぜ変わったのか、もう一つは、上告審で5年間審理が行われなかった理由は何かである。
大法院の見解が変わった背景に、国民による過去の問題に対する問い直しがあったと考えられる。
韓国では80年代後半に民主化が進み、情報公開を求める動きが広がるなかで、過去の日韓会談関連の外交文書が公開されるようになった。
これを機に、過去の政府が不問にした問題に対する問い直しが始まり、いわゆる慰安婦問題や徴用工問題が再浮上した。
こうした世論に押されるかのように、65年に形づくられた日韓の法的枠組みそのものを司法が問題にしたと考えられる。
日本からすれば、「ちゃぶ台返し」である。
他方、5年間審理が行われなかったのは、おそらく朴槿恵(パク・クネ)政権下で改善し始めた日韓関係への影響に配慮(政府から求められた可能性も)したものと推測される。
しかし、その後の「ろうそく革命」による朴大統領の弾劾、文在寅政権の誕生(17年5月)によって状況が変わった。
とくに歴史問題に対して原則的な立場を採る文在寅政権下で、慰安婦問題に関する日韓合意を再検証する作業が進められたことにより、大法院は日韓関係への影響に配慮する必要がなくなったと考えられる。
日韓経済関係に及ぶ3つの影響
今回の判決を受けて、今後相次いで同様の訴訟が起こされることが予想される。
日本企業が賠償に応じなければ、韓国内の資産を差し押さえられる可能性がある(その場合、日本企業が国際的な仲裁措置を求める可能性も)。
他方、韓国政府も難しい対応を迫られる。
判決後、韓国政府は司法の判断を尊重しつつも、日韓関係に否定的な影響を及ぼすことがないように取り組むと表明したが、どのような具体策を出してくるかは現時点では不明である。
日本政府はそれをみて、今後の対応を決定することになる。国際司法裁判所への提訴を含めて厳しい姿勢で臨むことも予想される。
今回の判決は今後の日韓関係、とくに経済関係にどのような影響を及ぼすのであろうか。この点に関しては、以下の3点を指摘したい。
第1は、日韓の企業間関係への影響は限定的にとどまることである。
日本と韓国の企業がサプライチェーンで結びついている。
日本企業は韓国企業に対して、高品質な素材、基幹部品、製造装置を供給している。
東レが韓国で炭素繊維を生産しているのは、生産コストの低さもあるが、グローバルな事業活動を行っている韓国企業が顧客として存在していることが大きい。
また韓国企業も、半導体や鉄鋼製品、自動車部品を日本企業に供給している。
こうしたサプライチェーンは日韓の枠を超えて、世界に広がっている。日韓企業は長年の取引を通じて信頼関係を築いているため、今回の判決がこの点でマイナスの影響を及ぼすことはないだろう。
第2は、韓国経済にマイナスの影響が及ぶことである。
まず、日本企業による投資が減少する。
訴訟対象になる企業を中心に、韓国での投資計画の先送りや新規投資の見送りが生じるほか、韓国の法的安定性への信頼低下により、日本から韓国への新規投資が減少する可能性がある。
日本からの投資は近年、素材、部品、研究開発分野に広がっており、韓国の産業高度化に寄与しているため、日本企業による投資減少の影響は大きい。
つぎに、観光への影響である。
判決後、日本企業の韓国からの撤退、韓国との断交を求める投稿がネット上で増え始めた。
日本国内で「嫌韓ムード」が広がれば、日本から韓国への観光客数が減少する可能性がある。
中国からの観光客が本格的に回復していない状況下で、日本人観光客が減少すれば、韓国の観光業界には大きな痛手となる。
ちなみに、日本の訪韓者数は今年に入り増加基調で推移し、1~9月は前年比21.9%増であった。
韓国ツートラック戦略に危機
第3は、日韓の政府間協力の動きが停滞することである。
文在寅政権発足後、慰安婦問題に関する日韓合意(15年12月)が「白紙化」されたのに続き、
今回の判決が出たことにより、日本政府の韓国政府に対する信頼は著しく低下したと考えられる。
今後関係が悪化すれば、各分野における政府間協力の動きが停滞するのは避けられないだろう。
米国の保護主義の強まりや利上げなどを背景に、新興国では資金流出が始まった。
韓国でも、日本との間で通貨スワップ協定を再締結して、セーフティネットを強化すべきとの意見が出ているが、その実現が遠のくことになる。
さらに、政府間関係の悪化は民間レベルの交流にも少なからぬ影響を及ぼすであろう。
文在寅政権は歴史認識問題に関して原則的な立場を採る一方、「ツートラック戦略」に基づいて、日本との間で経済協力(第4次産業革命での連携や人材交流など)を進める方針であるが、それが難しくなる。
韓国経済に及ぶマイナスの影響は、おそらく韓国政府が想定している以上のものとなる。
このような事態に陥ることを避けるためにも、韓国政府には従来の政府見解に基づいて、政府が事実上個人の賠償に応じるなど、日本企業に実害が及ばない策を講じることが求められる。
向山 英彦(むこうやま・ひでひこ)
日本総研 調査部 上席主任研究員
中央大学法学研究課博士後期過程中退。 ニューヨーク大学で修士号取得。 専門は、韓国経済分析、アジアのマクロ経済動向分析、アジアの経済統合、アジアの中小企業振興。