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「弧忠悲しき朴鉄柱」 -日本を愛しぬいた一韓国人-

2018-12-21 16:28:44 | 日記

「弧忠悲しき朴鉄柱」


   -日本を愛しぬいた一韓国人-


                 中村 武彦


 朴鉄柱君がはじめて我が家に現はれたのは昭和十九年の秋であった。

前年秋の東条大獄に坐してゐた私はこの年五月に釈放され、その夏、目黒の中根町に小さな巣を作っていたが、其処へ或る朝突然見知らぬ白面の青年が訪ねて来て、「新井清資」と名乗り、「しかし朝鮮人です」とことわって、どうか此の御宅に置いて下さいと云うのである。

 上野宗広とか有賀茂とか私の懐かしい友人の名を挙げて、その縁で中村のことはよく知っていると云い、「維新公論」や「まことむすび」(東條内閣に潰されてしまったがともに私共の機関誌)も読んで共鳴している、自分も維新運動に参加したいから此処に置いてくれという単刀直入の話である。


 いきなりそんなことを言はれても困る、御覧の通りの小さな家で、此処にはもう四人ゐて満員だ、君の居る所はないよと云ってことわったけれども動じない。

丁度昼になったから飯を食はせてから追拂おうと思ったら、逆に一緒に食事して
ゐる問に情が移ってしまって、その礼儀正しさや懸命の真面目さに、私よりも、後に私の妻になる同居中の石田統子という女性が感心してしまい、暫く置いて様子を見たらなどと言い出すものだから、私も気乗りはしないけれど、よきには
からへということになってしまった。


 なかなかの好男子。数えて二十二才。本名は朴鉄柱。

名は体を表はす、朴訥で一本気という印象であったが、段々話してみると国史や神道をよく勉強しているし、日本語は極めて明晰で朝鮮人とは思えない。

加うるに字がうまい。字の下手糞な私はそれだけでも脱帽してしまい、親近感を持ち、素性も前歴も何もきかないで家族の一員に加えた。

朝鮮人(当時はそう呼んだ)という違和感は全くなかった。


 当時私の側には、秘書のつもりでいる石田統子と、書生を以て任じている福田博治という少年と、私の叔母にあたる田芙瑳子女史が一緒に暮らしていたが、新入りの新井清資は誰ともすぐ仲良くなり、こまめによく働いた。


 飯田叔母は谷田糸子と称して優れた俳人で、風雅を楽しむ一面、神経質でなかなかつきあい難い女性だったが、清資の誠実で律義なところがひどく気に入ってくれたようであった。

石田統子とも姉弟のように睦じくなった。

たヾ福田少年は、一種のジェラシーと云うか、妙に清資を邪魔者にするのが私にも感じられるので、問題の起きないうちにと思って、先輩の片岡駿さんに引取ってもらった。

そのような処置は当然福田からは恨まれ、後日その恨みを思い知らされるのであるが、新井からはひどく感謝され、何事であれ一所懸命に尽してくれること涙ぐましいものであった。


 当時、戦争は日に日に悪化し、空襲もだんだん頻度を増し、このまゝでは敗戦必死と思はれ、敵前維新断行の策を我々も必死で模索していたが、その運動の主体として、同志諸団体の中の精鋭を超党派的に結集していた「八ノ日会」を「尊攘同志会」と改めて結成奉告を鹿島神宮で行ったのは、清資が飛込んで来て間もない頃であった。


 清資はその中央事務局で、取敢えず奉勅尽忠宣誓、次いで維新奉行要請の署名調印運動の仕事を中心に、全国各地との連絡に当ったり、機関紙の編集を手伝ったりして忙しく働き、また家に帰ると石田統子を助けて家事手伝いに精出し、十日に一回はリュックを背負って千葉茨城の農村に芋の買出しに出かけたりして、実によく働いてくれた。

尊攘同志会の諸君は、後に愛宕山で自決した面々であるが、彼が朝鮮人であることをいささかも気にせず、むしろそれ故にこそ余計彼と親しくして、機密にわたる仕事も躊いなく彼に托したりした。彼は尊攘同志会になくてはならぬ大事な同志となった。


 清資が頬を涙で濡らしながら語るところを聴けば、彼は富裕なる両班の家に育ち、経済的には何の苦労もなく幼少年時代を過ごしたが、精神的には、子供心にも狂はんばかりの苦悩を重ねたという。

それは、父親がまことに頑冥なる韓国保守主義者であり、別に思想的根拠はないが、上流階級意識から来る極端なる日本嫌いであって、衣食住みな韓国の風習を守り、子供たちが日本語を喋ったり書いたりするのが嫌でたまらず、ましてや日本を賞めたりすると色を作して怒こった。

家族たちは皆それに従い、家にはおのずから反日の空気が充満していた。

 然るにひとり朴鉄柱は、どうしても日本をそのように侮ったり憎んだり出来なかった。

読書好きで、殊に歴史をいろいろ学べば学ぶほど日本に傾倒した。日韓併合は残念だったけれど、そこに至る李朝五〇〇年の歴史と当時の国際環境を考えると、日本が韓国に対して行った内政干渉は、やむを得ないと思はれたし、独立保全の善意を認めずにおれない。

清国やロシアの属領になるより日本と合邦した方が韓国民にとって幸福だったことは客観的に見て否定できない。

日本の歴史や文化をよく見ると、韓国の方が立派だとは思えないし、李王朝の素性の怪しさとその官僚政治の腐敗、虐政の跡を見ると、どうしても日本の皇室の高貴さに頭を下げざるを得ない。

たしかにそれは世界に比類のないものであり、万邦に冠絶したものだ。

其処から生れた道徳や哲学宗教も、素朴単純ではあるが人為の作り物でなくて自然だから貴く感じる。儒教の倫理にはないあたたかさがある。


 朝鮮総督府の強圧政治には堪え難いものがあるのは事実で、内地人が朝鮮人を蔑視する心情や態度にも勿論腹が立つ。自分も憤然として起上がる気慨は決して失っていないけれども、英国のインド統治に比べれば問題ではない。

第一、そんな冷酷な植民地政策は天皇陛下の御恩召しに反している。

日本の心ない役人や商人たちのすることは、西郷隆盛や日韓合邦を推進した先輩たちの志に背くものであることが、だんだんわかって来た。

だから私は朝鮮独立運動にくみしない。むしろ皇国民として同化したい熱望を持ち、政治的には内地各県と同じ完全な自治権を求めてやまない。


 私は名前を変えて新井清資と名乗っているが、天皇の臣民になりたい、日本人になり切りたい自発的な改名であって、強制されたものでも迎合したものでもない。

朝鮮皇国化の魁として私は先ず徹底して忠誠なる臣民になりたい、そして日本が本当に天皇の御国となり、朝鮮の同胞も喜んで天皇にお仕えし、本当の幸福を得られるようにするために、
日本の維新に身を捧げたい。私は朝鮮の家族や同胞の間では非国民です。売国奴です。

それでよいのです。

理解してさいますか―と云うのである。


 私は心うたれ、眼をつぶって頷く外なかった。この男の胸の底に燃えている天皇陛下を慕ふ気持は、私どもの恋闕のいよりももっと切なく強いものがあることを感じないでいられなかった。


 十九年の年の暮、私はいろいろの曲折を経て石田統子を妻とすることにきめた。

結婚式も披露宴もない、ただ松蔭神社へお詣りして御神前で勝手に奉告の祭文を読み上げただけであったが、その日、たまたま来合せた五、六人の苦い同志がついて来て祝福してくれた。

 清資は二人の様子を間近くずっと見てきて、そうなることを期待していたので、松蔭神社にもー緒に来て、大いに喜んでくれた。統子は清資より一年齢上。彼はお姉さんと呼んで親しくしていた。


 その頃、私の引掛っている裁判の一つが大審院の最終判決で先ず懲役刑三年と確定し、二十年の正月早々執行されることになった。

しかし、今この大事な時に投獄されてはたまらんので、三河島の永野病院に逃げ込んだ。

お蔭で執行延期は許されたが、入院患者としてジッとしていなければならない。警察の監視はきびしい。

そこで私に代っていろいろな仕事を妻や清資にやってもらう外ない。二人とも実によくやってくれたし、それによって彼ら自身も目に見えて鍛え
られ、成長した。


 空襲警報の鳴らぬ日はない状態になり、尊攘同士会の活動も陰に陽に激しくなり、私も病院から抜け出して行動することも多くなり、一日一日が緊張の連続であったが、四月には病院が焼け、五月には中央事務局が焼けて、私は家に帰り、事務局も我が家に移した。


 警察や検事局の目の光っていることはわかっているが、仕方がない。

運動も制約され、生活も極度に窮迫して来た。

その中で、清資が自分のひもじいのを我慢して、私に少しでも食べさせようとしてくれる心づかいがひしひしと感じられ、余計なことをするな、と云って押返しながら涙をこぼしたことが幾度あったことか。そうするとベソをかき、眼を真赤にしていた彼の顔を今でも思い出す。


 前に書いたように、日本嫌いで固まった両班の家から、こんな日本人にも珍しい純情一路の尊皇の士が出て来たことは、鴉の群から鷹が育ったようなものである。

父親に反抗して家を飛出した新井清資は、国学院大学の講習を受けて神職の資格を得、全羅南道の光州神社に暫く勤務し、やがて本土に渡って下関の住吉神社に奉仕する。

その間、昭和維新運動に参加したい志が勃々として制し難く、意を決して上京し私の所へ来たと云う。


 たしかに、天皇仰慕の思いも維新断行の志も口先きだけではない。

日本語が並の日本人よりも達者であるように、尊攘の精神も並々でない。私はよい弟が出来たことを喜んだが、その弟の兄に対する愛情の深さは感激せずにおれなかった。


 当時私どもは、生命を賭けた非常の行動のほかに維新はできぬ、国家は救えないと信じていたから、清資も統子も、いつでも飛出せる覚悟はしていた。

清資から、一大事の時には必ず私を連れて行って下さいよと、くどいほど念をおされたことは度々であった。何かイヤな予感でもあったのか。


 然るに、七月の末にポツダム宣言が発表され、これに対する宮中府中の動きにただならぬものが感じられ、バドリオ陰謀に警戒の眼をきびしくしながら先制のクーデター計画を練っていた矢先き、八月四日私は検事局に呼び出され、そのまま懲役刑執行を宣告されて中野刑務所に投げこまれた。

ウッカリ召喚に応じた不覚を悔いたがどうにもならない。


 後に検事総長になられた弁護士花井忠先生が、焼跡の道を走って中根町の妻に知らせ、中野刑務所の門前に連れて来ていただき、帰期定め難い別離をしたのであるが、清資はこの時家に居なかったため、私と別れが出来なかった。


 あとで地団駄踏んで口惜しがったそうだが、爾来二十年、お互いに顔を見ることが出来なかったのである。


 私が投獄されて十日後、敗戦降伏の日を迎えた。私は鉄窓にすがって慟哭する外なかったが、尊攘同志会の緒君は、和平降伏陰謀の中心と目される木戸内大臣の邸を襲撃した。

しかし本人は宮中にゐてつかまらない。

転じて愛宕山に籠り、「尊攘義軍」の旗をひるがえして抗戦継続を図ったが、大勢奈何ともなし難く、遂に八月二十二日、十名全員
自決して国難に殉じた。二夫人また二十七日その後を逐った。


 この尊攘義軍の蹶起、籠城、自決は清資に連絡なく行なはれた。

逃げた訳ではないし、故意に除外された訳でもあるまい。

交通も通信もままならぬ大混乱の中ではやむを得なかったと思はれる。

挺身蹶起の覚悟は誰にも劣らなかった筈の新井清資が愛宕山の十一人目の烈士になれなかったのは仕方のない運命であった。


 清資はその辺の事情を語らず、私も敢て訊こうともしなかったが、図らずも後日、彼がその頃、鎌倉の天野辰夫先生の邸にお伺いした時、玄関で天野先生から刃を突きつけられスパイ呼ばはりの面罵をうけて追返されたという話を妻から聴き、また彼自身から聴いた。常識では考えられぬことであるが、清資にとってこれが死ぬより辛い恥辱であったことは当然である。「実はこんなことがありました」と涙を流しながら語るのをきいて私も意外に思うとともに、彼の口惜しさに同感して涙がとまらなかった。


 敗戦のどさくさの中で先生の虫の居どころが悪かったのであろうが、考えられることは、中村が投獄されたのに居合はさずして何も出来ず、同志がみな自決して死んだというのにボヤボヤしている。

何事だという怒りと疑念であったのであろう。

御もっともではあるが、先生を心から尊敬していたこの男、日本人以上に日本人らしい誠実な男を、朝鮮人なるが故にスパイ扱いされるとは、先生とも思えぬ悲しい放言である。


 私が馬山の彼を病床に見舞った時も、泣きながらこの話を持ち出したので「あれは先生が絶対に悪い。先生もわかっていたと思うが、俺は勿論君を信じて疑はない。しかしもうそんな無念は忘れてしまいなさい」と言うと淋しそうに微笑していた。

清資の心に生涯消えることのない怒りと怨みを残したこの事件は、私にとっても心平らかにすませることではなかった。妻の統子もこの時ばかりは清資の肩を抱いて一緒に泣いたという。


 年が改まって二十一年、中野刑務所から小菅刑帯所へ移されていた私は、確か四月頃、西内雅先生の面会を受けた。先生は終戦当時陸軍省の要職にあり、畑中少佐など維新派の将校も頼りにしていた存在である。清資は私の使いで先生に度々会っていた。


 その清資が昨年末韓国へ帰る途中、下関から、私は韓国で維新運動を続けます、その旨中村へ知らせて頂きたいと言って来たとのことで、先生はそのことを伝えるためにわざわざ刑務所へ来訪されたのであった。


 私はその志を見事だと思い感動した。

日本で維新運動は潰滅してしまった、この時期に、一人の韓国人が初一念を変えず、昭和維新の運動を韓国へ帰ってなお続けると云うのである。

ドンキホーテと思われるだろう。そのドンキホーテが今無上に貴いのだ。


 よくぞ言ってくれた清資よ。愛宕山の諸士がどんなに喜ぶことか。日本の残った同志もしっかりしてくれ。

古き日本とともに新井清資は死んだ。

生れ変った朴鉄柱よ、神州の正気を鶏林八道で発揮してくれよと、私は獄中から呼びかけ
た。

 朝鮮半島は三十八度線で分割され、新井清資、今は本名に戻って朴鉄柱は、大韓民国の国民としてソウルに住んだ。

どうしているか。獄中の私にわかる術もなく、二十三年に出獄してからも消息は聞けなかった。

激しい反日政策を強行している李承晩政権の下ではとても朴鉄柱の考える維新運動など出来る筈はない、是非もないことだが、ともかく元気でいてくれと祈った。


 二十四年の末だったと思う。

私が二階を借りて住んでいた雑司ケ谷の家に、或る夜突然六尺豊かな壮漢が疲れ果てた様子で尋ねて来た。

朴鉄柱の甥で朴球栄と名乗った。

密航して九州に着いたが、途中で連れの半分は殺された、生命からがら上陸し漸く東京へ来たという。

紹介状など危険だから携帯せず、証拠にこれを持って行けと言はれたと言って差出した写真を見ると、懐しや紛れもない清資である。

話を聞いてみると私のことをよく知っており、疑う余地もないので暫く居候にしておいたが、叔父の鉄柱の時と違って部屋はずっと狭いし、甥の球栄は大男でよく食べる。

配給ではとてもやりくり出来ないので、三上卓さんに相談して、その門下生が営んでいる所沢の農場で働くことになった。


 この朴球栄の話で、朴鉄柱がソウルで日本文化研究所を作り、若い学生を指導していること、明治天皇とか西郷隆盛、頭山満とかいう名前をよく言っていること、政府からは極端な親日分子として睨まれ、警察がうるさくて研究所の経営に苦労していること、まだ独身でいることなどわかった。

正に日本を去る時の誓言の通りである。まずは安堵し、感服したが、今の状態では連絡もとれない。

 その内、三上さんの関係で密貿船を韓国に向けて出すことになり、これも三上さんの維新工作の一環であったが、朴球栄もその道案内を兼ねて乗船した。

しかし玄海灘で捕まって船は没収され、朴たちは下関の水上署に暫く拘置され、放免後は大阪の居留民団に就職した。


 翌年、朝鮮動乱勃発。朴球栄は義勇兵に志願して戦火の祖国へ帰って行ったまではわかっているが、そのあとは何何だか滅茶々々な動乱の渦中で、朴鉄柱も朴球栄もその消息は沓として知れなかった。


 その内、ようやく朝鮮戦争は休戦となり、日本では講話条約も調印され、私共を縛っていた追放令も解除されて、何となく明るく私どもの周辺も賑やかになって来た。

その頃、風の便りで、朴鉄柱が難を免れてソウルで再起を図っているという情報が入り、愁眉を開いていると、しばらくして本人からの手紙が届いて健在が確認され、お互いに通信できるようになった。


 一刻も早く日本へ行きたい、会いたいと言いながら、李承晩治下では渡航許可は下りない。

李承晩が追放され、張勉を経て朴正熈へ政権が移ったのは三十六年、日韓基本条約が調印されたのは四十年六月。

朴鉄柱にとっても風向きが変り、きびしい看視を受けながらも或程度は自由に動けるようになった。


 そして、晴れて日本へやって来たのは昭和四十年の春であった。

彼にとって二十年ぶりに踏む日本の土であり、内心に於てはこれこそが待ちに待った本当の「帰国」であり「帰郷」であったに違いない。


 朴鉄柱を羽田に出迎えたのは夕闇迫る頃であった。

彼を見て妻は思わず涙声で「清資さん」と呼びかけ、走り寄って固く手を握った。

彼は顔をクシャクシャにして泣くばかりで言葉が出なかった。日本語を忘れたのかと思った。


 私は努めて冷静に振舞い、さァ家へ帰ろうと云うと、彼は首を振って、先ず皇居へお参りしたい、それから明治神宮と靖国神社へお詣りしてから行きますと云う。

もう遅いから明朝でもよいではないかと言っても頑としてきかない。

そこでしかし一度家へ行ってミソギをしてから出直すのが作法ではないかな、汗のままでは失礼だよと云うと、この苦しまぎれの論法を生真面目な彼は真剣に受けとめて、成程ではそうしましょうと承知してくれた。


 然し何か、天皇陛下に御挨拶もしないうちに一杯飲むということが申訳ないという不安と不満の表情が消えていない。

韓国生活二十年、新井清資はチッとも変っていないのである。


 我が家へ連れて帰ると、子供たちが親戚の叔父さんが来たように歓迎するのを、目を細めて喜んだ。

そして久しぶりの日本料理と日本酒に舌鼓うちながら話は尽きなかった。

翌朝イソイソと皇居詣でに出かけてから一ヶ月ばかり後に韓国へ帰って行くまで一緒に暮らして、まことに楽しかったが、辟易したのはその凡帳面さ、礼儀正しさである。

朝晩神拝を怠らず、私の祝詞や献饌の作法の間違いを指摘する。有難いけれどもうるさいのである。


 彼が相好を崩して世にも幸福な男に見えるのは酒を飲む時である。

斗酒なお辞せず、決して崩れない底知れぬ酒豪であった。

ソウルの酒呑みコンクールで二等賞をとった時の話は生真面目な顔で話すだけに余計おかしくて、我々を抱腹絶倒させた。


 彼は戦前の旧知の同志先輩を片っ端から尋ねて歩くとともに、私の紹介するいろんな人に会い、またいろいろな団体やグループの勉強会に招かれた。

生長の家でも国民文化研究会でも黒龍倶楽部でも国民総連合でも何処へ行っても、日本は神国ではないか、日本人よシッカリしてくれという彼の訴えは聴く者の魂を揺さぶった。


 明治天皇の大御心 西郷南州、頭山満の精神を忘れては、日本も韓国もアジアも将来の望みはありませんという彼の言葉は天啓のように響いた。

それは韓国で、李承晩の徹底した反日政策の下に於てさえ、彼がひるむことなく堂々と説き続けた不動の信念なのである。

韓国人にして日本をこんなによく知り、こんなに深く愛している者のいることに驚き、自分たちさえ忘れがちの八紘一宇の精神や昭和維新の夢が、この韓国人の内部に燃えつづけていることに、誰しも感動せずにおれなかったのである


 葦津珍彦先生の御伴をして韓国に出かけたのは昭和四十一年の春であった。

いま箱根神社の宮司をしている浜田進君も一緒だったが、朴君はこの上なく喜んでその家に私ども三人を泊め、三食を供し、案内役に司会役に走り廻った。住宅は中流の下というところか。

ホテルと違って清潔でも便利でもなく、狭くて、特にトイレは閉口した。

いささか有難迷惑の面もあったが、朴君の方では最高のもてなしのつもりで一所懸命に気を配っていじらしいばかりである。

 葦津先生は不便なことなど気にもかけず、その好意だけ受け入れて満足しておられる。

そして専ら韓国の現実をよく見たいという興味と、学生インテリと話合い彼らの思想、心理の本当の所を知りたいという関心に終始された。

朴君が連れて来る大学教授や学生たちも日本を知りたい真摯な気持と相当な予備知識を持っており、それに答えて葦津先生の御話は実に懇切で、陪座する私どもも目の醒める思いがした。朴君の感激ぶりは見ていて心あたたまるものがあった。


 それについては「アジアに架ける橋」に所載の先生自ら書かれた「韓国の学生と語る」に詳しい。私もこの時の印象を同じ本に書いている。


 朴君の葦津先生に対する尊敬はこの時から更に限り無く深まって最後まで変わらなかった。

先生も彼を「鶏林第一等の人物」として推奨されたし、彼から努めて韓国のなまの情報をきき、その判断を重視された。

しかし、朴君が礼賛してやまぬ日本の国體は残念ながら日本本国によって否定され、天皇も神道も朴鉄柱の幻想の中にしか存在しないような今日、朴君の親日的主張が熱烈であればあるほど現実との食違いは大きくなり、韓国政府や同胞から反撃され、遂に
は売国奴視される悲劇を免れないであろうことを心配された。


 そのことは朴君自身にもよくわかっていて寂しい苦笑を洩らすのであったが、まるで意地を張るかのように、敢て自分度を改めようとしなかった。


 ソウルに行ってみて、朴君の日本文化研究所には少数ながら優秀な学生やOBが集まり、現代韓国では特異な存在に違いないことはわかったが、その純粋で生一本な行き方は政府の弾圧を故意に呼びこむようなものであるし、一般同胞の支持も得難いのではないかと思はれた。

第一、これでは経済的に自らその基盤を狭くして、将来が危ぶまれ。


 明治天皇の大御心を仰ぎ、西郷南州、頭山満の精神を以てしなければ韓国は自立できない、アジアは救はれないという大胆な主張は、その勇気には敬服するけれども、

日本でも通り難いことを韓国の国民に向ってオブラートにも包まないで押しつけることは、少数異端の道を自ら選んだものであり、自分の国の政府の反日政策を忌憚なく批判するからには、やはり迫害されとも仕方がないではないか。

 事務所の壁間に私が後に呈した下手糞な二十年ぶり邂逅の感激の歌が表装されて麗々しく飾ってあったが、あれを取外して大統領か誰かの写真にでも取替えなさい、そうすれば日本文化研究所も安定すると私は言ったがきかない。


 これが韓国へ引揚げる時、日本の同志に誓った公約の実行だとばかり胸を張っている朴君の姿を立派だと褒めるだけでは、私どもが無責任であり、友情を欠くと思はずにおれなかった。


 しかし朴君は無理を承知で押し進め、やがて日本文化研究所は解散となる。

バカバカしい話だが反共取締法の適用で追及され、経済的に締め上げられて、個人的な動きもままならなくなるのである。


 朴君を知る者は誰もその点を心配し、それぞれ忠告してくれたと思うが、最も親切で且つ痛烈だったのは、五・一五事件の先輩、林正義氏であった。


 拙宅の近所に住んでおられ、よくお互い往来したので、私は朴君をこの尊敬する大先輩の所へ連れて行き、度々御馳走になった。


 酒豪同志の飲みっぷりは壮観であったが、酔に托して林さんが、禅問答のように飄々としかも峻烈に朴鉄柱に与える教戒には、朴君が頭を下げる前に私の頭が自然に垂れた。


 ――コラ朴鉄柱、お前は韓国人か日本人か。超越しとるなどと生意気なことをぬかすな。

日本人たちの好意は有難うが、それに甘えるのは好加減にせえ。

どんなに日本が好きでも、お前は韓国人に対して日本人のような顔をするなよ。

お前は徹頭徹尾韓国人だ。

日本文化研究所の看板はずして先ず韓国文化研究所の看板出せ、順序を間遠えるな。

先ず韓国の愛国者となって、死ぬほど韓国を愛してから、日本を愛し、日本を語れ。

いくらお前が尊皇を説いても、国籍のハッキリせぬ奴の説教に誰が魂を打たれるか。

一ペん日本を否定しろ、天皇陛下を捨てろ、それから後にお前の説く尊皇論に俺は耳を傾けよう――という訳である。


 林さんは決して偏狭な民族主義者ではない。

林さんこそ血液も国籍も眼中にない天地人一如の大自然に悠々と生きている人である。

しかも尊皇絶対の人であり、私に「至忠忘忠」の書を形身に書き残してくれた人である。

理屈ではない、説教ではない親切な端的な一言一言が弾丸のように朴鉄柱の胸にうちこまれるのを、私は瞑目して盃をなめながら聴いた。



 朴君は悲しい顔をしてうなづいている。確かに朴は朝鮮人であることをヌキにして日本人であることは出来ない。

「韓国を愛す、されど日本も」で、その逆であってはいけないことはよく私とも語り合っている。

それはよくわかっているのだが、日本統治下の韓国で日本を憧れ天皇に恋慕し、日本人以上に日本を愛する韓国出身日本人になってしまった。自
分一人の満足や歓びでなく、同胞すべてに同じ感激と幸福を頒ちたいと念願して来た。

大日本帝国の崩壊がその念願空しいものにしてしまった。

しかし、日本を憎み天皇を罵ることを国の方針とした独立韓国に帰っても、その信念を変えることは出来なかった。

韓国人の魂を売った奴と云はれ迫害されてもたじろがなかった。悲壮な反抗が朴を支えていた。


 林さんが心配し忠告されることはその通りである。うなだれ、うなづきながら、有難うございますと涙をこぼしながら、「それでも私は」と胸の底で叫んでいる朴鉄柱の朴直一徹の信念、これはどうしようもないことであった。

林さんにもそれはよく分かっていた。

「俺は常識論をくだくだ言っただけよ」と後で苦笑して、

「しかしあいつは偉い奴だ」「

あいつは可愛い奴だ」と林さんが語る時、その目はうるんでいた。


 先ず経済的基盤の自立安定を図らなければ思想運動も文化運動もないことを痛感して、暫く実業に専念することになったが、これがまた絵に描いたような武士の商法。

金儲けするのだったら一応は捨ててかからなければならぬ見栄や羞恥や正義感やサムライの倫理にこだわって商人になり切れない。

義理人情が強すぎる。人を疑うことを知らぬから赤ん坊のように簡単に騙され、それに懲りずにまた同じ奴に騙される。

日韓維新の資金作りどころか、多少親から譲られて持っていた土地も田畑も家も金も、同じ韓国の人間に巧みに欺かれ奪はれて、丸裸にされて借金ばかり増えた
のである。


 一度、私はその依頼に応じて先輩や友人の力を借り、朝日読売日経などの一流記者を帝国ホテルに招いて、韓国政府のさる高官を囲む懇談会を催したことがある。

朴君が斡旋し司会する形をとり、予想以上の大成功であった。

これが韓国政府の朴君に対する評価と感情を大いに改善し、爾来、うるさかった監視も弛み行動し易くなったと喜んでいたが、しかし折角そうなっても、彼は自分の仕事のためにこの政府官僚をうまく利用する術を知らなかったようである。


 何か商売の計画を持って日韓の間を往来し、その都度、私に今度こそはという夢を語り、もう苦労はかけませんよなどと言っていたが、ホテルの拂いが出来なくなったり、帰りの旅費が足りなくなったり、その人の好い笑顔泣顔を見て、実の処私はいつも悲しかった。

来るたびに商売の相手が違い、話の内容も違う。

この話は長続きするなと思って期待しても決局、実行段階で潰れてしまう。

苦しまぎれの借金も増え、しかも返すあてのない借金となり、同志友人に迷惑をかけることになって来る。

彼の思想に共鳴したり人柄を信じて無理をして助けてくれる場合が多いから、彼自身その信頼に背く結果になることを、どんなにか苦しみ悩んだことと思う。


 そんなこともあって、朴君が東京へ来ても電話で挨拶するだけで会はずに帰って行くことも幾度か重なり、何をしているのかわからず、私なりに心配せずにおれなかった。

彼の善意は疑う余地もないが、善意だけで済まぬのが金銭上の問題である。彼ほどの男も、その底抜けの善意ゆえに、ずるずると蟻地獄へ落ちてゆくのを、やり切れぬ思いで傍観す
る外なかった。


 朴君は若い頃から病気にかかったことがないと自慢していた。便秘症はひどかったが、もう癖になっていて十日以上出なくとも気にもせずよく飲みよく食っていた。

それが七、八年前脳出血で倒れ、幸いに後遺症は小さかったものの、再発を恐れて、あれほど好きだった洒を断ち、私が少しぐらいどうだと勧めても、盃一杯だけで、あとはジッと我博しているのが可哀相なほどであった。


 それでも他から聞くと、いやそれは先輩の前では叱られると思って謹慎していたのですよ、よそでは結構飲んでいましたよという話になる。

さもありなんと思いながら、生命が惜しければ好加減にしてくれよと祈る外なかった。


 それが、韓国の病院で思いもかけず肺癌という宣告を受け、急に釜山で手術するという。その時の手紙は沈痛を極めたものであったが、今手許に見つからない。


 次の手紙は手術が終った直後の昭和六十二年の十月十一日付のものであるが、自分のことよりも天皇陛下の御容態を心配している。



─ 小生十月六日手術室で意識がモウロウする中で  陛下の御事を心痛いたしました。


  右肺の癌コブの摘出手術も無事了へました。


  意識回復後考へましたのは昭和の御代は  余りにも多事多難で、陛下の御心労いかばかりであったかを、


  身も心も痛む思いがしました。


  そして陛下の御平安を祈るのみです。


  あとは皇祖皇宗の御霊におまかせする外ないと考へました。


  先輩、小生は絶対に先輩より先にゆきません。


  先輩をおたすけ申上げ、おみまもりいたします。


  ガンの移転、拡散は発見されないけれども、


  放射線治療と制癌物質の治療してくれとの


  医師のことばに従います。


  末尾ながらお見舞本当に有難う御座いました。


  ねたままの手紙なので字が目茶苦茶になりました。お許し下さい。


  松本先生にも何とぞ宜しく御伝声を願い上げます。    不備




 一応退院したものの、通院して抗癌物質の注射を親け、これがその副作用で激しい嘔吐と疲労のために残余の体力を消耗しつくした様子で、しかもそれでも回復の望みはないらしい。

たしか、六十二年末、馬山へ行って見舞った時の感じで、どうも韓国での治療に信頼がおけないので、私は大塚和平氏と相談し、石塚民幸博士にお噸いして、日本に呼
んで治療の方法を講ずることにした。


 姪という女性に付添はれ蹌踉として成田に着いた朴君の痩せ衰えた様子は正視に堪えぬものがあった。

顔面蒼白で白髪は抜け落ち、目はうつろで、舌ももつれている。

早速日野の石塚病院に緊急入院させ、応急処置をとり精密検査して貰った。

もう治る見込みのない末期症状であるが、何とか体力をつけて病状の急速な運行を止めることば出来そうである。


 治療もさることながら、それにはこれまでのような、栄養を攝ると癌細胞がそれによって成長するから栄養は攝らぬがよいと云ったという韓国の医者の意見に従ったこれまでの食養方針は根本的に切替えなければならぬのではないかと思い、院長の御意見をきくと、その通りだと云はれる。



 そして院長は早速実行だと云って自ら朴君を有名なステーキ屋に連れて行き、思う存分食べなさいと勧められた。


来肉嫌いで牛肉など箸をつけたことのない男だったが、高層ビルから飛び降りる覚悟で眼をつぶってステーキを口にした。

「どうだ、うまいか」「うまいです」「そうだろうドンドン食べなさい」という豪快な石塚院長の見事な精神療法(?)が功を奏して、一夜にして朴君の血色はよくなり、笑顔も爽やかになった。



 石塚院長の侠気と親切は形容し難い。地獄で佛に逢ったような感激に浸りながら、朴君は一ケ月ばかりの病院生活送った。

たっぷり栄養を攝りながら、いろいろな投薬や治療を受け、コルセットも作り、目に見えて元気になり、声も歩調もシッカリして来て、見舞う客をおどろかせた。



 このままこの療養生活を続ければよかったのであるが、韓国の用事をほっておけないと云うので、自宅療養に十分な注射薬、内服薬をドッサリ貰って韓国へ帰って行った。



 そして寄越した手紙(三月三日付〕は久しぶりに見る元気な頃の几帳面なきれいな字の墨筆の書簡であり、全文次の通りである。



  前略 このたびは御多用中、然かも貧乏な先輩を大変おわずらわしいたし、何と御礼を申上げて良いやらその術をません。

小生の腑甲斐無さに唯々恥入るばかりです。


  土地を売りに出して早く売れるよう念じております。病気は待ってくれませんので焦燥の外ありません。


  お蔭様で今食欲は増進し体重はふえつつあります。院長先生には不躾な点も多々あったと存じ、ふかく慚愧いたしております。

本当に立派な先生にお会い出来、しあわせでした。みなひとへに先輩のお蔭であったと銘心いたしております。厚く御礼申上げます。 ──



 債務を整理するための土地処分を自分の手でするために無理をして帰った朴君であるが、法的手続きの煩瑣に加うに、詐欺師どもの手で弄ばれて惨怛たる苦労を重ねた。


 その様子を窺はせる手紙も残っているが、どうやら私の名前までもその醜い葛藤の中で利用されたらしく、彼は、私や私の同志までがもう自分を信じてくれないのではないかと煩悶している。



 「神様と正義はこんな出鱈目を許す筈はありません。たとへ先輩から破門を言い渡され、勘当されようと、玄洋商事対乗っ取られません。

どうぞ玄洋商事だけは小生におまかせ下さい。玄洋商事をあとひといき軌道にのせて、然る後小生の同志後輩にゆだねます。

先輩、小生最後のワガママをお許し下さい。」云々などと書いてあるが、私にとっては勘当の破門のと何のことか見当のつかぬ話である。


 事実、いろいろ彼の土地や事業が狙はれ、悪い奴が跳梁し、危機を感ずること切実であったのであろうが、被害妄想
はないかと思はれる処もある。

末期癌の着々と進みつつある肉体を抱いて、その精神がいささか平静を欠いたとしてもやむを得ないことであった。



 三ケ月ばかりして再び日本へやって来た朴君を診察した院長の話では、心身ともに疲れている以上に、糖尿病が可なり進行し、制癌の治療が難しくなっているという。

前には糖尿は問題にならなかったのにどうしたのか。

どうやら病気
の体験のない彼は、栄養を攝るなと云はれれば断食同様に食を減らし、食べろと云はれれば腹一ばい食べ過ぎる、

子供みたいな病人であったようだ。それは後に、見舞に貰った薬用酒をガブガブ飲んで体調を狂はせたというのと同じで、笑うに笑えない失敗であった。




 一度は体調を持直し、体重も増え、抜けた髪がまた生え揃って来て私を羨ましがらせ、可なり歩き廻っても疲れを知らなかった朴君が、元の木阿弥になってしまったのは、決して医者の手落ちでもなければ、必ずしも本人の不覚だけでもない。

やはりそういう運命だったのであろう。

大東亜戦争の敗北に当り尊攘義軍の自決と行を倶にし得なかったのも、朝鮮動乱のさ中、屋根裏にひそんで十数日、北鮮軍の探索の手を逃れて九死に一生を得たのも、六十五年の人
生の終焉を馬山の陋巷に迎えるに到ったのも、ただ運命と云う外ない。


 平成元年一月、先帝陛下崩御の直後に、重い脚をひきずって東京へやって来た。



 先ず二重橋の砂利の上にひざまづいて長い間頭を上げなかった。

御大葬の日には雨の中を早朝から皇居前の堵列に加はり御見送り申上げた。

名も無き一韓国人が瀕死の身を以て氷雨に濡れながら泣いて先帝陛下にお別れしたその悲しいま心を、御神霊は必ずや御嘉納になったことであろう。


 葦津先生の処へ御伺いしたのは、御大葬をお見送り申上げて、一旦帰国して、再び出直して来た時のことであった。

その時は、まだ鎌倉の海岸を歩けるだけの元気があった。


 或はこれが最後になるかと思はれて、先生は海岸のホテルに部屋をとり、一夜ゆっくりと物語りされた。

死を覚悟しているのなら最後の仕事として回顧録を書きなさい。

気取る必要はない、思い出すままに書きなさい、君の心の整理になるとともに、日韓交渉史の中の一つの貴重な資料にもなると勧められた。朴君は非常に喜び、是非書きますとお答えし
た。私はその書くものの価値よりも、それを書くことが彼の精神の緊張を促すとともに安らぎをもたらし、それを書いている間は死なないという希望が持てるので、大賛成の意を表した。


 残念ながらその回顧録は彼の病勢進行によって中断し、未完に終ったが、その精神の最後の燃焼として貴重な絶筆った。


 五月の末、瀕死の病駆を提げて、もう一度来日した時の朴君は、消え行く灯火の最後のまたたきの明るさにも似て、下関へ行って講演したり、懐しい住吉神社へお詣りしたりして、彼の人生の終末を飾る、最後の楽しい旅だったようであるが、「疲れました。もう東京へは引返さずに帰ります」と電話して来て、そのまま帰国して行った。

これが、最後の日本への里帰りとなった。



 孤忠の臣朴鉄柱は、自らがその御民として生きた昭和の御世を見送り、海を越えて、天皇の戦争責任や植民地支配の責任をうるさくあげつらう生れ故郷へ帰って、あの馬山の陋巷の狭い暗い部屋に閉じこもり、病臥して再び起たなかったのである。



 私が朴君を最後に見舞ったのは、平成元年の木葉散る秋であった。

細い長い路地の一番奥にある三部屋ほどの家一室に横たわって私を迎えた彼は、見る影もなく憔悴し切って、御大葬を拝送した時の気力も既に尽き果てていた。


喜色は満面に溢れているが、か細い声はほとんど聴きとり難い。それでも必死に訴えることの意味は十分に理解できた。


 これがこの世のお別れなんだ。

すべては終るのだと、腸の裂ける思いで手を握った時、その思いを敏感に感じとったのであろう朴君の握り返す力は驚くはど強く、悲しい表情は見るに忍びなかった。

何か言いたそうだ。口許に耳を寄せると、「もう一度来てください」と聴きとれた。「また来るよ、しつかりしてくれよ」と答えると彼は暫く私の顔を凝視していた
が、微笑を浮べて目を塞じた。


 私は約束を守れなかった。すまぬすまぬと思っているうちに、私自身が肺炎をこじらせて動けなくなり、朴君が入っていた同じ石塚病院のベッドの上で、平成二年一月二十五日、訃報をきいた。

萬事休焉、私を見舞いに来てくれた人たちの前で、私はそのショックを隠せなかった。



 私の枕許には彼の手紙の何通かが置かれていた。会いに行けない悲しさを、その手紙を読み返すことでまぎらはせていたのである。


 その一通、昭和六十二年十月三日付


─ 陛下の御不例でさぞかし御心痛のことと存じます。


  小生も到頭限られた命運となりました。


  なすべき仕事、なさねばならぬ仕事が山積みしておりますのに。


  世界万民の幸い、世界万邦の協和の為の昭和は、小生の人生の始まりであり、揺藍でもありました。


  
そして勤皇まことむすび、神兵隊事件公判記録によってし傾注していったのです。


  小生の思想、人生観等すべては先輩におそわり形成され


  影響されて今日にいたりました。


  今小生は肺癌と云う、それも手術も極めて


  困難な状態にあります。


  医師にすがりついて手術をお願いしております。


  それによって唯の六ケ月程の命の延長をも祈念しております。


  その余命の続く限りを歯をくいしばって、


  小生のすべてである先輩のことを筆にしたいと決心しました。


  昼夜となく激しい痛みがおそいかかり、


  気が散り、なかなか文章がまとまりません。


  余命を燃焼させてでも仕上げたいと思っております。


  然し先輩と小生のことを色々書き出そうとしても、


  なかなか書けないのです。


  それは小生のここ数年間の心身の疲労困憊と


  世俗的労苦がわざわいしてのことかと思はれましたが、


  それがそうでなく、先輩と小生が余りにも一体化してしまい、


  直結してしまった関係の為だとサトりました。


  でも小生は獄中で孤独苦痛にも忍耐克苦して、


  さして失敗も敗北もせず孤高を維持し得たことを


  先輩の御蔭だと自負しております。


  唯先輩との今生のお別れのことを思ふと、


  たへがたくしのびがたく、身も心もさいなまれる思いにされます。


  今年は8月22日に愛宕山に先行同志のみたまに


  お参り出来たことを本当に僥倖に存じます。


  高橋さんとの仕事も軌道に乗せなければなりません。


  命は短く、やる仕事は多多です。


  先輩、何卒お酒を節酒して下さい。お願いします。


                余不備


  十月三日         朴鉄柱拝呈





その一通、翌年の八月十五日付





  謹啓 残暑尚きびしき折、先輩の御清安をお伺い申上げます。


  先般は名古屋、大阪経由で帰国しました為、御挨拶を申上げず、


  失礼をいたしました。おわびを申上げます。


  この頃は、無理をした為か、激しい痛みにみまわれております。


  カゼをひいていないのに、胸部脊椎にひびく咳のため、大変苦痛です。


  たとへ肉と骨が癌に蝕まれようと、死ということを余り意識せずに


  今まですごしてまいりましたが、段々不安を感ずる様になります。


  それも借金をかかへているからだと思います。


  今は一日でも早く借金を返さなくてはといふ気持ちです。


  先輩、私は今まで経済的に楽なゆたかなくらしをした記憶がないのです。


  いつも資金に追い立てられて来ました。


  然し、死ぬ前には必ずお返ししなくてはと決心しております。


  なまじっか私ごときが運動の道に入ったのがまちがいだったのでせうか。


  私ごとき無能な人間が、人生の選択を間違ったような気がしてなりません。


  暑中見舞いのつもりが不躾なことを申上げて申訳ありません。


  今日は八月十五日、終戟の日です。私にも感慨無量です。


  今丁度ドキュメント神風上中下三冊を読み了へたところです。


  アメリカの側で書いたものですけれど、大変感銘深く読みました。


  八月二十二日には参拝出来ません。悪し からず御諒承下されたく。


  来年のその日まで、この命が生きながらへればと、


  淡い悲願をいだいてみました。


  先輩の御健康をひたすらにお祈り申上げます。


                 敬具


   平成元年八月十五日





 そしてもう一通、同年十月七日付





─ 謹啓 死期が眼の前に来たような感がいたします。


  下半身の麻痺が上半身にまたがりつつあります。


  下半身の麻痺は六つ目の背柱癌によるものですが、


  頚すじの癌がこうじれば、胸も腕も皆だめになるそうです。


  死に対決して、さして恐怖とか悲観はしておりません。


  唯自責の気持にさいなまれ、死ぬにも死ねない気持ちです。


  私は二十三才で先輩のところに参り、今日まで、  先輩に寄りそい、先輩の御思想にかなふべく、


  一生懸命に考へ行動して来たつもりです。


  そして私は、貧苦に堪えながら生きて来たのに、  借金と云う大きな悪をおかし、為に罰せられ、


  なやみつづけております。


  ふりかへって私の一番幸せであった時代は、


  宮づかへしていたときと、中根町の時だけでした。


  あとは皆、苦難とイバラの道でした。


  ねたまま天井に向って原稿をかきつづけております。


  腕のマヒが来ればそれも出来なくなります。


  先輩には御負擔と御迷惑ばかりお掛け申上げ、


  心からおわびを申上げます。


  御迷惑をお掛けした方々、御世諸になった数多くの方々に、


  もはやわび状も御礼状も書いて差上げる気力もありません。


  本当に申訳ない人生でした。


  最後に先輩の御清安と家族皆様のおしあわせを祈り上げます。


  さやうなら。


   平成元年拾月七日    朴鉄柱謹呈




 この八月十五日付、十月七日付二通は墨筆で記された美しい文字で、懸命に起き上り、机に向って書かれたものであることは間違いない。

最後の遺書のつもりであろう。


 どちらもキチンと正しく「平成元年」と書いてある処に、彼の志が見られる。

臣属することを「正朔を奉ず」と云うが、韓国の朴鉄柱は正朔を奉じ日本の元号を用うることによって、自分が天皇の臣民であるという自覚と信念を最後まで貫通したのである。


 そして「さやうなら」。日本人が使うことを忘れた正しい日本語の假名使いを以て真正日本人新井清資が我々に久遠の別れを告げたのである。



 そして、本当の最後の絶筆として私の許へ届いた十一月二十二日付の手紙は、臥たままボールペンで書いたもので、字の乱れのみならず、心の乱れも蔽い難く、そのまま此処に紹介することは差控えたい。その末尾は、


  今は文字通り文無しできれいさっぱりです。


  お心待ち申上げております。


                 朴生


の二行で終っている。




 最後の一行、「心待ちしている」という彼の気持が私には痛いほどわかる。私がもう一度馬山に行くと約束していたのに来なかったからである。

俺も病気で行けなかったのだと弁解しても空しい。もっと早く行こうと思えばどんなことをしても行けたではないかという悔恨は限りない。



 先輩より先には死なぬとあんなに繰返し言っていた朴鉄柱が悶々として先に死んで行った。

私は死に水をとってやることも出来ず、後顧の憂いを取除いてやることも出来なかった。


 心残りで死ねなかったであろう。

無理やり死神はこの男をつれ去ったのであろう。

悠々として大往生するような最後ではなかったであろう。

「きれいさっぱり」は物的なことで、心境はとてもきれいさっぱりになれなかったであろう。


 虫の息でもよい、生き続けてやり抜かねばならぬ仕事がある。

天下国家の夢もあり、不義理や愛する者に対する心配もある。

偉そうな死生超脱の境を語る余裕はなかった筈だ。

最後まで煩悩妄執に悩んだであろう。瀕死の病人を身ぐるみ剥いで行った連中を憎んだであろう

。助けてくれと神々に哀願したであろう。誠実なるが故に哲人ぶることは出来なかった。

責任を放棄して安楽を求めることが出来なかった。それが聖人でも英雄でもない一個の熱血漢、純情児、朴鉄柱のありのままの姿なのだ。



 それでよいではないか。橋本左内先生は首を斬られる前に?然として泣いたというし、大楠公兄弟も、罪業深き悪念なれどもと云って、極楽往生を拒否された。

朴鉄柱が淡々として帰するが如く昇天したら却っておかしいのである。



 朴君が私の所に飛込んで来てから四十六年。奇しき縁であったが、死水をとれなかった無念を別にすれば、すべての事に悔恨のない交りであったと言い切れる。



 六十一年の二月、私の亡妻が獄中の私に寄越した手紙の一部が「中村統子の愛」という本に編集されてその出版記念会が催された時、たまたま東京に来ていた朴君が会場に来て「いや知りませんでした、偶然です。奥様のお招きです、有難いです」とニコニコ笑っていた顔を思い出す。


 その時、小田村寅二郎氏が彼の人柄を皆に紹介して祝辞を求め、彼が照れながら私の妻の思い出を語り満場をホロリとさせたあのま心のこもった挨拶も忘れられない。



 愛宕山の祭典にも参列したことがある。死を倶にし得なかった終生の恨事を涙声で語って、多くの参列者に深い感動をあたへたことも思い出される。



 これはもう助からぬ生命だと知った私が、家族や最も親しい友を招いて、ひそかなる別離の宴を催したことがある。

みんな私の気持を察していたが本人は気づかない。

園田天光光夫人も来てくれて、四十年ぶりの再会に言葉もなく感激していたのであるが、朴君自身はいはば生別又兼ヌ死別ノ時などとは思はず、これからまた度々お目にかかれると思いますと言って幸福感にひたっていた様子が私の瞼の裏に残っている。



 私の人生は中村とともにあったと彼は述懐しているし、私も満腔の友情をこめて、君と知り合い交り得たことを感謝す
る。



 私が病院を出たのは二月の四日であったが、馬山の郊外に彼が生前購っておいた墓地へ詣で、預けられている遺骨の壷に対面したのは十二日であった。

晩年の彼に侠援を惜しまなかった松本州弘氏たちと同行し、初対面の朴君の長男たちが迎えてくれた。


 日本で朴君とともに祝った神武建国の日、紀元節の翌日である。

佳い日だった。空は紺碧に晴れわたり、風は冷たく爽やかである。

礼拝堂で私は即席の祭文をたてまつり、弔歌を誦んでその霊を慰めた。

次の通りの荒っぽいものであるが、長く深い刎頸の交りのいやはてに自然に迸しり出た真情として、朴鉄柱君は例の通り顔をクシャクシャにして頷きながら聴いてくれたと思う。

  祭 文


       平成二年二月十二日於馬山





 平成二年二月十二日、神武建国記念の日、紀元節の翌日、松本州弘君をはじめ心深き有縁の人々とともに韓国に来り此の地に詣で、謹みて故朴鉄柱君の墓前に白す。

 二十数年前、葦津珍彦先生初めてソウルに於て朴鉄柱君に会ひ、その風格に感嘆して曰く、これは鶏林八道第一等人なりと。当時君はソウルに日本文化研究所を設け、優秀なる学生を周辺に集め、烈々として日本文化を講じ、日韓一つとなりて亜細亜の復興に邁進すべきを説く。

当時は既に朴正凞政権の下にありしが、日本文化研究所は李承晩政権の猛烈なる反日政策の中に開設、仮借なき迫害を最初より免れざりき。

しかも君は昂然として明治天皇の大御心、西郷・頭山の精神を以てせざれば韓国は統一されず、亜細亜は復興せずと大声叱呼してやまず。

これを以て如何に弾圧さるるとも妥協せず、投獄拷問さるるとも退転せぎりき。当時日本に於て、明治天皇の大御心を仰ぎ、西郷隆盛、頭山満の精神を説きし者幾人かある。


 朝鮮動乱の起るや、北鮮軍の君を索むる急、君は屋根裏に隠るること十数日、僅かに九死に一生を得たり。


 まことに鶏林八道人多しと雖も、眞に日本の文化と歴史を理解し、國體と神道に共感する者、朴鉄柱君の如きは稀なりき。

君は最も熱烈なる韓国の愛国者にして、祖国の独立と平和を念願したり。然りそれ故にこそ、その情熱を以て日本を見つめ、日本を愛し、日本を知ること日本人より深く、日本との渾然一体なる友好の中にのみ祖国の発展とアジアの復活を夢みたり。

その思想は心ある日本人韓国人の共鳴を得たりと雖も、多くの日本人韓国人より拒否せられたり。

君の周辺に於て君を支持する者少く、肉身親戚よりも疎外され、嘗ては両班の秀才として恵まれたる境遇にありし者、いつしか異端者として白眼視され、全く郷党に容れられぎりき。君は卓越せる識見を有したれども、経済の能力乏しく、

その思想と文化活動のために自らの財産を蕩尽したる後は、日本文化研究所を解散し、一介無力の浪人として日本と韓国の間を往来し、何とか経済的基盤を整へんとして苦慮し続けしも、計画するところ悉く挫折し、人に欺かれることのみ多く、僅かに残りし祖先の土地も奪はれて、悲しい哉、心ならずも人の信用を裏切り、結果に於て人に迷惑をかけ、汚名拭ふ能はぎるに至りしは、人の性(サガ)、世の習い、避けんとして避け難きものにしあれども、あたら好漢朴鉄柱君のために我ら慟哭せざるを得ず。


 しかもこの七転八倒の苦しみの中にありて一点輝き通して消えざりしは、君の一個の純情なりき。

大東亜戟争の末期、突如として韓国より我が浪宅に現はれし君が、日本人新井清資として家族の一員に加はりし日より、日韓の国の歩みも、我ら一人一人の歩みも、四十五年、明暗交々、悲喜交々、感慨限りなし。異国に生れながら、心の交り斯くも深きか。

人間の縁の不可思議、霊妙言うべからず、その間区々たる利害得失の如き何ぞ算ふるに足らん。


 懐かしき人々、次々に先立ち逝き、君が姉の如く慕ひし我妻和加子も幽明境を異にしたり。

我が妻は、君のすることを見て何と世渡りの下手な、何と無器用な人かと云ひて笑い且つ心配しながら、君の善意と友情を最後まで信じて疑はざりき。

我、今、君の墓前に於て去来する感情の究極もまた、妻のその君に寄せたる信頼と愛情の外になし。


 我はたゞ、我果して君に友情を尽したるかを反省し、忸怩たらざるを得ず。

況んや、死期迫れるを自覚し、蹌踉として日本に来り、二重橋前に平伏して御不例の御恢復を祈り、先帝陛下の御大葬の日には雨の中に佇立して満面涙と雨に濡れて御見送りせし韓国人朴鉄柱の熱き心、気高き姿を想ひ出す時、及ばざること遠き日本の同志の現状、我ら自らのみにくき姿を慚愧して、まことに生くるに堪へざる思ひあり。


 君は不運なる晩年を過し、悪戦苦闘、遂に敗れ、悲しき最期を遂げたり。

しかし、今はまた何をか云はむ。

すべては消え去りたる今、なほ君を忘れざる同志友人日本に少なからず。

今日吾が最愛の人たちに導かれて君の墓前に我ら額つくを得たり。

松本州弘と中村武彦が君の墓前に来り額つくことは、いかなる名僧知識の読経よりも、供養よりも、

君足するものなることを信じて疑はず。


 高天原に参上り給ひし貴く清き新井清資彦之命、朴鉄柱君の忠霊、莞爾として我らの捧ぐるま心を享け絵へ。


   献 朴鉄柱君霊前  (無韻無平仄)


        平成二年二月十二日


        於 馬山公園私設納骨堂


新井清資朴鉄柱 呼名憶念涙満襟


朴直清節鉄石志 誰疑真正日本人



浮沈泥海六十年 大志挫折逝陋巷


今朝雲晴馬山峯 春風駘蕩英魂朗



君是韓人而皇民 貫得勤皇初一念


悪罵嘲笑似蝉噪 日本知己哭墓前


喜びも悲しみも消え爽かに たゞ涙ぐみ君を弔ふ


心許すよき友たちとから国の 馬山の墓に詣で来にけり



二人して一人ぞ一つ仕事ぞと この眼鏡もて君は教へしか


 (墓に向う途中老眼鏡を失いて甚だ困りしに、墓参を終るや図らざる所より発見、不思議なる体験なり)



 書き来って恥多し。新井清資―朴鉄柱という稀有の人物を私の極めて主観的情緒的な気持ちで回想したに過ぎず、読んでいただいても朴君の全貌、その真実は一向に浮び上って来ないであろう。


 ここには彼と私の二人だけの小さなカラの中を思い出すままに書いた。

多くの同志友人とのかかわり、殊に彼に男の友情を尽し、私もよく知っている人たちのことを、書き出すとキリがないので故意にカットした。

まして、彼の語るを好まなかった家庭関係や、仕事の内容、挫折の様子については一切触れなかった。

人間誰しも覗かれたくない面はあって当然だし、どうでもよいことに野暮な詮索をするのはナンセンスであろう。


 それでもこんなに冗漫な、長い文章になったことを恐縮せずにおれない。


 朴君が葦津先生に勧められて書き出した「日本と私」と題する自叙伝は、劇痛をおして書き進め、幼少年期を過ぎて日本本土へ渡り私の所へ来る頃までは、原稿用紙の桝目を几帳面に埋めて、内容も整っているが、衰弱の進行とともに机に向って書けなくなり、仰向けに臥たまま付添いの尹石順さんに持たせた紙に向かって書くのであるから、文も乱れ字も乱れて来ている。

判読し難い個所も可なりある。亡くなってから私に渡された時は、ページ数もうってないからやむを得ないけれどもひどい乱丁状態で、順序を正して整理するのに一苦労した。


 戦前の東京生活が主で、後半生、ソウル時代馬山時代については殆んど及んでいない。

折角の最後の作業が未完に終ったのはまことに残念であるが、やはり随所に彼の喜びや悲しみ、信念や訴えが語られており、清高な彼の一生
を知る貴重な手記だと思う。


 朴鉄柱最後の一念をこめた絶筆である。これをどうするか、友人諸兄の御意見に従いたいと思う。

名もなき韓国人が瀕死の身を氷雨に濡れながら、泣いて昭和天皇に御別れをした真心とは

2018-12-21 15:49:13 | 日記

何かおかしいよね、今の日本。

右翼と呼びたきゃ、それも結構


名もなき韓国人が瀕死の身を氷雨に濡れながら、泣いて昭和天皇に御別れをした真心とは


2018-04-03 05:50:22

テーマ:歴史


日本人にとって朝鮮人といえば「敵」ともいえるほど反日であり、過去の日本の”恩”を感謝することなく、いつまでもたかり続けるタチの悪い乞食民族である。


しかし戦前の朝鮮人には台湾人と同じように日本を理解し、今でいえば日本人以上に日本人といえる朝鮮人がいた。


朴鉄柱(ぼく てっちゅう)。

私はこの方は日本の教科書で教えるべきだと思う。・・・


朴鉄柱は大正11年に釜山市で生まれ、大東亜戦争下で日本の皇典講究所を卒業し、釜山の龍頭山神社や新羅時代から関係の深い下関の住吉神社に奉職した。


朴は学生時代から『古事記』『日本書記』を通して、日本の建国や皇統に深い関心を寄せていたため、神社に奉職することは何のためらいもなかった。

戦後は朝鮮に帰ったが、李承晩の反日政権下で苦汁を嘗めさせられ、日本の学校を出た者は「民族反逆者裁判条例」で追放された。


そういう中、朴は朝鮮戦争が終わる昭和29年にソウルで「日本文化研究所」を設立した。


当時は日本でも敗戦のショックが覚めやらず、自国文化を否定して罵倒する言論がまかり通っていた頃であり、その頃に韓国で日本の精神や伝統や國體の研究の運動をしていたのであった。


この研究所には学生会館があり、常時25人から30人が共同生活しながら朴所長の講義を中心に勉学に励んだ。会員はソウルだけで1200名がいた。


朴は著書『日本と韓国』を刊行し、「日韓安定のためには、日本は古事記にさかのぼって日本の本然の姿を取り戻すべきであり、韓国は韓国形勢の根源を知らなければならない。

秀吉の“朝鮮征伐”や“日帝36年”などは長い日韓の歴史からすれば派生的なことに過ぎない」とした。


反日感情の強い韓国でこういう運動をしていたのは奇跡に近く、やがて「反共法」にひっかかり、朴は裁判にかけられ、著書は全部没収、焼却され、3年半の刑と「日本文化研究所」解散命令が出された。


朴は刑期を終えて釈放されてからもKCIAの査察を受け、何度も投獄された。それでも初一念を曲げずに運動を続けるが、資金はなく、赤貧洗うが如しだった。


朴の建物は荒廃して目も当てられない状態だったが「これで松下村塾なみになりました」と笑っていた。


朴は吉田松陰のような生き方を以て日韓の懸け橋になろうとした。


そして朴はこのように発言したが、現代の日本人にこそ聞いてほしい内容である。

「韓国から日本を眺めていると、日本は“心”という字に見える。大きくは北海道、本州、四国、九州と“心”という字に並んでいる。


日本は素晴らしい。

万世一系の御皇室を戴き、歴史に断絶がない。

神道が現在に至るまで相続され、国家全体が調和されている。八紘一宇という考え方は日本の大らかさの現れであり、これは積極的に世界に知らせる必要がある。


それに比べ韓国の歴史はあまりにも悲惨であって、断層が深く、涙なくして見ることは出来ない。

暗い場所から見れば明るい場所は余計にはっきり判る。韓国は日本の文化の豊かさから学ぶことによって内面的支柱を確立するように努力したい。



韓国の“檀君神話”といっても、韓国は日本のように統一した一つの神話になっていない。

それに日本の神話は檀君神話より400年も前にまとめられた。


第二次大戦後の日韓関係は李承晩政権の影響もあって共産主義以上に日本を憎む傾向があった。

そのため日韓の氷山の一角だけを誇大に強調して、隠された部分を見落としていた。

お互いに精神的歴史的豊かさを掘り起こし、日本は自信を取り戻して、おおらかな民族形成の原点に立ち返ってほしい。


現在の日本人の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだのは日本である。


それまでの日本はアジアの希望であり誇り高き民族であった。


最後はハル・ノートを突きつけられ、それを呑むことは屈辱を意味し、“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが開戦時の心境であった。

それは日本人の武士道の発露であった。この武士道は西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。


それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。この二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。


大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗れたのはむしろ英国をはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争で植民地全てを失ったではないか。


戦争に勝ったか敗けたかは戦争目的を達成したかどうかによって決まるというのはクラウゼビッツの戦争論である。

日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ聖なる戦争であった。


ある人は敗戦で日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。


二百数十万の戦死者は帰ってこないが、英霊として靖國神社や護国神社に永遠に生きて国民尊崇の対象となるのである」。


その後、朴は半身不随の大病にかかり、長い闘病生活の末、回復すると来日した。


また平成元年1月、先帝陛下の崩御では、朴は重い足を引きずって東京にやって来た。先ず二重橋の砂利の上にひざまづき、しばらくの間、頭を上げなかった。


御大葬の日には、雨の中を早朝から皇居前の列に加わり御見送り申し上げた。



名もなき一韓国人が、瀕死の身を氷雨に濡れながら泣いて先帝陛下に御別れをしたその悲しい真心こそ本物であった。



平成2年1月25日、朴は万哭の思いを抱きながら韓国の馬山で息を引き取った。68歳であった。



・・・・・

底が抜けた韓国経済、文氏の支持率低下は「国民の悲鳴」

2018-12-21 15:06:52 | 日記
勝又壽良
Sent: Monday, December 10, 2018 5:00 AM


Subject: 底が抜けた韓国経済、文氏の支持率低下は「国民の悲鳴」

GDPで見た内需はマイナス

文政権は、こうした最低賃金引き上げや労働時間短縮が、「労働者天国」に通じる道と信じています。

現実は、全くの逆であり労働者を「地獄」へ突き落とす結果となりました。それが失業率の上昇に現れています。この経済的な損失は、GDP統計に表れています。



韓国銀行(中央銀行)が12月4日に発表した7~9月期の実質GDP成長率は、前期比0.6%(年率換算2.42%)成長です。

だが、中味を見て愕然としたのです。

7~9月期の純輸出(輸出-輸入)が、1.9%ポイントも寄与した一方で、内需の成長率がなんとマイナス1.3%ポイントも足を引っ張っているのです

。内需とは、個人消費・設備投資・公共投資などです。要約すれば次のようになります。

7~9月期は、純輸出が韓国経済を押上げ、内需が逆に足を引っ張るという最悪事態に陥っているのです。その原因は、最低賃金の大幅引き上げによる失業率上昇だったのです。

問題は、この状態が、この4~6月期も起っていたことです。

4~6月期は前期比で実質GDP成長率は0.6%。純輸出寄与度が1.3%ポイント、内需寄与度がマイナス0.7%ポイントでした。

7~9月期の内需寄与度は、マイナス1.3%ポイントであり、前期よりも悪化しているのです。

これは、韓国経済の内需は底が抜けた状態になっていることです。

この重大事実を誰も指摘しないで安閑としている。信じられない現象が起っているのです。

韓国は「泥船経済」と呼んで差し支えありません。半導体輸出の急増だけで保っている経済で、危機的な状態に落込んでいます。

経済音痴の大統領府秘書官達

文政権は、この事態を認識していません。大統領府の秘書官は、その前身が学生運動家です。

経済についての基礎知識を学ばす、「チュチェ思想」に心酔していた「闘士」です。

大統領府が、この事態を受けて、政府官僚に対策を相談すれば良いのですが、彼らは官僚を軽蔑しています。

「頭でっかち」(知識偏重)という認識です。

秘書官は、闘士であるので実践経験に富んでいると錯覚しています。

官僚が、文大統領に直接、説明したくても秘書官の目が光っていてその機会がない。メディアに対して、こう愚痴をこぼすほどです。

文大統領と大統領府の秘書官は、経済の実態が悪化していることを知らないはずがありません。

文大統領の執務室には、経済統計の大きなパネルが持ち込まれています。大統領は、そのデータ悪化の理由として、次の二点を重視しているようです。

第一は、前政権の経済政策が間違っていたので、タイムラグを置いて現在に現れている。

第二は、韓国の不公正な経済構造を糺すには、最低賃金の大幅引上を継続することが絶対条件である。ゆえに、現行の最賃大幅引上げ政策を継続する。「良薬は口に苦し」であるから、我慢して「服用」すべし。

以上のような二点は、文政権が現在の経済政策に固執する背景と言えます。

ここまで来ると、「チュチェ思想」が文政権へ乗り移ったような感じです。盲信と言えるでしょう。

不況がもたらす支持率の低下

前述のように、韓国のGDPは内需寄与度がマイナスになっています。

これは、企業も個人もすべてが、文政策の被害者と言える状況です。当然、文政権への支持率が下がります。

11月末の世論調査では支持率が、大統領就任以来の最低(50%割れ)を記録しました。ここで、韓国のどのような層が、不支持に転じてい

るかを見ておきましょう。それは、20代、慶尚道地域、自営業者の支持離れが決定的と指摘されています。

政界からは20代、慶尚道地域、自営業者の支持離れ現象について、「イ・ヨンジャ現象」と呼ばれているそうです。

20(イーシプ)代、慶尚道の別称である嶺南(ヨンナム)、自営(ジャヨン)を組み合わせた造語でいずれも、文政権の最賃大幅引上げで被った経済的被害の大きい層です。

20代は、朴槿惠・前大統領罷免のデモ(通称ロウソク・デモ)の先頭に立ちました。だが、文大統領の政策でアルバイト口はない。就職は困難という事態に直面しています。

自営業者も自分たちの生活が最賃で破壊されました。慶尚道地域は、不況産業の増加で失業問題が深刻化して、地域経済が疲弊しているのです。

文政権は、確かに経済政策面で朴政権より劣っています。

また、「積弊一掃」と称して、朴政権の関係者の人権を無視する執拗な捜査で数人の自殺者を出すなど、弊害が目立っています。

こうして、「やっていることは前政権と違いない」との批判まで出ているのです。文政権が支持率を急激に下げている裏には、以上のような理由が挙げられます。

支持離れ「イ・ヨンジャ現象」

『朝鮮日報』(11月30日付)が、興味あるデータを示しました。

世論調査会社のリアルメーターは11月29日、釜山市、蔚山市、慶尚南道(PK地域)での文大統領の支持率が37.6%まで低下したと発表しました。

9月第1週の62.7%から2カ月で25ポイントもの低下です。エスカレーターで下がるようなものでした。

同じ期間に、全国支持率は65.3%から48.8%へと17ポイントの低下でした。

このことからPK地域での支持離れが目立っているのです。PK地域は、伝統的に保守勢力の強い場所ですが、文在寅候補は地元出身であるので支援しました。

現在は、同じく保守色が強い大邱市・慶尚北道と同様に支持率(34.8%)が急激な低下を示しています。文大統領の「地元プラスα」というご祝儀はないのです。

『朝鮮日報』(12月3日付)は、文政権の支持率低下が急激であると報じました。

世論調査機関リアルメーターが12月3日に発表した世論調査結果で、文大統領の支持率は全体で48.4%と大統領就任後最低を記録しました。

ここで20代、慶尚道地域、自営業者の支持離れである「イ・ヨンジャ現象」について具体的に見ておきます。
    
12月3日  10月1日 
        支持率低下幅(ポイント)
自営業者 37.8%  60%(全体65.3%)   22.2(全体の下落幅16.9)
慶尚道地域                    20
20代                      14

以上の「イ・ヨンジャ現象」の中では、自営業者の支持率下落が際立っています。このことから分るのは、自営業者が最賃大幅引上げの最大被害者であるのです。

自営業者が悲鳴上げるも見殺し

韓国統計庁によると、全就業者のうち自営業者の占める割合は次のように極めて高くなっています。

2007年は25.7%(604万8000人)

2017年は21.3%(568万2000人)

韓国の自営業者の割合は、2017年にやや減少しています。それでも、経済協力開発機構(OECD)加盟国37ヶ国・地域のうち5位です。

自営業者のウエイトが高いのは、産業構造に未成熟部分のあることを示しています。近代的な雇用関係が十分に発展していない証拠と見られるのです。

データは違いますが、日本の国民所得統計に占める雇用者所得と個人業主所得のデータによれば、昭和9~11年(1934~36年)当時、個人業主所得比率は31%台です。

現在の韓国を見ると、今から80年以上昔の日本の姿に戻ります。

こういう雇用構造で、最賃だけを大幅に引き上げれば、大混乱が起って当然でしょう。

韓国では、老後に「お店」を開くことが夢だそうです。元韓国外交官が、「日本うどん店」を開

店して話題になりました。

韓国経済の内需は、「凍結」状態に陥っています。これを「解凍」するには、2019年からの最低賃金引き上げ率10.9%を中止するほかありません。今年の引上げ率16.4%ですら、これだけの混乱を生んでいます。

文政権は、この混乱している現実を直視すべきですが、「チュチェ思想」に染まったままで、撤回はまずあり得ないでしょう。

金正恩訪韓で支持率上げ狙う

この裏には近々、北朝鮮の金正恩氏が訪韓するので、文大統領支持率は一時的にでも回復することが見込まれるからです。

これが間違って受け取られると、「文政権の経済政策は国民の支持を得ている」という錯覚に陥ります。

その間に、韓国経済の危機は一段と進行します。すでに、今年の7~9月期の実質GDPは、年率換算で2.4%台に落込んでいます。このまま進めば、2019年は2%を割り込む事態が予想されます。

韓国は失業者の群で埋まる危険性が出てくるのです。

経済危機の進行は、合計特殊出生率の低下という韓国の未来を揺るがす事態を招きます。今年7~9月は0.95人と史上最悪になりました。

人口が横ばいを維持できる合計特殊出生率は、2.08人です。現状は、かけ離れた水準に落込んでいるのです。

理由は、生活苦に伴う結婚見送りと、教育費がかかることから出産を控えていることによります。文政権は、出生率低下という形で、自らの経済政策の失敗が韓国の将来を危険にさらしています。

“元徴用工”ブーメランに文在寅大統領は?約1100人が韓国政府を提訴へ

2018-12-21 14:33:18 | 日記

“元徴用工”ブーメランに文在寅大統領は?約1100人が韓国政府を提訴へ


12/19(水) 20:39配信

FNN PRIME


“元徴用工”ブーメランに文在寅大統領は?約1100人が韓国政府を提訴へ


文政権発足以来最低の支持率45%に

去年の政権発足時84%もあった、韓国・文在寅大統領の支持率は、政権発足以来最低の45%に落ち込んでいる(12月14日発表)。

最高裁判決が“ブーメラン”に!文在寅大統領は日本の国会議員に…

こうした中、韓国の“元徴用工”が韓国政府を提訴へ・・・。
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“元徴用工”ら約1100人が20日韓国政府を提訴へ

20日の提訴に加わるのは、日本企業で強制労働させられたと主張する韓国人とその遺族、約1,100人だ。

原告の代表はFNNの取材に対し、もともと2~300人程度だった原告団の数が、今年10月の韓国・最高裁での判決以降、大幅に増えたと話す。

そして原告団代表は、「現政府が大法院判決を進めたのは、日本との過去の歴史問題を浮き彫りにするためだと思われるが、ならば先にわが政府が堂々とするためには、政府が使った日韓請求権資金についてどうするのか、被害者たちに立場を発表するのが先だと思う」と語った。
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日韓請求権協定で得た日本の援助をもとに「韓国政府が補償を」

20日提訴する原告側は、1965年の日韓請求権協定で日本が負担した経済援助をもとに、「韓国政府が補償すべきだ」と主張。

1人当たり日本円でおよそ1,000万円、総額110億円の支払いを韓国政府に求めるとしている。

原告側が提訴の根拠としている日韓請求権協定。

そもそも日韓の国交正常化交渉で韓国側は、

「(韓国人被害者への)補償は私たちの国内で措置する性質のことだと考える」

「私たちは国内措置として私たちの手で支給する。日本側で支給する必要はないのではないか」

と主張していた。

そして「日韓請求権協定」では、日本が韓国政府に5億ドルの経済支援を行うのと引き換えに、補償問題は「完全かつ最終的に解決された」と明記された。

韓国政府は、5億ドルの一部を元徴用工らに支給したものの、大部分はインフラ事業に使った。

ソウル市内から北東へ85キロ離れたところにある、昭陽江ダムもそのひとつ。

ソウルの水がめとなっている巨大なダムだが、これは日本からの多額の支援を受けて建設された。


ダムで会った女性は、「謝罪の代わりに日韓協定でお金をもらったことは知っているがそれでダムを造ったことは知らなかった」と語った。


FNN PRIME


提訴にソウル市民は…


今回、日本企業ではなく、韓国政府に対する補償請求の動きが表面化したことに、ソウル市民に聞くと…

「個人的には韓国政府が補償するのが正しいと思う」(60代男性)

「韓日両政府が協力して一緒に損害賠償するならいいと思うが、韓国政府が全ての責任を負うのは違うと思う」(20代女性)
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「司法を尊重する」とする文在寅大統領は…

今月14日、文在寅大統領は、韓国を訪れた日本の議員連盟との会談で、日本側に賠償を命じた最高裁判決について「司法を尊重する」としていた。

今後に向けて、拓殖大学の武貞秀士任教授はこう指摘する。

「元徴用工の人々の矛先が文在寅大統領に向くわけですから、文在寅大統領としては意外、想定外のこと。
(請求権協定が定めた)まさに正論をそのまま行くような韓国政府に対する訴えになる」

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プライムニュース イブニング




貿易戦争で疲弊する中国、改革派が追い詰める習近平

2018-12-21 13:53:34 | 日記

貿易戦争で疲弊する中国、改革派が追い詰める習近平

勝又ブログ

4大陰り現象は解決困難

合意書の焦点が4点ある

最強固派の習氏には打撃

「中所得国の罠」脱出?

来年経済は波乱の幕開け


12月18日は、?小平によって始められた「改革開放」から40年たった記念日に当ります。

中国経済が破竹の成長を始めたのは、1978年12月18日です。

と小平は、中国経済の市場化を目指しましたが、党内には「市場経済」という言葉に強い拒否感があり、これをなだめるべく市場経済に「社会主義」という形容詞を付けるほどでした。

社会主義=計画化によって市場経済をコントロールする意味です。

4大陰り現象は解決困難

過去40年間の平均成長率は、9.8%にも達しました。

世界に例のない高度経済成長を実現しましたが、その裏には多くの問題点を抱えています。

1.

環境破壊の凄まじさです。大気汚染を筆頭にして、土壌汚染や水質汚染など「環境崩壊」という言葉がふさわしいほどです。

農村部には、「ガン村」と言われるように特定地域で集中的に癌患者が発生しています。この「ガン村」が約3000箇所あると指摘されています。

2.

「一人っ子政策」によって、極端な少子高齢化が進んでいます。

一人っ子政策が、過渡的に生産年齢人口(15~64歳)比率を増やし、これが高度経済成長に多大の寄与をしました。

だが、合計特殊出生率(1人の女性が生涯に生む子どもの数)は、世界最低ラインに落込んでいます。

2015年に1.05人(人口の横ばい維持には2.08人が必要)まで下がっています。

日本を下回る状態で、将来の人口動態に危険信号が出ています。

現在は、この種の統計発表を中止するほど追い込まれています。

3.

不動産バブルによる過剰債務の発生です。

習近平政権になって、意図的に不動産バブルによって住宅ブームを引き起こして、景気のリード役に仕立てあげました。

国民は、住宅の高値に怯えて先を争い高額の住宅ローンを組み購入しました。

現在、これが家計を圧迫しており、個人消費鈍化の大きな要因になっています。

4.

不動産バブルは、中国経済全体に過剰債務をもたらしています。

中国の抱える債務残高は、対GDP比で260%以上に達しています。

これ以上は債務を増やせない。

そういう限界状況において、「信用収縮」が起っています。

金融機関が新規融資を渋る状況では、企業の資金繰りがつきません。

国有企業は、国有銀行から融資を受けられます。民営企業には日本のような「メインバンク」がありません。

非金融機関のシャドーバンキング(影の銀行)からの融資に頼っています。この脆弱性が、金融リスクを生み「地雷原」となります。

改革開放40年間の光が、平均9.8%の成長率としましょう。

その影は、誰でも前記の4点を挙げると思います。今後、潜在成長率低下の中で、これらの難題をどのように解決するのか。舵取りは極めて難しいのです。

合意書の焦点が4点ある

難題は、これだけではありません。

現在、米中貿易戦争が「休戦」とはいえ、米国政府から来年2月末までに米中首脳会談で合意した5項目(うち、1項目は実行中)の「合意書」を要求されています。

合意できなければ、米国の関税第3弾2000億ドルの関税率が25%に引き上げられます。米国は、すでに官報で告示しました。

米中で合意書を求められている項目は、次の通りです。詳細な説明は、「メルマガ11号」を参照して下さい。

1.米企業への技術移転の強要

2.知的財産権の保護

3.非関税障壁

4.サイバー攻撃

ムニューシン米財務長官は12月18日、関税を巡る米中間の休戦が終了する2月末までに「合意内容の文書化」に取り組んでいると『ブルームバーグ』のインタビューに答えています。この文書化が重大な意味を持ちます。

米中が目指す正式合意には、中国が取り組む構造改革のスケジュールや検証方法について、ムニューシン氏は「十分に具体的」な内容が盛り込まれる見込みだと語りました。

前記の4項目について、米国は単なる口約束で済ますことなく、構造改革のスケジュールや検証方法を盛り込まなければ、合意書を取り交わさない。

もし、中国がそれを渋れば、米国は3月1日に予定通りの関税率25%へ引き上げると通告しているのです。

中国は、関税第3弾の追加関税が引き上げられれば、経済に重大な影響が出ることを懸念して「休戦」を選び、5項目についての合議に同意した背景があります。

最後は、米国の意向に沿った合意書にサインして、米国の「軍門」に屈すると見るほかありません。

最強固派の習氏には打撃

この米中合意書が公表された暁に、中国国内でどのような反応が出るでしょうか。

米国の知的財産権を守って、強制的な技術移転を迫らない。

サイバー攻撃もやりません、などという合意内容になれば事実上、「中国製造2025」は宙に浮くでしょう。

その上、ファーウェイはイラン輸出規制違反によって、米国からソフトと半導体の輸出禁止措置を受ければ、ファーウェイの通信機製造がストップすると指摘されています。

「中国製造2025」の中核は、ファーウェイが担っているのです。

ファーウェイが、米国の制裁によって製造機能を大幅に制約される事態になれば、「中国製造2025」は中核を失ったのも同然となるでしょう。

中国の産業構造高度化計画は、とても2025年に達成できるどころか、「中国製造2035」になって2035年へずれ込むであろうという指摘もあります。

「中国製造2025」の推進役は、習近平氏と言われています。

習氏が米中貿易戦争に対して当初、強硬論を述べ「徹底抗戦論」を主張した裏には、米国が「中国製造2025」の棚上げを狙っていると見たからです。

そこで、自らのメンツに泥を塗られたと感じた習氏は、米国へ同等の報復策に出たものと見られます。

中国の経済官僚はここを問題視し、中国経済を必要以上に減速させたと批判しています。中国はまだ、米国と真っ正面から戦う経済力がない。こう冷静に判断しているのです。

中国の経済官僚は、米国へ留学した人々が多く、米国経済の実力を認識しています。

副首相の劉鶴氏や中国人民銀行総裁の易鋼氏も米国留学組です。

易氏の場合、米大学で終身教授の待遇を受けていたにも関わらず、その職を投げ打って帰国したと言われます。

習近平氏を取り巻く一握りの民族主義者グループとは、その視野が異な

ります。

ここで、一つのエピソードをお伝えします。『ウォール・ストリート・ジャーナル』(8月16日付)からの引用です。

「権威ある清華大学の何百人もの卒業生は、ある教授(注:胡鞍鋼教授)の解任を求める嘆願書を出した。

この教授が、中国の米国に対する優位性を誇らしげに主張し、当局者や市民を『ミスリード』したというのが理由だ。

この批判は、中国政府が対米関係で対応を誤ったとの見方を示唆している」

精華大学の胡鞍鋼教授と言えば、北京大学の林毅夫教授と並んで有名な「御用学者」です。

根拠もなく、中国経済は米国経済を抜くと言い続けてきました。

例えば、胡鞍鋼教授の場合、『かくて中国はアメリカを追い抜く』(PHP研究所 2003年)を出版しています。中身は薄っぺらなものでした。

習近平氏も精華大学出身です。

習氏の側近になっている胡鞍鋼教授の解任を求める嘆願書は、間接的に習氏への不信任と受け取られます。

そこで、胡氏は習氏の庇護を受けて解職の憂き目に遭わなかったものと見られます。

しかし、中国の経済改革派が、習近平氏による言論封殺の中で、堂々とここまで見解を述べていることは、習氏への批判が相当な規模になっていることを窺わせています。

中国経済がすでに、貿易戦争の影響を受け、冒頭に挙げた4つの問題点とオーバーラップして、中国の経済基盤を揺さぶっていた証拠と言えます。

現実に危機感が迫っていなければ、リスクを冒してまで反対の声を上げるはずもありません。

こういう状況下で、米中貿易戦争の「合意書」が公表されると、経済改革派が実権を握る局面になるように思われます。

「合意書」の内容が不明の時点で、このような議論は早計かもしれません。だが、中国政府は4項目を受託するとなれば、「経済政策の正常化」が進むことは間違いないでしょう。

具体的には、米国の技術窃取をしませんとか、強制的な技術移転を迫りません、という誓約書を出す以上、中国の経済成長率は低下するほかありません。

技術が手に入らなければ、設備投資をする必要もないからです。

ファーウェイも、米国のソフトと半導体が輸入できなければ、生産規模の縮小は必至でしょう。中国のハイテク化はスピードダウンを余儀なくされます。

「中所得国の罠」脱出?

習近平氏は、自らの権力基盤を固める意味と「中所得国の罠」脱出目標を掲げて6.5%以上の経済成長率目標を立ててきました。

「中所得国の罠」とは、1人当たり名目GDPが5000ドル~1万ドルに達した後、経済構造の高度化が進まず、長期にわたり1人当たり名目GDPが伸び悩むことを指しています。

中国の1人当たり名目GDPは、8643ドル(2017年)です。

これを1万ドル以上に引き上げて、先進国の仲間入りを狙っています。

それには、「中国製造2025」によって産業構造をハイテク化する必要がある、という判断です。

だが、他国の技術窃取や違法な手段でそれを実現しようというのは許されません。

中国の倫理感では、それが許されると見ているところに大きなギャップを感じます。米国は、今回の「合意書」によって、そのギャップを塞ぐと意気込んでいるのです。

「中所得国の罠」問題について、北京大学がまとめた報告書「中国経済成長報告2017年」があります。

今年1月初めに北京で発表されました。

それによると、2017~21年の5年間、中国経済の平均成長率は約6.5%になる。

そして、2023年前後に、一人あたり平均GDPは1万2500ドルの国際的ラインを超え、「中所得国の罠」を超越する、というものでした。

ここでのポイントは、6.5%成長が前提になっています。

中国政府が6.5%成長にこだわるのは、「中所得国の罠」脱出がかかっているからです。

問題は、2019年以降にどうなるかです。

中国政府の顧問やシンクタンクは、2019年の経済成長率目標について、6.5%前後としている18年目標から引き下げ、6.0~6.5%にするよう、指導部に提言している模様です。

米国との貿易摩擦などを背景に、中国経済のリスクが高まるとみている結果です。

来年経済は波乱の幕開け

来年の中国経済を見る上で重要な前提は二つあります。

第一は、貿易戦争が回避される場合です。中国が、米国に対して「満額回答」すれば、正常化します。

それは、皮肉にも習近平氏の敗北を意味し、中国の政治的な不安定化をもたらします。


まさか、騒乱が起るとは思えませんが、習氏の政治責任が問われます。

これを契機に、経済改革派が経済政策の主導権を握り市場化を進める姿勢を示せば、米中関係の修復は部分的には可能でしょう。

ただ、中国の謀略体質が暴露されたので、中国がグローバル化経済の枠組みに入ることはあり得ないでしょう。

一度、信義の面でも警戒された国が、短期的に信頼を取り戻すことは不可能です。

第二は、合意が旨くいかない場合、米国の関税第3弾が引き上げられます。中国経済は被害甚大で、最悪事態へ突入します。

信用機構の破綻は必至であろうし、人民元相場の暴落と外貨準備高の急減が起るでしょう。習氏の責任追及は一段と苛烈化すると見られます。中国経済は自滅への道を辿ると思われます。

以上、二つのケースを考えると、最悪で6.0%割れの成長。話し合いが付いた場合でも6.3%程度であろうか。

来年の中国経済は、極めて流動的であり明るい材料が見当たらないのです。