「弧忠悲しき朴鉄柱」
-日本を愛しぬいた一韓国人-
中村 武彦
朴鉄柱君がはじめて我が家に現はれたのは昭和十九年の秋であった。
前年秋の東条大獄に坐してゐた私はこの年五月に釈放され、その夏、目黒の中根町に小さな巣を作っていたが、其処へ或る朝突然見知らぬ白面の青年が訪ねて来て、「新井清資」と名乗り、「しかし朝鮮人です」とことわって、どうか此の御宅に置いて下さいと云うのである。
上野宗広とか有賀茂とか私の懐かしい友人の名を挙げて、その縁で中村のことはよく知っていると云い、「維新公論」や「まことむすび」(東條内閣に潰されてしまったがともに私共の機関誌)も読んで共鳴している、自分も維新運動に参加したいから此処に置いてくれという単刀直入の話である。
いきなりそんなことを言はれても困る、御覧の通りの小さな家で、此処にはもう四人ゐて満員だ、君の居る所はないよと云ってことわったけれども動じない。
丁度昼になったから飯を食はせてから追拂おうと思ったら、逆に一緒に食事して
ゐる問に情が移ってしまって、その礼儀正しさや懸命の真面目さに、私よりも、後に私の妻になる同居中の石田統子という女性が感心してしまい、暫く置いて様子を見たらなどと言い出すものだから、私も気乗りはしないけれど、よきには
からへということになってしまった。
なかなかの好男子。数えて二十二才。本名は朴鉄柱。
名は体を表はす、朴訥で一本気という印象であったが、段々話してみると国史や神道をよく勉強しているし、日本語は極めて明晰で朝鮮人とは思えない。
加うるに字がうまい。字の下手糞な私はそれだけでも脱帽してしまい、親近感を持ち、素性も前歴も何もきかないで家族の一員に加えた。
朝鮮人(当時はそう呼んだ)という違和感は全くなかった。
当時私の側には、秘書のつもりでいる石田統子と、書生を以て任じている福田博治という少年と、私の叔母にあたる田芙瑳子女史が一緒に暮らしていたが、新入りの新井清資は誰ともすぐ仲良くなり、こまめによく働いた。
飯田叔母は谷田糸子と称して優れた俳人で、風雅を楽しむ一面、神経質でなかなかつきあい難い女性だったが、清資の誠実で律義なところがひどく気に入ってくれたようであった。
石田統子とも姉弟のように睦じくなった。
たヾ福田少年は、一種のジェラシーと云うか、妙に清資を邪魔者にするのが私にも感じられるので、問題の起きないうちにと思って、先輩の片岡駿さんに引取ってもらった。
そのような処置は当然福田からは恨まれ、後日その恨みを思い知らされるのであるが、新井からはひどく感謝され、何事であれ一所懸命に尽してくれること涙ぐましいものであった。
当時、戦争は日に日に悪化し、空襲もだんだん頻度を増し、このまゝでは敗戦必死と思はれ、敵前維新断行の策を我々も必死で模索していたが、その運動の主体として、同志諸団体の中の精鋭を超党派的に結集していた「八ノ日会」を「尊攘同志会」と改めて結成奉告を鹿島神宮で行ったのは、清資が飛込んで来て間もない頃であった。
清資はその中央事務局で、取敢えず奉勅尽忠宣誓、次いで維新奉行要請の署名調印運動の仕事を中心に、全国各地との連絡に当ったり、機関紙の編集を手伝ったりして忙しく働き、また家に帰ると石田統子を助けて家事手伝いに精出し、十日に一回はリュックを背負って千葉茨城の農村に芋の買出しに出かけたりして、実によく働いてくれた。
尊攘同志会の諸君は、後に愛宕山で自決した面々であるが、彼が朝鮮人であることをいささかも気にせず、むしろそれ故にこそ余計彼と親しくして、機密にわたる仕事も躊いなく彼に托したりした。彼は尊攘同志会になくてはならぬ大事な同志となった。
清資が頬を涙で濡らしながら語るところを聴けば、彼は富裕なる両班の家に育ち、経済的には何の苦労もなく幼少年時代を過ごしたが、精神的には、子供心にも狂はんばかりの苦悩を重ねたという。
それは、父親がまことに頑冥なる韓国保守主義者であり、別に思想的根拠はないが、上流階級意識から来る極端なる日本嫌いであって、衣食住みな韓国の風習を守り、子供たちが日本語を喋ったり書いたりするのが嫌でたまらず、ましてや日本を賞めたりすると色を作して怒こった。
家族たちは皆それに従い、家にはおのずから反日の空気が充満していた。
然るにひとり朴鉄柱は、どうしても日本をそのように侮ったり憎んだり出来なかった。
読書好きで、殊に歴史をいろいろ学べば学ぶほど日本に傾倒した。日韓併合は残念だったけれど、そこに至る李朝五〇〇年の歴史と当時の国際環境を考えると、日本が韓国に対して行った内政干渉は、やむを得ないと思はれたし、独立保全の善意を認めずにおれない。
清国やロシアの属領になるより日本と合邦した方が韓国民にとって幸福だったことは客観的に見て否定できない。
日本の歴史や文化をよく見ると、韓国の方が立派だとは思えないし、李王朝の素性の怪しさとその官僚政治の腐敗、虐政の跡を見ると、どうしても日本の皇室の高貴さに頭を下げざるを得ない。
たしかにそれは世界に比類のないものであり、万邦に冠絶したものだ。
其処から生れた道徳や哲学宗教も、素朴単純ではあるが人為の作り物でなくて自然だから貴く感じる。儒教の倫理にはないあたたかさがある。
朝鮮総督府の強圧政治には堪え難いものがあるのは事実で、内地人が朝鮮人を蔑視する心情や態度にも勿論腹が立つ。自分も憤然として起上がる気慨は決して失っていないけれども、英国のインド統治に比べれば問題ではない。
第一、そんな冷酷な植民地政策は天皇陛下の御恩召しに反している。
日本の心ない役人や商人たちのすることは、西郷隆盛や日韓合邦を推進した先輩たちの志に背くものであることが、だんだんわかって来た。
だから私は朝鮮独立運動にくみしない。むしろ皇国民として同化したい熱望を持ち、政治的には内地各県と同じ完全な自治権を求めてやまない。
私は名前を変えて新井清資と名乗っているが、天皇の臣民になりたい、日本人になり切りたい自発的な改名であって、強制されたものでも迎合したものでもない。
朝鮮皇国化の魁として私は先ず徹底して忠誠なる臣民になりたい、そして日本が本当に天皇の御国となり、朝鮮の同胞も喜んで天皇にお仕えし、本当の幸福を得られるようにするために、
日本の維新に身を捧げたい。私は朝鮮の家族や同胞の間では非国民です。売国奴です。
それでよいのです。
理解してさいますか―と云うのである。
私は心うたれ、眼をつぶって頷く外なかった。この男の胸の底に燃えている天皇陛下を慕ふ気持は、私どもの恋闕のいよりももっと切なく強いものがあることを感じないでいられなかった。
十九年の年の暮、私はいろいろの曲折を経て石田統子を妻とすることにきめた。
結婚式も披露宴もない、ただ松蔭神社へお詣りして御神前で勝手に奉告の祭文を読み上げただけであったが、その日、たまたま来合せた五、六人の苦い同志がついて来て祝福してくれた。
清資は二人の様子を間近くずっと見てきて、そうなることを期待していたので、松蔭神社にもー緒に来て、大いに喜んでくれた。統子は清資より一年齢上。彼はお姉さんと呼んで親しくしていた。
その頃、私の引掛っている裁判の一つが大審院の最終判決で先ず懲役刑三年と確定し、二十年の正月早々執行されることになった。
しかし、今この大事な時に投獄されてはたまらんので、三河島の永野病院に逃げ込んだ。
お蔭で執行延期は許されたが、入院患者としてジッとしていなければならない。警察の監視はきびしい。
そこで私に代っていろいろな仕事を妻や清資にやってもらう外ない。二人とも実によくやってくれたし、それによって彼ら自身も目に見えて鍛え
られ、成長した。
空襲警報の鳴らぬ日はない状態になり、尊攘同士会の活動も陰に陽に激しくなり、私も病院から抜け出して行動することも多くなり、一日一日が緊張の連続であったが、四月には病院が焼け、五月には中央事務局が焼けて、私は家に帰り、事務局も我が家に移した。
警察や検事局の目の光っていることはわかっているが、仕方がない。
運動も制約され、生活も極度に窮迫して来た。
その中で、清資が自分のひもじいのを我慢して、私に少しでも食べさせようとしてくれる心づかいがひしひしと感じられ、余計なことをするな、と云って押返しながら涙をこぼしたことが幾度あったことか。そうするとベソをかき、眼を真赤にしていた彼の顔を今でも思い出す。
前に書いたように、日本嫌いで固まった両班の家から、こんな日本人にも珍しい純情一路の尊皇の士が出て来たことは、鴉の群から鷹が育ったようなものである。
父親に反抗して家を飛出した新井清資は、国学院大学の講習を受けて神職の資格を得、全羅南道の光州神社に暫く勤務し、やがて本土に渡って下関の住吉神社に奉仕する。
その間、昭和維新運動に参加したい志が勃々として制し難く、意を決して上京し私の所へ来たと云う。
たしかに、天皇仰慕の思いも維新断行の志も口先きだけではない。
日本語が並の日本人よりも達者であるように、尊攘の精神も並々でない。私はよい弟が出来たことを喜んだが、その弟の兄に対する愛情の深さは感激せずにおれなかった。
当時私どもは、生命を賭けた非常の行動のほかに維新はできぬ、国家は救えないと信じていたから、清資も統子も、いつでも飛出せる覚悟はしていた。
清資から、一大事の時には必ず私を連れて行って下さいよと、くどいほど念をおされたことは度々であった。何かイヤな予感でもあったのか。
然るに、七月の末にポツダム宣言が発表され、これに対する宮中府中の動きにただならぬものが感じられ、バドリオ陰謀に警戒の眼をきびしくしながら先制のクーデター計画を練っていた矢先き、八月四日私は検事局に呼び出され、そのまま懲役刑執行を宣告されて中野刑務所に投げこまれた。
ウッカリ召喚に応じた不覚を悔いたがどうにもならない。
後に検事総長になられた弁護士花井忠先生が、焼跡の道を走って中根町の妻に知らせ、中野刑務所の門前に連れて来ていただき、帰期定め難い別離をしたのであるが、清資はこの時家に居なかったため、私と別れが出来なかった。
あとで地団駄踏んで口惜しがったそうだが、爾来二十年、お互いに顔を見ることが出来なかったのである。
私が投獄されて十日後、敗戦降伏の日を迎えた。私は鉄窓にすがって慟哭する外なかったが、尊攘同志会の緒君は、和平降伏陰謀の中心と目される木戸内大臣の邸を襲撃した。
しかし本人は宮中にゐてつかまらない。
転じて愛宕山に籠り、「尊攘義軍」の旗をひるがえして抗戦継続を図ったが、大勢奈何ともなし難く、遂に八月二十二日、十名全員
自決して国難に殉じた。二夫人また二十七日その後を逐った。
この尊攘義軍の蹶起、籠城、自決は清資に連絡なく行なはれた。
逃げた訳ではないし、故意に除外された訳でもあるまい。
交通も通信もままならぬ大混乱の中ではやむを得なかったと思はれる。
挺身蹶起の覚悟は誰にも劣らなかった筈の新井清資が愛宕山の十一人目の烈士になれなかったのは仕方のない運命であった。
清資はその辺の事情を語らず、私も敢て訊こうともしなかったが、図らずも後日、彼がその頃、鎌倉の天野辰夫先生の邸にお伺いした時、玄関で天野先生から刃を突きつけられスパイ呼ばはりの面罵をうけて追返されたという話を妻から聴き、また彼自身から聴いた。常識では考えられぬことであるが、清資にとってこれが死ぬより辛い恥辱であったことは当然である。「実はこんなことがありました」と涙を流しながら語るのをきいて私も意外に思うとともに、彼の口惜しさに同感して涙がとまらなかった。
敗戦のどさくさの中で先生の虫の居どころが悪かったのであろうが、考えられることは、中村が投獄されたのに居合はさずして何も出来ず、同志がみな自決して死んだというのにボヤボヤしている。
何事だという怒りと疑念であったのであろう。
御もっともではあるが、先生を心から尊敬していたこの男、日本人以上に日本人らしい誠実な男を、朝鮮人なるが故にスパイ扱いされるとは、先生とも思えぬ悲しい放言である。
私が馬山の彼を病床に見舞った時も、泣きながらこの話を持ち出したので「あれは先生が絶対に悪い。先生もわかっていたと思うが、俺は勿論君を信じて疑はない。しかしもうそんな無念は忘れてしまいなさい」と言うと淋しそうに微笑していた。
清資の心に生涯消えることのない怒りと怨みを残したこの事件は、私にとっても心平らかにすませることではなかった。妻の統子もこの時ばかりは清資の肩を抱いて一緒に泣いたという。
年が改まって二十一年、中野刑務所から小菅刑帯所へ移されていた私は、確か四月頃、西内雅先生の面会を受けた。先生は終戦当時陸軍省の要職にあり、畑中少佐など維新派の将校も頼りにしていた存在である。清資は私の使いで先生に度々会っていた。
その清資が昨年末韓国へ帰る途中、下関から、私は韓国で維新運動を続けます、その旨中村へ知らせて頂きたいと言って来たとのことで、先生はそのことを伝えるためにわざわざ刑務所へ来訪されたのであった。
私はその志を見事だと思い感動した。
日本で維新運動は潰滅してしまった、この時期に、一人の韓国人が初一念を変えず、昭和維新の運動を韓国へ帰ってなお続けると云うのである。
ドンキホーテと思われるだろう。そのドンキホーテが今無上に貴いのだ。
よくぞ言ってくれた清資よ。愛宕山の諸士がどんなに喜ぶことか。日本の残った同志もしっかりしてくれ。
古き日本とともに新井清資は死んだ。
生れ変った朴鉄柱よ、神州の正気を鶏林八道で発揮してくれよと、私は獄中から呼びかけ
た。
朝鮮半島は三十八度線で分割され、新井清資、今は本名に戻って朴鉄柱は、大韓民国の国民としてソウルに住んだ。
どうしているか。獄中の私にわかる術もなく、二十三年に出獄してからも消息は聞けなかった。
激しい反日政策を強行している李承晩政権の下ではとても朴鉄柱の考える維新運動など出来る筈はない、是非もないことだが、ともかく元気でいてくれと祈った。
二十四年の末だったと思う。
私が二階を借りて住んでいた雑司ケ谷の家に、或る夜突然六尺豊かな壮漢が疲れ果てた様子で尋ねて来た。
朴鉄柱の甥で朴球栄と名乗った。
密航して九州に着いたが、途中で連れの半分は殺された、生命からがら上陸し漸く東京へ来たという。
紹介状など危険だから携帯せず、証拠にこれを持って行けと言はれたと言って差出した写真を見ると、懐しや紛れもない清資である。
話を聞いてみると私のことをよく知っており、疑う余地もないので暫く居候にしておいたが、叔父の鉄柱の時と違って部屋はずっと狭いし、甥の球栄は大男でよく食べる。
配給ではとてもやりくり出来ないので、三上卓さんに相談して、その門下生が営んでいる所沢の農場で働くことになった。
この朴球栄の話で、朴鉄柱がソウルで日本文化研究所を作り、若い学生を指導していること、明治天皇とか西郷隆盛、頭山満とかいう名前をよく言っていること、政府からは極端な親日分子として睨まれ、警察がうるさくて研究所の経営に苦労していること、まだ独身でいることなどわかった。
正に日本を去る時の誓言の通りである。まずは安堵し、感服したが、今の状態では連絡もとれない。
その内、三上さんの関係で密貿船を韓国に向けて出すことになり、これも三上さんの維新工作の一環であったが、朴球栄もその道案内を兼ねて乗船した。
しかし玄海灘で捕まって船は没収され、朴たちは下関の水上署に暫く拘置され、放免後は大阪の居留民団に就職した。
翌年、朝鮮動乱勃発。朴球栄は義勇兵に志願して戦火の祖国へ帰って行ったまではわかっているが、そのあとは何何だか滅茶々々な動乱の渦中で、朴鉄柱も朴球栄もその消息は沓として知れなかった。
その内、ようやく朝鮮戦争は休戦となり、日本では講話条約も調印され、私共を縛っていた追放令も解除されて、何となく明るく私どもの周辺も賑やかになって来た。
その頃、風の便りで、朴鉄柱が難を免れてソウルで再起を図っているという情報が入り、愁眉を開いていると、しばらくして本人からの手紙が届いて健在が確認され、お互いに通信できるようになった。
一刻も早く日本へ行きたい、会いたいと言いながら、李承晩治下では渡航許可は下りない。
李承晩が追放され、張勉を経て朴正熈へ政権が移ったのは三十六年、日韓基本条約が調印されたのは四十年六月。
朴鉄柱にとっても風向きが変り、きびしい看視を受けながらも或程度は自由に動けるようになった。
そして、晴れて日本へやって来たのは昭和四十年の春であった。
彼にとって二十年ぶりに踏む日本の土であり、内心に於てはこれこそが待ちに待った本当の「帰国」であり「帰郷」であったに違いない。
朴鉄柱を羽田に出迎えたのは夕闇迫る頃であった。
彼を見て妻は思わず涙声で「清資さん」と呼びかけ、走り寄って固く手を握った。
彼は顔をクシャクシャにして泣くばかりで言葉が出なかった。日本語を忘れたのかと思った。
私は努めて冷静に振舞い、さァ家へ帰ろうと云うと、彼は首を振って、先ず皇居へお参りしたい、それから明治神宮と靖国神社へお詣りしてから行きますと云う。
もう遅いから明朝でもよいではないかと言っても頑としてきかない。
そこでしかし一度家へ行ってミソギをしてから出直すのが作法ではないかな、汗のままでは失礼だよと云うと、この苦しまぎれの論法を生真面目な彼は真剣に受けとめて、成程ではそうしましょうと承知してくれた。
然し何か、天皇陛下に御挨拶もしないうちに一杯飲むということが申訳ないという不安と不満の表情が消えていない。
韓国生活二十年、新井清資はチッとも変っていないのである。
我が家へ連れて帰ると、子供たちが親戚の叔父さんが来たように歓迎するのを、目を細めて喜んだ。
そして久しぶりの日本料理と日本酒に舌鼓うちながら話は尽きなかった。
翌朝イソイソと皇居詣でに出かけてから一ヶ月ばかり後に韓国へ帰って行くまで一緒に暮らして、まことに楽しかったが、辟易したのはその凡帳面さ、礼儀正しさである。
朝晩神拝を怠らず、私の祝詞や献饌の作法の間違いを指摘する。有難いけれどもうるさいのである。
彼が相好を崩して世にも幸福な男に見えるのは酒を飲む時である。
斗酒なお辞せず、決して崩れない底知れぬ酒豪であった。
ソウルの酒呑みコンクールで二等賞をとった時の話は生真面目な顔で話すだけに余計おかしくて、我々を抱腹絶倒させた。
彼は戦前の旧知の同志先輩を片っ端から尋ねて歩くとともに、私の紹介するいろんな人に会い、またいろいろな団体やグループの勉強会に招かれた。
生長の家でも国民文化研究会でも黒龍倶楽部でも国民総連合でも何処へ行っても、日本は神国ではないか、日本人よシッカリしてくれという彼の訴えは聴く者の魂を揺さぶった。
明治天皇の大御心 西郷南州、頭山満の精神を忘れては、日本も韓国もアジアも将来の望みはありませんという彼の言葉は天啓のように響いた。
それは韓国で、李承晩の徹底した反日政策の下に於てさえ、彼がひるむことなく堂々と説き続けた不動の信念なのである。
韓国人にして日本をこんなによく知り、こんなに深く愛している者のいることに驚き、自分たちさえ忘れがちの八紘一宇の精神や昭和維新の夢が、この韓国人の内部に燃えつづけていることに、誰しも感動せずにおれなかったのである
葦津珍彦先生の御伴をして韓国に出かけたのは昭和四十一年の春であった。
いま箱根神社の宮司をしている浜田進君も一緒だったが、朴君はこの上なく喜んでその家に私ども三人を泊め、三食を供し、案内役に司会役に走り廻った。住宅は中流の下というところか。
ホテルと違って清潔でも便利でもなく、狭くて、特にトイレは閉口した。
いささか有難迷惑の面もあったが、朴君の方では最高のもてなしのつもりで一所懸命に気を配っていじらしいばかりである。
葦津先生は不便なことなど気にもかけず、その好意だけ受け入れて満足しておられる。
そして専ら韓国の現実をよく見たいという興味と、学生インテリと話合い彼らの思想、心理の本当の所を知りたいという関心に終始された。
朴君が連れて来る大学教授や学生たちも日本を知りたい真摯な気持と相当な予備知識を持っており、それに答えて葦津先生の御話は実に懇切で、陪座する私どもも目の醒める思いがした。朴君の感激ぶりは見ていて心あたたまるものがあった。
それについては「アジアに架ける橋」に所載の先生自ら書かれた「韓国の学生と語る」に詳しい。私もこの時の印象を同じ本に書いている。
朴君の葦津先生に対する尊敬はこの時から更に限り無く深まって最後まで変わらなかった。
先生も彼を「鶏林第一等の人物」として推奨されたし、彼から努めて韓国のなまの情報をきき、その判断を重視された。
しかし、朴君が礼賛してやまぬ日本の国體は残念ながら日本本国によって否定され、天皇も神道も朴鉄柱の幻想の中にしか存在しないような今日、朴君の親日的主張が熱烈であればあるほど現実との食違いは大きくなり、韓国政府や同胞から反撃され、遂に
は売国奴視される悲劇を免れないであろうことを心配された。
そのことは朴君自身にもよくわかっていて寂しい苦笑を洩らすのであったが、まるで意地を張るかのように、敢て自分度を改めようとしなかった。
ソウルに行ってみて、朴君の日本文化研究所には少数ながら優秀な学生やOBが集まり、現代韓国では特異な存在に違いないことはわかったが、その純粋で生一本な行き方は政府の弾圧を故意に呼びこむようなものであるし、一般同胞の支持も得難いのではないかと思はれた。
第一、これでは経済的に自らその基盤を狭くして、将来が危ぶまれ。
明治天皇の大御心を仰ぎ、西郷南州、頭山満の精神を以てしなければ韓国は自立できない、アジアは救はれないという大胆な主張は、その勇気には敬服するけれども、
日本でも通り難いことを韓国の国民に向ってオブラートにも包まないで押しつけることは、少数異端の道を自ら選んだものであり、自分の国の政府の反日政策を忌憚なく批判するからには、やはり迫害されとも仕方がないではないか。
事務所の壁間に私が後に呈した下手糞な二十年ぶり邂逅の感激の歌が表装されて麗々しく飾ってあったが、あれを取外して大統領か誰かの写真にでも取替えなさい、そうすれば日本文化研究所も安定すると私は言ったがきかない。
これが韓国へ引揚げる時、日本の同志に誓った公約の実行だとばかり胸を張っている朴君の姿を立派だと褒めるだけでは、私どもが無責任であり、友情を欠くと思はずにおれなかった。
しかし朴君は無理を承知で押し進め、やがて日本文化研究所は解散となる。
バカバカしい話だが反共取締法の適用で追及され、経済的に締め上げられて、個人的な動きもままならなくなるのである。
朴君を知る者は誰もその点を心配し、それぞれ忠告してくれたと思うが、最も親切で且つ痛烈だったのは、五・一五事件の先輩、林正義氏であった。
拙宅の近所に住んでおられ、よくお互い往来したので、私は朴君をこの尊敬する大先輩の所へ連れて行き、度々御馳走になった。
酒豪同志の飲みっぷりは壮観であったが、酔に托して林さんが、禅問答のように飄々としかも峻烈に朴鉄柱に与える教戒には、朴君が頭を下げる前に私の頭が自然に垂れた。
――コラ朴鉄柱、お前は韓国人か日本人か。超越しとるなどと生意気なことをぬかすな。
日本人たちの好意は有難うが、それに甘えるのは好加減にせえ。
どんなに日本が好きでも、お前は韓国人に対して日本人のような顔をするなよ。
お前は徹頭徹尾韓国人だ。
日本文化研究所の看板はずして先ず韓国文化研究所の看板出せ、順序を間遠えるな。
先ず韓国の愛国者となって、死ぬほど韓国を愛してから、日本を愛し、日本を語れ。
いくらお前が尊皇を説いても、国籍のハッキリせぬ奴の説教に誰が魂を打たれるか。
一ペん日本を否定しろ、天皇陛下を捨てろ、それから後にお前の説く尊皇論に俺は耳を傾けよう――という訳である。
林さんは決して偏狭な民族主義者ではない。
林さんこそ血液も国籍も眼中にない天地人一如の大自然に悠々と生きている人である。
しかも尊皇絶対の人であり、私に「至忠忘忠」の書を形身に書き残してくれた人である。
理屈ではない、説教ではない親切な端的な一言一言が弾丸のように朴鉄柱の胸にうちこまれるのを、私は瞑目して盃をなめながら聴いた。
朴君は悲しい顔をしてうなづいている。確かに朴は朝鮮人であることをヌキにして日本人であることは出来ない。
「韓国を愛す、されど日本も」で、その逆であってはいけないことはよく私とも語り合っている。
それはよくわかっているのだが、日本統治下の韓国で日本を憧れ天皇に恋慕し、日本人以上に日本を愛する韓国出身日本人になってしまった。自
分一人の満足や歓びでなく、同胞すべてに同じ感激と幸福を頒ちたいと念願して来た。
大日本帝国の崩壊がその念願空しいものにしてしまった。
しかし、日本を憎み天皇を罵ることを国の方針とした独立韓国に帰っても、その信念を変えることは出来なかった。
韓国人の魂を売った奴と云はれ迫害されてもたじろがなかった。悲壮な反抗が朴を支えていた。
林さんが心配し忠告されることはその通りである。うなだれ、うなづきながら、有難うございますと涙をこぼしながら、「それでも私は」と胸の底で叫んでいる朴鉄柱の朴直一徹の信念、これはどうしようもないことであった。
林さんにもそれはよく分かっていた。
「俺は常識論をくだくだ言っただけよ」と後で苦笑して、
「しかしあいつは偉い奴だ」「
あいつは可愛い奴だ」と林さんが語る時、その目はうるんでいた。
先ず経済的基盤の自立安定を図らなければ思想運動も文化運動もないことを痛感して、暫く実業に専念することになったが、これがまた絵に描いたような武士の商法。
金儲けするのだったら一応は捨ててかからなければならぬ見栄や羞恥や正義感やサムライの倫理にこだわって商人になり切れない。
義理人情が強すぎる。人を疑うことを知らぬから赤ん坊のように簡単に騙され、それに懲りずにまた同じ奴に騙される。
日韓維新の資金作りどころか、多少親から譲られて持っていた土地も田畑も家も金も、同じ韓国の人間に巧みに欺かれ奪はれて、丸裸にされて借金ばかり増えた
のである。
一度、私はその依頼に応じて先輩や友人の力を借り、朝日読売日経などの一流記者を帝国ホテルに招いて、韓国政府のさる高官を囲む懇談会を催したことがある。
朴君が斡旋し司会する形をとり、予想以上の大成功であった。
これが韓国政府の朴君に対する評価と感情を大いに改善し、爾来、うるさかった監視も弛み行動し易くなったと喜んでいたが、しかし折角そうなっても、彼は自分の仕事のためにこの政府官僚をうまく利用する術を知らなかったようである。
何か商売の計画を持って日韓の間を往来し、その都度、私に今度こそはという夢を語り、もう苦労はかけませんよなどと言っていたが、ホテルの拂いが出来なくなったり、帰りの旅費が足りなくなったり、その人の好い笑顔泣顔を見て、実の処私はいつも悲しかった。
来るたびに商売の相手が違い、話の内容も違う。
この話は長続きするなと思って期待しても決局、実行段階で潰れてしまう。
苦しまぎれの借金も増え、しかも返すあてのない借金となり、同志友人に迷惑をかけることになって来る。
彼の思想に共鳴したり人柄を信じて無理をして助けてくれる場合が多いから、彼自身その信頼に背く結果になることを、どんなにか苦しみ悩んだことと思う。
そんなこともあって、朴君が東京へ来ても電話で挨拶するだけで会はずに帰って行くことも幾度か重なり、何をしているのかわからず、私なりに心配せずにおれなかった。
彼の善意は疑う余地もないが、善意だけで済まぬのが金銭上の問題である。彼ほどの男も、その底抜けの善意ゆえに、ずるずると蟻地獄へ落ちてゆくのを、やり切れぬ思いで傍観す
る外なかった。
朴君は若い頃から病気にかかったことがないと自慢していた。便秘症はひどかったが、もう癖になっていて十日以上出なくとも気にもせずよく飲みよく食っていた。
それが七、八年前脳出血で倒れ、幸いに後遺症は小さかったものの、再発を恐れて、あれほど好きだった洒を断ち、私が少しぐらいどうだと勧めても、盃一杯だけで、あとはジッと我博しているのが可哀相なほどであった。
それでも他から聞くと、いやそれは先輩の前では叱られると思って謹慎していたのですよ、よそでは結構飲んでいましたよという話になる。
さもありなんと思いながら、生命が惜しければ好加減にしてくれよと祈る外なかった。
それが、韓国の病院で思いもかけず肺癌という宣告を受け、急に釜山で手術するという。その時の手紙は沈痛を極めたものであったが、今手許に見つからない。
次の手紙は手術が終った直後の昭和六十二年の十月十一日付のものであるが、自分のことよりも天皇陛下の御容態を心配している。
─ 小生十月六日手術室で意識がモウロウする中で 陛下の御事を心痛いたしました。
右肺の癌コブの摘出手術も無事了へました。
意識回復後考へましたのは昭和の御代は 余りにも多事多難で、陛下の御心労いかばかりであったかを、
身も心も痛む思いがしました。
そして陛下の御平安を祈るのみです。
あとは皇祖皇宗の御霊におまかせする外ないと考へました。
先輩、小生は絶対に先輩より先にゆきません。
先輩をおたすけ申上げ、おみまもりいたします。
ガンの移転、拡散は発見されないけれども、
放射線治療と制癌物質の治療してくれとの
医師のことばに従います。
末尾ながらお見舞本当に有難う御座いました。
ねたままの手紙なので字が目茶苦茶になりました。お許し下さい。
松本先生にも何とぞ宜しく御伝声を願い上げます。 不備
一応退院したものの、通院して抗癌物質の注射を親け、これがその副作用で激しい嘔吐と疲労のために残余の体力を消耗しつくした様子で、しかもそれでも回復の望みはないらしい。
たしか、六十二年末、馬山へ行って見舞った時の感じで、どうも韓国での治療に信頼がおけないので、私は大塚和平氏と相談し、石塚民幸博士にお噸いして、日本に呼
んで治療の方法を講ずることにした。
姪という女性に付添はれ蹌踉として成田に着いた朴君の痩せ衰えた様子は正視に堪えぬものがあった。
顔面蒼白で白髪は抜け落ち、目はうつろで、舌ももつれている。
早速日野の石塚病院に緊急入院させ、応急処置をとり精密検査して貰った。
もう治る見込みのない末期症状であるが、何とか体力をつけて病状の急速な運行を止めることば出来そうである。
治療もさることながら、それにはこれまでのような、栄養を攝ると癌細胞がそれによって成長するから栄養は攝らぬがよいと云ったという韓国の医者の意見に従ったこれまでの食養方針は根本的に切替えなければならぬのではないかと思い、院長の御意見をきくと、その通りだと云はれる。
そして院長は早速実行だと云って自ら朴君を有名なステーキ屋に連れて行き、思う存分食べなさいと勧められた。
元
来肉嫌いで牛肉など箸をつけたことのない男だったが、高層ビルから飛び降りる覚悟で眼をつぶってステーキを口にした。
「どうだ、うまいか」「うまいです」「そうだろうドンドン食べなさい」という豪快な石塚院長の見事な精神療法(?)が功を奏して、一夜にして朴君の血色はよくなり、笑顔も爽やかになった。
石塚院長の侠気と親切は形容し難い。地獄で佛に逢ったような感激に浸りながら、朴君は一ケ月ばかりの病院生活送った。
たっぷり栄養を攝りながら、いろいろな投薬や治療を受け、コルセットも作り、目に見えて元気になり、声も歩調もシッカリして来て、見舞う客をおどろかせた。
このままこの療養生活を続ければよかったのであるが、韓国の用事をほっておけないと云うので、自宅療養に十分な注射薬、内服薬をドッサリ貰って韓国へ帰って行った。
そして寄越した手紙(三月三日付〕は久しぶりに見る元気な頃の几帳面なきれいな字の墨筆の書簡であり、全文次の通りである。
前略 このたびは御多用中、然かも貧乏な先輩を大変おわずらわしいたし、何と御礼を申上げて良いやらその術をません。
小生の腑甲斐無さに唯々恥入るばかりです。
土地を売りに出して早く売れるよう念じております。病気は待ってくれませんので焦燥の外ありません。
お蔭様で今食欲は増進し体重はふえつつあります。院長先生には不躾な点も多々あったと存じ、ふかく慚愧いたしております。
本当に立派な先生にお会い出来、しあわせでした。みなひとへに先輩のお蔭であったと銘心いたしております。厚く御礼申上げます。 ──
債務を整理するための土地処分を自分の手でするために無理をして帰った朴君であるが、法的手続きの煩瑣に加うに、詐欺師どもの手で弄ばれて惨怛たる苦労を重ねた。
その様子を窺はせる手紙も残っているが、どうやら私の名前までもその醜い葛藤の中で利用されたらしく、彼は、私や私の同志までがもう自分を信じてくれないのではないかと煩悶している。
「神様と正義はこんな出鱈目を許す筈はありません。たとへ先輩から破門を言い渡され、勘当されようと、玄洋商事対乗っ取られません。
どうぞ玄洋商事だけは小生におまかせ下さい。玄洋商事をあとひといき軌道にのせて、然る後小生の同志後輩にゆだねます。
先輩、小生最後のワガママをお許し下さい。」云々などと書いてあるが、私にとっては勘当の破門のと何のことか見当のつかぬ話である。
事実、いろいろ彼の土地や事業が狙はれ、悪い奴が跳梁し、危機を感ずること切実であったのであろうが、被害妄想
はないかと思はれる処もある。
末期癌の着々と進みつつある肉体を抱いて、その精神がいささか平静を欠いたとしてもやむを得ないことであった。
三ケ月ばかりして再び日本へやって来た朴君を診察した院長の話では、心身ともに疲れている以上に、糖尿病が可なり進行し、制癌の治療が難しくなっているという。
前には糖尿は問題にならなかったのにどうしたのか。
どうやら病気
の体験のない彼は、栄養を攝るなと云はれれば断食同様に食を減らし、食べろと云はれれば腹一ばい食べ過ぎる、
子供みたいな病人であったようだ。それは後に、見舞に貰った薬用酒をガブガブ飲んで体調を狂はせたというのと同じで、笑うに笑えない失敗であった。
一度は体調を持直し、体重も増え、抜けた髪がまた生え揃って来て私を羨ましがらせ、可なり歩き廻っても疲れを知らなかった朴君が、元の木阿弥になってしまったのは、決して医者の手落ちでもなければ、必ずしも本人の不覚だけでもない。
やはりそういう運命だったのであろう。
大東亜戦争の敗北に当り尊攘義軍の自決と行を倶にし得なかったのも、朝鮮動乱のさ中、屋根裏にひそんで十数日、北鮮軍の探索の手を逃れて九死に一生を得たのも、六十五年の人
生の終焉を馬山の陋巷に迎えるに到ったのも、ただ運命と云う外ない。
平成元年一月、先帝陛下崩御の直後に、重い脚をひきずって東京へやって来た。
先ず二重橋の砂利の上にひざまづいて長い間頭を上げなかった。
御大葬の日には雨の中を早朝から皇居前の堵列に加はり御見送り申上げた。
名も無き一韓国人が瀕死の身を以て氷雨に濡れながら泣いて先帝陛下にお別れしたその悲しいま心を、御神霊は必ずや御嘉納になったことであろう。
葦津先生の処へ御伺いしたのは、御大葬をお見送り申上げて、一旦帰国して、再び出直して来た時のことであった。
その時は、まだ鎌倉の海岸を歩けるだけの元気があった。
或はこれが最後になるかと思はれて、先生は海岸のホテルに部屋をとり、一夜ゆっくりと物語りされた。
死を覚悟しているのなら最後の仕事として回顧録を書きなさい。
気取る必要はない、思い出すままに書きなさい、君の心の整理になるとともに、日韓交渉史の中の一つの貴重な資料にもなると勧められた。朴君は非常に喜び、是非書きますとお答えし
た。私はその書くものの価値よりも、それを書くことが彼の精神の緊張を促すとともに安らぎをもたらし、それを書いている間は死なないという希望が持てるので、大賛成の意を表した。
残念ながらその回顧録は彼の病勢進行によって中断し、未完に終ったが、その精神の最後の燃焼として貴重な絶筆った。
五月の末、瀕死の病駆を提げて、もう一度来日した時の朴君は、消え行く灯火の最後のまたたきの明るさにも似て、下関へ行って講演したり、懐しい住吉神社へお詣りしたりして、彼の人生の終末を飾る、最後の楽しい旅だったようであるが、「疲れました。もう東京へは引返さずに帰ります」と電話して来て、そのまま帰国して行った。
これが、最後の日本への里帰りとなった。
孤忠の臣朴鉄柱は、自らがその御民として生きた昭和の御世を見送り、海を越えて、天皇の戦争責任や植民地支配の責任をうるさくあげつらう生れ故郷へ帰って、あの馬山の陋巷の狭い暗い部屋に閉じこもり、病臥して再び起たなかったのである。
私が朴君を最後に見舞ったのは、平成元年の木葉散る秋であった。
細い長い路地の一番奥にある三部屋ほどの家一室に横たわって私を迎えた彼は、見る影もなく憔悴し切って、御大葬を拝送した時の気力も既に尽き果てていた。
喜色は満面に溢れているが、か細い声はほとんど聴きとり難い。それでも必死に訴えることの意味は十分に理解できた。
これがこの世のお別れなんだ。
すべては終るのだと、腸の裂ける思いで手を握った時、その思いを敏感に感じとったのであろう朴君の握り返す力は驚くはど強く、悲しい表情は見るに忍びなかった。
何か言いたそうだ。口許に耳を寄せると、「もう一度来てください」と聴きとれた。「また来るよ、しつかりしてくれよ」と答えると彼は暫く私の顔を凝視していた
が、微笑を浮べて目を塞じた。
私は約束を守れなかった。すまぬすまぬと思っているうちに、私自身が肺炎をこじらせて動けなくなり、朴君が入っていた同じ石塚病院のベッドの上で、平成二年一月二十五日、訃報をきいた。
萬事休焉、私を見舞いに来てくれた人たちの前で、私はそのショックを隠せなかった。
私の枕許には彼の手紙の何通かが置かれていた。会いに行けない悲しさを、その手紙を読み返すことでまぎらはせていたのである。
その一通、昭和六十二年十月三日付
─ 陛下の御不例でさぞかし御心痛のことと存じます。
小生も到頭限られた命運となりました。
なすべき仕事、なさねばならぬ仕事が山積みしておりますのに。
世界万民の幸い、世界万邦の協和の為の昭和は、小生の人生の始まりであり、揺藍でもありました。
そして勤皇まことむすび、神兵隊事件公判記録によってし傾注していったのです。
小生の思想、人生観等すべては先輩におそわり形成され
影響されて今日にいたりました。
今小生は肺癌と云う、それも手術も極めて
困難な状態にあります。
医師にすがりついて手術をお願いしております。
それによって唯の六ケ月程の命の延長をも祈念しております。
その余命の続く限りを歯をくいしばって、
小生のすべてである先輩のことを筆にしたいと決心しました。
昼夜となく激しい痛みがおそいかかり、
気が散り、なかなか文章がまとまりません。
余命を燃焼させてでも仕上げたいと思っております。
然し先輩と小生のことを色々書き出そうとしても、
なかなか書けないのです。
それは小生のここ数年間の心身の疲労困憊と
世俗的労苦がわざわいしてのことかと思はれましたが、
それがそうでなく、先輩と小生が余りにも一体化してしまい、
直結してしまった関係の為だとサトりました。
でも小生は獄中で孤独苦痛にも忍耐克苦して、
さして失敗も敗北もせず孤高を維持し得たことを
先輩の御蔭だと自負しております。
唯先輩との今生のお別れのことを思ふと、
たへがたくしのびがたく、身も心もさいなまれる思いにされます。
今年は8月22日に愛宕山に先行同志のみたまに
お参り出来たことを本当に僥倖に存じます。
高橋さんとの仕事も軌道に乗せなければなりません。
命は短く、やる仕事は多多です。
先輩、何卒お酒を節酒して下さい。お願いします。
余不備
十月三日 朴鉄柱拝呈
その一通、翌年の八月十五日付
謹啓 残暑尚きびしき折、先輩の御清安をお伺い申上げます。
先般は名古屋、大阪経由で帰国しました為、御挨拶を申上げず、
失礼をいたしました。おわびを申上げます。
この頃は、無理をした為か、激しい痛みにみまわれております。
カゼをひいていないのに、胸部脊椎にひびく咳のため、大変苦痛です。
たとへ肉と骨が癌に蝕まれようと、死ということを余り意識せずに
今まですごしてまいりましたが、段々不安を感ずる様になります。
それも借金をかかへているからだと思います。
今は一日でも早く借金を返さなくてはといふ気持ちです。
先輩、私は今まで経済的に楽なゆたかなくらしをした記憶がないのです。
いつも資金に追い立てられて来ました。
然し、死ぬ前には必ずお返ししなくてはと決心しております。
なまじっか私ごときが運動の道に入ったのがまちがいだったのでせうか。
私ごとき無能な人間が、人生の選択を間違ったような気がしてなりません。
暑中見舞いのつもりが不躾なことを申上げて申訳ありません。
今日は八月十五日、終戟の日です。私にも感慨無量です。
今丁度ドキュメント神風上中下三冊を読み了へたところです。
アメリカの側で書いたものですけれど、大変感銘深く読みました。
八月二十二日には参拝出来ません。悪し からず御諒承下されたく。
来年のその日まで、この命が生きながらへればと、
淡い悲願をいだいてみました。
先輩の御健康をひたすらにお祈り申上げます。
敬具
平成元年八月十五日
そしてもう一通、同年十月七日付
─ 謹啓 死期が眼の前に来たような感がいたします。
下半身の麻痺が上半身にまたがりつつあります。
下半身の麻痺は六つ目の背柱癌によるものですが、
頚すじの癌がこうじれば、胸も腕も皆だめになるそうです。
死に対決して、さして恐怖とか悲観はしておりません。
唯自責の気持にさいなまれ、死ぬにも死ねない気持ちです。
私は二十三才で先輩のところに参り、今日まで、 先輩に寄りそい、先輩の御思想にかなふべく、
一生懸命に考へ行動して来たつもりです。
そして私は、貧苦に堪えながら生きて来たのに、 借金と云う大きな悪をおかし、為に罰せられ、
なやみつづけております。
ふりかへって私の一番幸せであった時代は、
宮づかへしていたときと、中根町の時だけでした。
あとは皆、苦難とイバラの道でした。
ねたまま天井に向って原稿をかきつづけております。
腕のマヒが来ればそれも出来なくなります。
先輩には御負擔と御迷惑ばかりお掛け申上げ、
心からおわびを申上げます。
御迷惑をお掛けした方々、御世諸になった数多くの方々に、
もはやわび状も御礼状も書いて差上げる気力もありません。
本当に申訳ない人生でした。
最後に先輩の御清安と家族皆様のおしあわせを祈り上げます。
さやうなら。
平成元年拾月七日 朴鉄柱謹呈
この八月十五日付、十月七日付二通は墨筆で記された美しい文字で、懸命に起き上り、机に向って書かれたものであることは間違いない。
最後の遺書のつもりであろう。
どちらもキチンと正しく「平成元年」と書いてある処に、彼の志が見られる。
臣属することを「正朔を奉ず」と云うが、韓国の朴鉄柱は正朔を奉じ日本の元号を用うることによって、自分が天皇の臣民であるという自覚と信念を最後まで貫通したのである。
そして「さやうなら」。日本人が使うことを忘れた正しい日本語の假名使いを以て真正日本人新井清資が我々に久遠の別れを告げたのである。
そして、本当の最後の絶筆として私の許へ届いた十一月二十二日付の手紙は、臥たままボールペンで書いたもので、字の乱れのみならず、心の乱れも蔽い難く、そのまま此処に紹介することは差控えたい。その末尾は、
今は文字通り文無しできれいさっぱりです。
お心待ち申上げております。
朴生
の二行で終っている。
最後の一行、「心待ちしている」という彼の気持が私には痛いほどわかる。私がもう一度馬山に行くと約束していたのに来なかったからである。
俺も病気で行けなかったのだと弁解しても空しい。もっと早く行こうと思えばどんなことをしても行けたではないかという悔恨は限りない。
先輩より先には死なぬとあんなに繰返し言っていた朴鉄柱が悶々として先に死んで行った。
私は死に水をとってやることも出来ず、後顧の憂いを取除いてやることも出来なかった。
心残りで死ねなかったであろう。
無理やり死神はこの男をつれ去ったのであろう。
悠々として大往生するような最後ではなかったであろう。
「きれいさっぱり」は物的なことで、心境はとてもきれいさっぱりになれなかったであろう。
虫の息でもよい、生き続けてやり抜かねばならぬ仕事がある。
天下国家の夢もあり、不義理や愛する者に対する心配もある。
偉そうな死生超脱の境を語る余裕はなかった筈だ。
最後まで煩悩妄執に悩んだであろう。瀕死の病人を身ぐるみ剥いで行った連中を憎んだであろう
。助けてくれと神々に哀願したであろう。誠実なるが故に哲人ぶることは出来なかった。
責任を放棄して安楽を求めることが出来なかった。それが聖人でも英雄でもない一個の熱血漢、純情児、朴鉄柱のありのままの姿なのだ。
それでよいではないか。橋本左内先生は首を斬られる前に?然として泣いたというし、大楠公兄弟も、罪業深き悪念なれどもと云って、極楽往生を拒否された。
朴鉄柱が淡々として帰するが如く昇天したら却っておかしいのである。
朴君が私の所に飛込んで来てから四十六年。奇しき縁であったが、死水をとれなかった無念を別にすれば、すべての事に悔恨のない交りであったと言い切れる。
六十一年の二月、私の亡妻が獄中の私に寄越した手紙の一部が「中村統子の愛」という本に編集されてその出版記念会が催された時、たまたま東京に来ていた朴君が会場に来て「いや知りませんでした、偶然です。奥様のお招きです、有難いです」とニコニコ笑っていた顔を思い出す。
その時、小田村寅二郎氏が彼の人柄を皆に紹介して祝辞を求め、彼が照れながら私の妻の思い出を語り満場をホロリとさせたあのま心のこもった挨拶も忘れられない。
愛宕山の祭典にも参列したことがある。死を倶にし得なかった終生の恨事を涙声で語って、多くの参列者に深い感動をあたへたことも思い出される。
これはもう助からぬ生命だと知った私が、家族や最も親しい友を招いて、ひそかなる別離の宴を催したことがある。
みんな私の気持を察していたが本人は気づかない。
園田天光光夫人も来てくれて、四十年ぶりの再会に言葉もなく感激していたのであるが、朴君自身はいはば生別又兼ヌ死別ノ時などとは思はず、これからまた度々お目にかかれると思いますと言って幸福感にひたっていた様子が私の瞼の裏に残っている。
私の人生は中村とともにあったと彼は述懐しているし、私も満腔の友情をこめて、君と知り合い交り得たことを感謝す
る。
私が病院を出たのは二月の四日であったが、馬山の郊外に彼が生前購っておいた墓地へ詣で、預けられている遺骨の壷に対面したのは十二日であった。
晩年の彼に侠援を惜しまなかった松本州弘氏たちと同行し、初対面の朴君の長男たちが迎えてくれた。
日本で朴君とともに祝った神武建国の日、紀元節の翌日である。
佳い日だった。空は紺碧に晴れわたり、風は冷たく爽やかである。
礼拝堂で私は即席の祭文をたてまつり、弔歌を誦んでその霊を慰めた。
次の通りの荒っぽいものであるが、長く深い刎頸の交りのいやはてに自然に迸しり出た真情として、朴鉄柱君は例の通り顔をクシャクシャにして頷きながら聴いてくれたと思う。
祭 文
平成二年二月十二日於馬山
平成二年二月十二日、神武建国記念の日、紀元節の翌日、松本州弘君をはじめ心深き有縁の人々とともに韓国に来り此の地に詣で、謹みて故朴鉄柱君の墓前に白す。
二十数年前、葦津珍彦先生初めてソウルに於て朴鉄柱君に会ひ、その風格に感嘆して曰く、これは鶏林八道第一等人なりと。当時君はソウルに日本文化研究所を設け、優秀なる学生を周辺に集め、烈々として日本文化を講じ、日韓一つとなりて亜細亜の復興に邁進すべきを説く。
当時は既に朴正凞政権の下にありしが、日本文化研究所は李承晩政権の猛烈なる反日政策の中に開設、仮借なき迫害を最初より免れざりき。
しかも君は昂然として明治天皇の大御心、西郷・頭山の精神を以てせざれば韓国は統一されず、亜細亜は復興せずと大声叱呼してやまず。
これを以て如何に弾圧さるるとも妥協せず、投獄拷問さるるとも退転せぎりき。当時日本に於て、明治天皇の大御心を仰ぎ、西郷隆盛、頭山満の精神を説きし者幾人かある。
朝鮮動乱の起るや、北鮮軍の君を索むる急、君は屋根裏に隠るること十数日、僅かに九死に一生を得たり。
まことに鶏林八道人多しと雖も、眞に日本の文化と歴史を理解し、國體と神道に共感する者、朴鉄柱君の如きは稀なりき。
君は最も熱烈なる韓国の愛国者にして、祖国の独立と平和を念願したり。然りそれ故にこそ、その情熱を以て日本を見つめ、日本を愛し、日本を知ること日本人より深く、日本との渾然一体なる友好の中にのみ祖国の発展とアジアの復活を夢みたり。
その思想は心ある日本人韓国人の共鳴を得たりと雖も、多くの日本人韓国人より拒否せられたり。
君の周辺に於て君を支持する者少く、肉身親戚よりも疎外され、嘗ては両班の秀才として恵まれたる境遇にありし者、いつしか異端者として白眼視され、全く郷党に容れられぎりき。君は卓越せる識見を有したれども、経済の能力乏しく、
その思想と文化活動のために自らの財産を蕩尽したる後は、日本文化研究所を解散し、一介無力の浪人として日本と韓国の間を往来し、何とか経済的基盤を整へんとして苦慮し続けしも、計画するところ悉く挫折し、人に欺かれることのみ多く、僅かに残りし祖先の土地も奪はれて、悲しい哉、心ならずも人の信用を裏切り、結果に於て人に迷惑をかけ、汚名拭ふ能はぎるに至りしは、人の性(サガ)、世の習い、避けんとして避け難きものにしあれども、あたら好漢朴鉄柱君のために我ら慟哭せざるを得ず。
しかもこの七転八倒の苦しみの中にありて一点輝き通して消えざりしは、君の一個の純情なりき。
大東亜戟争の末期、突如として韓国より我が浪宅に現はれし君が、日本人新井清資として家族の一員に加はりし日より、日韓の国の歩みも、我ら一人一人の歩みも、四十五年、明暗交々、悲喜交々、感慨限りなし。異国に生れながら、心の交り斯くも深きか。
人間の縁の不可思議、霊妙言うべからず、その間区々たる利害得失の如き何ぞ算ふるに足らん。
懐かしき人々、次々に先立ち逝き、君が姉の如く慕ひし我妻和加子も幽明境を異にしたり。
我が妻は、君のすることを見て何と世渡りの下手な、何と無器用な人かと云ひて笑い且つ心配しながら、君の善意と友情を最後まで信じて疑はざりき。
我、今、君の墓前に於て去来する感情の究極もまた、妻のその君に寄せたる信頼と愛情の外になし。
我はたゞ、我果して君に友情を尽したるかを反省し、忸怩たらざるを得ず。
況んや、死期迫れるを自覚し、蹌踉として日本に来り、二重橋前に平伏して御不例の御恢復を祈り、先帝陛下の御大葬の日には雨の中に佇立して満面涙と雨に濡れて御見送りせし韓国人朴鉄柱の熱き心、気高き姿を想ひ出す時、及ばざること遠き日本の同志の現状、我ら自らのみにくき姿を慚愧して、まことに生くるに堪へざる思ひあり。
君は不運なる晩年を過し、悪戦苦闘、遂に敗れ、悲しき最期を遂げたり。
しかし、今はまた何をか云はむ。
すべては消え去りたる今、なほ君を忘れざる同志友人日本に少なからず。
今日吾が最愛の人たちに導かれて君の墓前に我ら額つくを得たり。
松本州弘と中村武彦が君の墓前に来り額つくことは、いかなる名僧知識の読経よりも、供養よりも、
君足するものなることを信じて疑はず。
高天原に参上り給ひし貴く清き新井清資彦之命、朴鉄柱君の忠霊、莞爾として我らの捧ぐるま心を享け絵へ。
献 朴鉄柱君霊前 (無韻無平仄)
平成二年二月十二日
於 馬山公園私設納骨堂
新井清資朴鉄柱 呼名憶念涙満襟
朴直清節鉄石志 誰疑真正日本人
浮沈泥海六十年 大志挫折逝陋巷
今朝雲晴馬山峯 春風駘蕩英魂朗
君是韓人而皇民 貫得勤皇初一念
悪罵嘲笑似蝉噪 日本知己哭墓前
喜びも悲しみも消え爽かに たゞ涙ぐみ君を弔ふ
心許すよき友たちとから国の 馬山の墓に詣で来にけり
二人して一人ぞ一つ仕事ぞと この眼鏡もて君は教へしか
(墓に向う途中老眼鏡を失いて甚だ困りしに、墓参を終るや図らざる所より発見、不思議なる体験なり)
書き来って恥多し。新井清資―朴鉄柱という稀有の人物を私の極めて主観的情緒的な気持ちで回想したに過ぎず、読んでいただいても朴君の全貌、その真実は一向に浮び上って来ないであろう。
ここには彼と私の二人だけの小さなカラの中を思い出すままに書いた。
多くの同志友人とのかかわり、殊に彼に男の友情を尽し、私もよく知っている人たちのことを、書き出すとキリがないので故意にカットした。
まして、彼の語るを好まなかった家庭関係や、仕事の内容、挫折の様子については一切触れなかった。
人間誰しも覗かれたくない面はあって当然だし、どうでもよいことに野暮な詮索をするのはナンセンスであろう。
それでもこんなに冗漫な、長い文章になったことを恐縮せずにおれない。
朴君が葦津先生に勧められて書き出した「日本と私」と題する自叙伝は、劇痛をおして書き進め、幼少年期を過ぎて日本本土へ渡り私の所へ来る頃までは、原稿用紙の桝目を几帳面に埋めて、内容も整っているが、衰弱の進行とともに机に向って書けなくなり、仰向けに臥たまま付添いの尹石順さんに持たせた紙に向かって書くのであるから、文も乱れ字も乱れて来ている。
判読し難い個所も可なりある。亡くなってから私に渡された時は、ページ数もうってないからやむを得ないけれどもひどい乱丁状態で、順序を正して整理するのに一苦労した。
戦前の東京生活が主で、後半生、ソウル時代馬山時代については殆んど及んでいない。
折角の最後の作業が未完に終ったのはまことに残念であるが、やはり随所に彼の喜びや悲しみ、信念や訴えが語られており、清高な彼の一生
を知る貴重な手記だと思う。
朴鉄柱最後の一念をこめた絶筆である。これをどうするか、友人諸兄の御意見に従いたいと思う。