人の持つ魅力を構成する要素の一つに
自信感があるようだ。
Among attractiveness factors that people have,
one of consisting elements
seems to be the sense of self-confidence.
私はその自信感の正体について
長年かけて考え続けている。
For a long time, I have been thinking
about the identity of confidence.
ある時期、私は自分の能力を信じた時があった。
Previously, I had had belief in my abilities for a certain period.
自ら設けた計画を
ある期間内で実践できる能力があると信じていた。
I believed that I was capable of my own setup plans
in a certain period.
思ったことを実行した事例が平均数値を上回ったから、
実行できる割合が高いと思ってもいた。
I also assumed that the rate of execution was high
because the real cases I had were above average
on how much I actually executed my ideas.
だからか、自信感というのは実践力、
実行力に比例すると思っていた。
That was why I thought that
self-confidence is proportional
to executable and practical ability.
それが、年を取り、
未来が過去より短くなってきて、
あれほど持ちつけていた確たる自信感に
疑問が湧いてきたのである。
But ironically in spite of such definite confidence I had,
it brought some questions to my mind
as I got older and the future I have becomes shorter than the past I had.
自信感に満ちていると、
自分という感覚がずっしり重たく感じてくる。
When you are full of self-confidence,
the sense of self-awareness becomes hefty and heavy.
やる、やらない判断に時間をかけて考えるようになる。
You become taking more time to think
about what to do and what not to do.
やれるかどうかについて精密な計算をして、
かけるべき努力をあらゆる面から打算する。
Making precise calculations about
whether you can do it and compute out
the effort you should make from every aspect.
努力の度合い✖かかる時間
The hardness of effort ✖ Time-consuming
実行するために必要とする要因✖付加的な状況
Factors required to execute ✖ additional situations
実行によって得られる報酬✖払った価値など
Rewards gained by the execution ✖ Paid off values etc.
頭の中で計算機を叩き、
加算、減算、掛け算、割り算をほぼ完璧にやって、
割り出した最後の数値によって
やる、やらない判断にかかる。
Hit the calculator in your head and
do addition, subtraction, multiplication,
and division almost perfectly,
and finally, decide whether to do it or not,
based on the last numerical value you have calculated.
要するに、出された数値に魅力を感じるかどうかが
実行の肝要なのであった。
In short, as for me, the crucial point to carry out was
whether I would be attracted or not
to the calculated numbers.
ある時は、出された数値が99%成就不可能な時があったが、
0.1%の可能性に魅力を感じて挑戦したことがある。
At a certain time, the number I calculated was
99% impossible to achieve,
but I was fascinated by the 0.1% chance
and challenged for it.
その0.1%の可能性を15年間継続させることもできた。
I could keep managed the 0.1% possibility for 15 years.
だが、今になってやっとの思いで、
社会人としてやるべきことはほぼ済まし、
他人のためにやるべきこともある程度はやり遂げて、
私個人の満足のためだけに
生きようと心を定めることができた。
Even it was such to be,
I barely finished what I should have done
as a residential duty in society,
also done some things that should do for others,
so finally, I could make up my mind to live
for fill in my own personal satisfaction.
そうしたら、ある瞬間ふっと、
あんなに頑なにまで持ち続けていた自信感の感覚が
薄れて、色あせていることに気がついた。
Then, at a certain moment abruptly realized that
the confidence I had holding it obstinately,
but it was already diminished with faded color.
今や私は自信感があるような、無いような感覚、
有っても無くてもいいような、
もはや自信感に駆り立てる必要がないような
位置つけになっているのある。
I found that I am at a place
where I no longer need to be driven by self-confidence
like I have it or I do not have it,
or else, it does not matter whether I possess it or not.
そこまで感じ取った時に、
不安感も一緒に湧いた。
When I reached the feeling,
the anxiousness came along too.
自信感無しにやろうとすることができるのか。
Can I do what I try to do without confidence?
果たして、自分が自分の能力を信じられるのだろうか。
As expected, can I believe in my abilities?
やったら自らを満足させることができるのだろうかなどの
疑問が次々と湧いてきたのであった。
Questions arose one after another,
such as if I try, would I be satisfied by the challenge?
そのような自分への疑問は、
自分しか答えをもていないため、
考えても時間の無駄なのではあるが、
It can be a waste of time to think about
those popped-out questions on myself
because the only one who can give me the answer is myself.
何しろ、私は一つの概念について考え出すと
全てが明快になるまで辞められない性質がある。
In any case, when I come up with one concept,
I tend to cannot stop to think until everything gets clear.
今は自信感が過剰でも過小でもない
中位感覚のような状態なのだが。
Now I am in a neutral position that is
neither over-confidence nor under-confidence.
それが合っていても合っていなくても、
歩むべき過程の一つなら
黙々と持ち続けるしかないだろうとも。
Whether the positioning is wrong or right,
if I have to take the step in front of me
for the path of progress,
I have no choice but to take it silently.
だが、心構えがどこにも属していない
無属感を振り払うことができないのが厄介なのではある。
But one obligation I cannot shake off is
the mental static that does not belong anywhere...
後半のことそうだろうなと思いました。
僕はほとんど勘だけの人生です。
勘のことではご批判もおありでしょうが
勘ピューターもある程度の経験とか実績は必要です。
今回の記事はそんなことをふっと考えさせました。
今日のお話も・・共かんのアラシでしょうね!!🌊
個人差はあれど、80さいくらいになったら失った自信や不安をも(まあいいや)とうっちゃっておけるようになるのかなあ?なんて考えました🌀(今度実家のお母さん=80代にきいてみますっ🐻)
私もそれだけ、かもしれません。
勘を信じて行動して
まあ、8割か7割は合ってましたけど
残りは致命的な失敗につながったこともありましたね。
勘ピューター(笑笑)の誤作動でしたね。
読み答え(応え)漢字をあえて示してなかったのが
嬉しいところです。
嬉しいことば、ありがとうございます。
そーですね。
物理哲学(最近流行りだしている分野)でも
その存在を究明しきれないようですね。
まあね、自信過剰の怖いもん知らずだった私の前歴からいわせると
自信は年取ると、『どーでもいい』
ことになりますね。
でも80代は、更に奥深い見解があるのだろうと思います。
暇がありましたら、何のご意見であったか教えてくださいね。
この論理この思考形式を不自由と感じるとき
考えられないことをも考えてしまったかのように
見えないものを見てしまったかのように
そこに表象しえるのは
おそらく詩学のみだろう。
◎ 「語りえぬもの」からの問いかけ 東大駒場
〈哲学・宗教・芸術〉連続講義を参考にして
命題に意義を与えるのは我々の思念ではないのか
・・・思念することは心の領域の中にある何かであって
・・・・・・・・・それは言わば我々の言語の夢なのだ、と。
時間という不可逆性において自信はあり得ない。
人生とは一回限り。
新たなアルゴリズムを。
考えられないことを考えようとする、
考えられることを考えられないとする。
実は、この相反する考え方が
東洋と西洋の哲学の分かれ目かなーと思っています。
見えることと見えていないことを
図太く、捕まっていられるのは
東洋で
見えていないことをは絶対領域(神など)に閉まってしまうのは、おそらく西洋の考え方の基盤かなと思います。
でも、いまや西洋も東洋もゴチャゴチャ入れ混ざってしまっていますが、
東洋が西洋に染まってしまっている割合に対して
西洋は東洋にビックともしない徹底ぶりがあります。
西洋哲学に、同様の哲学は汚れてしまっていると
私は個人的に残念だなーと思っています。
詩は、エゴや個人主義がゴチャゴチャになっていて
中々キレイな詩に出会えないなーと思っていたり、
Quantum physicsのファクターですよね。
まあー現代は全てアルゴリズムで成り立っていて、
厳密に言えば、
わたしが書くことの9割以上も
私なりの個人的なアルゴリズムから流れているでしょうね。
ZIPさんのアルゴリズムは
データーを簡略化する傾向の割合かな?と分析したり、
ZIPさんの文体は主語と述語の切り捨て割合アルゴリズムによると思ったりします。
でも、最近ZIPさんもアルゴリズムの波を少し変えていますよね。
新たなこころみですかね。