日韓併合110年…併合反対の伊藤博文を悪人と呼び、暗殺者を英雄視する韓国
デイリー新潮2020年08月23日17時00分
正しい歴史を学ぶことができず、垂れ流される政府の虚言
110年前の1910年8月22日――。当時、漢城と呼ばれていたソウルで、日本の寺内正毅・統監と韓国の李完用・総理が「韓国併合ニ関スル条約」に調印し、同月29日、日本が韓国を併合した。110年前の夏のことを
当時、韓国併合は日本国内で賛否がわかれていた。軍閥は併合を主張し、伊藤博文など文民は反対者が少なくなかった。
19世紀後半の李氏朝鮮では、日本の支援を受けて清国からの独立を求める開化党と清国との従属関係を主張する事大党が対立していた。
朝鮮国王高宗の王妃閔氏を中心とする政権は、日本の支援を受けて開化を進めたが、これに反発した兵士らが1882年7月、日本公使館を襲撃し、日本人軍事顧問や日本公使館員を殺害した。壬午事変である。
日本が兵を派遣すると、清国も属領保護を名目に軍を派遣し、日清両軍は反乱の鎮圧後も朝鮮に駐留し続けたが、清国は袁世凱を朝鮮国王代理とすることを朝鮮に強要し、朝鮮は清国に従属する度合いを強めていった。
日清戦争が起き、日本が勝利して李氏朝鮮は清国から独立し、1897年、大韓帝国が誕生した。
韓国の学校では、伊藤博文は韓国を併合した悪人で、彼を暗殺した安重根は英雄だと教えている。
正しい歴史を学ぶことができない韓国人は政府の虚言を信じるが、伊藤博文は併合に反対していた。
当時、山縣有朋や桂太郎、寺内正毅などの軍閥が併合推進を唱える一方、伊藤博文をはじめ、文民のなかには併合反対を唱える人が少なくなかった。
伊藤博文はロシアの南下を危惧していた。欧米列強が日本に軍を派遣しても、到達までに時間がかかり、日本は迎え撃つ時間を持つことができる。
実際、日露戦争は1905年5月27日から28日の日本海海戦が日本の勝利を決定づけたが、バルチック艦隊と呼ばれている第2太平洋艦隊は1904年10月、第3艦隊は05年2月にロシアを出航して日本に向かった。日本海軍は迎え撃つ準備を進める時間があった。
福澤諭吉は「韓国人は約束を反故にする」と書いた.
一方、韓国からなら、わずか一晩で日本に到達してしまう。伊藤はロシア軍が韓国に駐留する事態になることを恐れた。
伊藤博文は、韓国からロシアなど諸外国を排除するため、韓国の外交を制限する第1次日韓協約を締結した。
日露戦争で日本が勝利すると、日本が韓国の外交を直接指揮することを約した第二次日韓協約を締結して統監府を設置した。
軍閥は韓国併合を主張したが、伊藤博文は韓国を保護国化して国力がつくまで支援をすると主張した。初代統監に就任した伊藤博文は韓国の国力が高まることを期待して、文盲率が94%に上っていた教育支援に力を注いだ。
大韓帝国が成立した1897年、福澤諭吉は、韓国人は約束を反故にすると時事新報に書いている。
「かの国人に対して如何なる約束を結んでも、背信違約は彼等の持ち前で、意に介することはない。
既に従来の国交でも経験したところだが、朝鮮人相手の約束は最初より無効のものと覚悟して、臨むほかはない」(『時事新報』明治三十年十月七日・意訳)という趣旨だ。
1881年、訪日した金玉均ら開化派は福澤諭吉に支援を依頼した。福澤諭吉は、新聞の発行を支援することになり、83年に「漢城旬報」が発行された。
しかし、翌84年12月、開化派が一掃され、金玉均は日本に亡命、「漢城旬報」の印刷所も焼き討ちにあって廃刊した。その交流で実感したのだろう。
福澤諭吉は、西洋列強のアジア侵略に対し、日本が中国や朝鮮に力を貸して連帯して抵抗すべきだと考えていた。
特に朝鮮を文明化し、清から独立させる必要性を説いた。朝鮮が清国やロシアの植民地になると日本の脅威となるからである。
伊藤博文と福澤諭吉は同じような考えを持っていた。伊藤博文が福澤諭吉の説を読んだのか、あるいは論じる機会があったとしても不思議ではない。
伊藤博文は韓国の国力を高める支援に取り組んだが、1909年10月26日、ロシアの蔵相ウラジミール・ココツエフと満州・朝鮮問題を話し合うために向かったハルビンで韓国の独立運動家の安重根に暗殺された。
総督府官邸があった場所で「日帝残滓」の抹消を唱える文大統領
併合反対派の中で最も力を持っていた伊藤博文が亡くなると、軍閥は韓国を併合した。110年前の1910年8月のことである。
日本政府は1927年、韓国を統治する拠点として、韓国の著名な観光地である景福宮前に総督府を移転したが、統監府が最初に建てられた正確な場所はわかっていない。60年前ほどまであった建物なのだが。
統治以前に日本の公使が滞在した場所はわかっている。朝鮮王朝は漢城(ソウル)を訪問した日本の大名や商人を饗応する施設を用意した。
施設は倭館と呼ばれ、日本が公使館を建設する1880年代まで日本の公使が宿泊した。
倭館一帯は、統治時代には大和町と改称された。現在の行政区域は忠武路だが、大韓帝国時代は倭館洞と呼ばれ、いま、マンション建設が進められている。
885年、日本政府は、この倭館洞を見下ろす南山の北麓に日本公使館を建設。公使館は1906年から統監府の庁舎となり、10年から26年まで総督府庁舎、総督府が景福宮前に移転した27年から39年まで総督官邸として使われた。
総督官邸を総督府庁の裏山に移転した39年以降は、歴代統監や総督に関する文物を陳列した記念館として一般公開された。
なお、このとき総督官邸が移転した景福宮の裏山は、いまは青瓦台(大統領府)が建っている。
文在寅大統領は総督府官邸があった場所で、日帝残滓の抹消を唱えている。
戦後誕生した李承晩政権は、1946年、旧総督官邸を博物館に変え、1954年から連合参謀本部となった。1960年から首相官邸になる予定だったが、朴正煕政権が中央情報部を設置して、一般人が立ち入りできない場所となった。
中央情報部の主な任務は北朝鮮工作員の摘発や反政府運動の取り締まりである。1973年に東京で金大中氏を拉致し、1979年に朴正煕元大統領を暗殺したのも中央情報部だが、組織はもちろん本部一帯もベールに包まれていた。
統治政府の建物跡に「国恥址」という表示
1965年、日韓基本条約を締結した日本の外務省は日本大使館の用地として、総督官邸があった南山北麓を要望したが、朴政権は拒絶して代わりに鐘路区中学洞を用意した。
表向きには反日感情を考慮して総督の跡地を避けたことになっているが、中央情報部を隠すためだったようだ。
中央情報部から改組した国家安全企画部が1995年に瑞草に移転すると、土地の所有権はソウル市に移転したが、統治政府の建物はすでになく、建っていた場所すらわからなくなっていた。
1926年に刊行された『京城の光化』という本に、大公孫樹(銀杏)があると書かれており、樹齢500年以上とみられる銀杏と日韓併合を推進した林権介の銅像の台座が見つかった辺りをソウル市は官邸が建っていた場所だと推定した。
ソウル市は、統治政府の建物があったと推定した場所を南山人権の森公園として整備する。
人権の森には「国恥址(韓国統監官邸址)」という表示がある。
日本が韓国を併合した経緯は、朝鮮王朝の開化派とその後に誕生した大韓帝国が要望し、併合反対を主張した伊藤博文を安重根が暗殺したからである。
その併合反対派の領袖を悪人と呼び、暗殺者を英雄扱いする一方、謝罪と賠償を要求する二枚舌こそ、まさに国恥だろう。
約束を守らない気質は130年以上経ったいまも変わらない。これも国恥である。
歴史を顧みず、反省しない民族に未来はない。
佐々木和義
広告プランナー兼ライター。商業写真・映像制作会社を経て広告会社に転職し、プランナー兼コピーライターとなる。韓国に進出する食品会社の立上げを請け負い、2009年に渡韓。日本企業のアイデンティティや日本文化を正しく伝える必要性を感じ、2012年、日系専門広告制作会社を設立し、現在に至る。日系企業の韓国ビジネスをサポートする傍ら日本人の視点でソウル市に改善提案を行っている。韓国ソウル市在住。
週刊新潮WEB取材班編集
2020年8月23日 掲載